ガダマー『真理と方法』を解読する

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ガダマー
ガダマー

『真理と方法』は、ドイツの哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマー(1900年~2002年)の主著だ。1960年に発表された。

ガダマーはマルティン・ハイデガー(1889年~1976年)やポール・リクール(1913年~2005年)と並んで、解釈学の分野ではボス的な人物だ。ハイデガーに強く影響されており、本書でいう「解釈」自体、ハイデガーの主著『存在と時間』の議論をもとにしている。

本書はとにかく長い。大学で哲学を専攻していなければ読もうとは思えないほどのボリュームだ。哲学を専攻しているひとでも読む機会はほとんどないかもしれない。

ただ、初めに言っておくと、長さと対照的に中身は薄い。読み通すのに根気が要るので、ガダマーの独自性や優位性を自信たっぷりに論じる解説を読むと「そうなのかな…」と思わせられてしまう。やっかいな作品だ。

とりあえずまとめてみる

本書の主張をものすごくシンプルにまとめると、大体以下のようになる。

過去の「伝承」が現在の地平と融合するときに語り出す作品の「声」を聴き、伝承を受け継いで、現在の地平で理解する(=「適用」する)ことが、真の解釈であり理解である。理解が現在の視点から「方法」を使って行われると考えるのは思い上がり。

ガダマーは、真の解釈は現在の水準で起こるわけではなく、過去の遺産としての「伝承」にともなわれて初めて起こるのだ、と考えた。一個の主観がテキストや芸術作品に立ち向かって解釈するわけではない。真の解釈は歴史的に規定されてしまっている。そうした歴史性を無視することは思い上がりもはなはだしい。これがガダマーの主張の大枠だ。

第1部 … 解釈学は「真理」を解釈する

序論でガダマーは、解釈学の認識論的な議論を行っている。

ガダマーいわく、芸術やテキストの解釈は、近代科学の方法による学的認識とは異なる。異なるというよりも、むしろそれ独自の積極的な意味をもつ。

その意味は何か。それは伝統の「真理」を解釈によって認識することだ。

伝統の理解は真理の認識である。この真理は、近代科学の方法によって規定されるようなものではない。むしろそれは近代科学の概念を超えてしまっている。

解釈学は、そうした真理の認識を可能とする哲学や芸術、歴史の経験に積極的な根拠を与える。そうすることで、科学的な認識の方法論が要求する普遍性に対して異を唱えるのだ。

哲学や芸術、歴史といった「解釈学的現象」は独自の真理を語る。この真理を明らかにすることこそが、解釈学の目的だ。

芸術作品や歴史は真理を語る。語られる真理の声を、耳を傾けることによって聴き取ること。これが解釈学の目的である。そうガダマーは言うわけだ。

芸術の解釈について(カント美学批判)

次にガダマーは、芸術の解釈について論じる。

ここでガダマーが着目するのは近代美学、とりわけカント美学だ。

ガダマーによれば、カント以前、美的認識は教養や、共同のものによって養われる共通感覚といったバックグラウンドをともなっているものと規定されていた。しかし、カント美学は主観主義におちいり、芸術の真理を見て取ることに失敗してしまったという。

精神科学の背後には教養Bildungがある。教養には伝統の保持という性格がある。私たちは教養を通じて普遍性へ到達することができるのだ。

教養とは、私たちが自分自身に対して適切な距離を保つための普遍的な感覚である。ここではこれを共通感覚sensus communisと呼んでおきたい。

かつて共通感覚は、慣習に支えられた共同存在を前提していると見なされていた。しかしドイツ啓蒙主義、特にカントにより、共通感覚は単なる調整手段と考えられるようになった。

カントは真の共通感覚を「趣味」とした。かつては趣味も個人的なものではなく社会的なものであり、ひとつの認識のあり方とされていた。しかしカントは趣味を主観化し、認識を科学的・理論的なものに限定した。これにより、認識のあり方としては自然科学的なものだけが信頼されるようになったのだ。

では、ガダマーにとって芸術とは何だというのだろうか。それは以下のような感じだ。

芸術作品の経験は真理の経験だ。それは経験する者を、生の連関の外へ引きずり出し、彼の生全体との関係を改めて作り出す。

私たちは芸術作品を通じて他者と出会い、みずからを歴史的に理解する。芸術経験の意味は直接的、瞬間的に汲み取られるようなものではないのだ。

芸術作品の認識は、自然科学的な認識とは異なった「真理要求」をもっている。この要求を理解するには、あらゆる経験の多様性を理解しなければならない。芸術作品の認識は、開かれた出来事との出会いなのだ。

われわれはこの世界において芸術作品と出会い、個々の芸術作品においてひとつの世界と出会うのであるから、個々の芸術作品はわれわれが束の間に魅了され引き込まれるような未知の世界などではない。むしろわれわれは芸術作品において自らを理解するようになるのであり、言いかえれば、体験の不連続性と瞬間性をわれわれの現存在の連続性において止揚するのである。

芸術の経験をなんの拘束も受けない美的意識の中へ押しやってはならないのである。

芸術作品の経験は瞬間的・現在的なものではない。それは歴史的な基礎に基づいている。歴史的な基礎を受け継ぎ、そのもとで芸術作品に出会い、作品を通じて自分を理解すること、これが芸術の本質である。そうガダマーは言うわけだ。

とは言うものの

芸術作品はそれ固有の歴史をもっていて、そのバックグラウンドを知っているのとそうでないのとでは理解の度合いが変わることくらい、言われなくてもみな最初から分かっている。

教養が無くても作品のよさを理解することができるし、それについて批評することもできる。もし教養がなければ芸術の「真」の理解ができないというなら、休日に気晴らしで美術館の展覧会に行くひとたちの芸術理解は浅薄であり、本当の理解ではないということになる。こういう見方が正当でないのは明らかだ。

で、芸術の真理って結局何?

第1部の最後でガダマーは次のように言っている。

以下われわれは、芸術経験がもたらす真理を理解すると同時に、精神科学の行なっている〈理解Verstehen〉の中では、真理への問いが新たに立てられるような次元が開かれてくることがわかるであろう。

しかし芸術について論じているのは第1部だけであり、第2部と第3部で芸術の真理が何なのか明らかにされるわけではない。まさに放置プレイ。

以上が第1部の議論だ。

第2部 … 理解では「先入見」が重要

次に第2部の議論を確認したい。ここでガダマーは、理解と先入見Vorurteilに関する議論を行っている。重点は、伝承の観点から、先入見のもつ意義を評価し、これを無視した啓蒙思想を批判する点にある。

啓蒙思想は先入見を価値ナシとした。しかし解釈学的には、そうした見解もひとつの先入見にすぎない。

一切の「理解」には先入見が関わっている。先入見は決して誤った判断なのではなく、肯定的な側面ももっているのだ。

意識的に行われる理解は、理解の先取りである先入見を意識化するようなものでなければならない。そうした理解こそが正しい理解なのだ。

あらゆる先入見の克服というのが、啓蒙思想の総合的な要求であったが、それ自体ひとつの先入見であることがそこで証明されるであろう。

方法的意識によって導かれた理解は、理解における先取り(Antizipation)を単にそのまま遂行するのではなく、先取りそのものを意識化しようと努めなければならないであろう。それは、先取りを制御し、それによって事柄のほうから正しい理解を獲得するためである。

〈先入見〉はけっして誤った判断のことではなく、それが肯定的にも否定的にも評価されうることが、その概念のなかに含まれている。

真の理解は権威と伝統によって

ガダマーからすれば、主観性における理解は真の理解ではない。なぜなら理解は歴史的な先入見によって支えられているからだ。真の理解は歴史的なものであり、そうした理解は権威伝統によって可能とされる、とガダマーは言う。

実際には、歴史がわれわれに属するのではなく、われわれが歴史に属するのである。われわれが自省して自らを理解するずっと以前に、われわれは自明な仕方で、自分がそのなかに生きている家族や社会や国家において、自己を理解している。主観性という焦点は像を歪める鏡である。個人の自己反省は、歴史的生という閉ざされた回路のなかで瞬時のきらめきにすぎない。

真の理解に必要なのは権威だ。

啓蒙思想は権威の意義を無視した。しかし実際、権威は先入見の源であり、伝統によって真理を語るものとして維持されてきたのだ。

権威を盲目的な服従と見る向きもあるが、それは間違っている。権威は歴史を通じて、理性によって伝承されてきたものだ。理性は権威の前で、自分の限界を意識し、他者のほうが自分よりも優れた洞察力をもっていることを認め、彼を信頼するのだ。

権威とはもともと授けられるのではなく獲得されるものであって、その意味では理性の行為そのものに基づいている。理性は自分の限界を意識し、他の者が自分より優れた洞察力をもつことを認めて信頼するのである。

伝統Traditionもしくは伝承Überlieferungは、匿名化された権威をもっている。それが慣習となって具体化し、私たちの行動や態度を支配しているのだ。

伝統と伝承はほとんど同じもの。ガダマー自身、明確に使い分けているわけではない。こうした「いい加減さ」がガダマーの書き方の特徴だ。実際、訳者あとがきには「彼の議論には、明確な概念規定が欠けている」とある。訳者はガダマーを批判しているわけではないが、普通の意味で考えれば、これは「批判的な吟味に耐えない」ということだ。

ともあれ、そうした支配の一例として、ガダマーは古典を挙げる。ガダマーからすれば、古典的なものはまさしく権威の維持であり、過去と現在をつなぐものだ。

理解は過去と現在の地平融合Horizontverschmelzungという特徴をもっている。私という主観性が、理性の眼差しによって、完全な理解を行うことができると考えるのは誤っている。むしろ理解は、伝統や教養という形で過去の地平を受け継ぐことで行われるものだ。そうガダマーは言う。

理解はそれ自身、主観性の行為としてよりは、過去と現在がたえず互いに他に橋渡しされている伝承の出来事への参入として考えるべきである。

理解できないという挫折から真の理解が始まる

テキストを理解しようとするとき、私たちは先入見に導かれて、そのテキストが理解可能だと考える。しかしその期待が挫折し、テキストの異質さが際立たせられるとき、私たちは初めて真に理解しようとするのだ。

テキストの理解は、理解するひとと伝承を結びつける一種の共同性によって支えられている。この共同性は彼が伝承へと参入することによって維持されており、たえず形成されている。

理解するひとは、伝承から生まれる伝統に規定されている。しかしそれは完全な規定ではない。彼と伝統の間にはいくらかの不一致、つまり時代的な隔たりがあると考えなければならない。

時代的な隔たりによって先入見は「ろ過」され、新たな理解がわき出してくる。そうした隔たりが無いところでは、先入見は暴走し、理解はおぼつかないものとなる。時代的な隔たりがあることによって真の理解が可能となるのだ。そうガダマーは言う。

時代の隔たりが確かな尺度を与えてくれないところでは、判断に独特の無力がつきまとうことは知られている。だから、現代芸術に対する判断は、学問する者の意識にとっては絶望的なまでにおぼつかない。明らかに、そのような創作物に接近する際にわれわれが携えているのは、制御の効かない先入見である。

時代の隔たりにおいては、つねに新たな誤りの原因が締め出され、その結果として、真の意味があらゆる濁りから濾過されるというだけではない。そこからはたえず新たな理解が湧き出し、予期しなかった意味のつながりを明るみに出している。

伝承の歴史的な連鎖=「作用史」

理解には本質的に歴史性が属している。理解は歴史的なものであり、伝承によって規定されている。

ガダマーはここで、伝承が歴史のなかで及ぼした作用の連鎖を作用史Wirkungsgeschichteと呼び、みずからの歴史性を踏まえて作用史を理解しようとする意識を作用史的意識wirkungsgeschichtliches Bewußtseinと呼ぶ。

反ヘーゲル的歴史観

ガダマーが作用史とか作用史的意識という聞きなれない用語を使う背景には、ヘーゲル的な歴史観の存在がある。

ガダマーいわく、ヘーゲル的な歴史主義は、過去と現在の相互作用を見落とし、単に過去の見方に立ち戻れば歴史学的な客観性に達することができると考えた点で誤っている。歴史主義は、理性による第三者的な視点から歴史のプロセスを把握することができるとしていたが、これは思い上がった主張にすぎない、と。

自分自身の概念や観念ではなくその時代の概念や観念で考えるべきであり、そのようにすれば歴史学的客観性にまで進むことができる——こういったことはむしろ歴史主義の素朴な前提であった。

ガダマーが提案する作用史は、現在と過去の地平融合の連鎖であり、いわば伝承を通じた過去と現在の対話の過程のことだ。

現在の地平は過去なしでは形成されない。獲得しなければならないような歴史的地平が存在しないように、現在の地平もそれ自体で存在しない。むしろ、理解とはいつも、そのようにそれ自体で存在しているように思われる地平の融合の過程である。

理解が遂行される際に、歴史的地平を思い描くと同時に、それを排棄する本当の地平の融合が起きている。このような制御された地平の融合の遂行を、作用史的意識の課題としよう。

現在の地平はたえず過去へと繰り込まれ、また新たな地平がやってくる。未来の歴史は決定されておらず、つねに開かれている。だから作用史の全体を理解することはできない。

歴史は理性に対して完全に明らかになることはないし、作用史も同様だ。そうすることができると考えるのは、ヘーゲルの「絶対知」と同様、思い上がった主張にすぎない。

作用史がいつか完全な形で知られるというのは、ヘーゲルの絶対知の要求と同様不遜な主張である。ヘーゲルは、絶対知において歴史が完全に透明になり、それゆえ概念の立場に高められると言う。

経験の弁証法は経験の克服によって終了しなければならない。この経験の克服は絶対知において、つまり、意識と対象の完全な同一性において得られる。ここからわれわれは、なぜへーゲルの歴史概念によっては解釈学的意識を正当に評価できないのかを理解することができる。ヘーゲルは歴史が哲学の絶対的自己意識のうちに含まれていると考えたのである。

ヘーゲルの絶対知は、ガダマーが言うような「意識と対象の完全な同一性」というような曖昧なものではない。これは、私たち人間の良心Gewissenのことを指している。

正しさの根拠が超越的な理想(=神)ではなく、個人的な内的確信を他者関係のうちで相互に承認することにしか存在しないことを知っていること、これがヘーゲルのいう良心だ。絶対知の内実は良心であり、良心において絶対知は潜在的に達成されていたのだ、と(『精神現象学』)。ガダマーのヘーゲル理解はあまりに浅薄だ。

一方、作用史的意識とは、自分が歴史性に規定されていることを自覚しつつ作用史に参与し、これを把握しようとする意識のことだという。

歴史意識は歴史的な制約性を克服し、過去を支配できると思い上がっていた。これに対して、作用史的意識は歴史的制約性を認め、伝承へと開かれた態度を取る。

歴史意識は他なるものを承認する際に、自らの歴史的制約性を完全に克服できると主張することにより、弁証的仮象にとらわれる。というのも、歴史意識はいわば過去を支配しようとしているからである。

伝承との生きた関係から反省によって抜け出る者は、伝承の本当の意味を破壊してしまう。

歴史意識はテクストを〈歴史学的 historisch〉に読むとき、伝承をいつもすでに、あらかじめ根本的に平板化してしまい、その結果、自身の知の基準は伝承によってけっして危うくされることがないのである。

歴史はヘーゲル的なものではなく、理性の判断を絶えず超え出るようなものだ。歴史における経験は完全には規定できず、「問い」として保持される。

テキストの意味を理解するためには、テキストの背後に遡らなければならず、「問い」を再構成することを通じて、新たな地平へと進み行くことが必要である。しかしその地平もまた、伝承に規定されている私たちを包括する地平によって包み込まれているのだ。

理解しようとする者は、したがって、問いつつ、テクストに言われている事柄の背後に遡らなければならない。

作用史的意識は伝承を経験へともたらし、伝承のなかで出会われる真理請求(Wahrheitsanspruch)に対して自らを開いておくことにより、そのような同化と比較の素朴さを超える。解釈学的意識はその方法論的な自己確信においてではなく、(独断論的に先入見にとらわれた者と対照的に経験豊かな者が同じくもつ)経験への心構えとして完成する。これが作用史的意識の特徴である。

対比してみると

ごちゃごちゃ書いてあるので分かりにくいが、要するに以下のような感じだ。

  • 歴史意識(ヘーゲル)
    • 歴史には終わりがあり、プロセスの全体を理性で把握できると考える
  • 作用史的意識(ガダマー)
    • 歴史は現在の地平を繰り入れて絶えず展開していくので終わりがなく、理性によって全体を把握することはできない(=理性を超え出ている)と考える

「適用」=現在の地平で「理解」を行うこと

次にガダマーは、適用Applikationという概念について論じる。

適用と聞くと難しく感じるかもしれないが、簡単に言うと、これはテキストが語る意味を、伝承を用いて、現在の地平において理解することを意味している。具体的な状況に応じた理解、生き生きとした状況のうちで臨機応変に行われる理解、これをガダマーは適用と呼んでいる。

文献学および歴史的精神諸科学の領域における解釈学は、けっして〈支配知Herrschaftswissen〉、つまり占有としての同化、ではなく、われわれを支配しようというテクストの要求に従うのである。法解釈学や神学的解釈学はこのことを示す真の模範である。法的意志の解釈であること、神の約束の解釈であること、これは明らかに支配の形ではなく、奉仕の形である。正しかるべきものに奉仕することによって、これらの解釈は、適用を含む解釈となる。さて、ここで主張されるべきテーゼは、歴史的な解釈学もまた適用を完遂しなければならない、というものである。

適用のニュアンスは、テキストの伝承が私の意識に先立っている、という点にある。私がテキストを理解するのではない、テキストが私に理解させてくれるのだ。

私たちはテキストの普遍的な意味を理解して、そのうえで何らかの状況にこれを適用するわけではない。理解は初めから適用だ。理解するひとは、伝承を自分に適用し、現在と過去の地平融合を行っているのであり、むしろそうしなければならないのだ。

解釈者は伝承が語ること、テクストの意味や意義であるものを理解するということ以外を望んでいないのである。しかし、テクストの意味を理解するためには、解釈者は自分自身を、そして自分がおかれた具体的な解釈学的状況を度外視しようとしてはならない。解釈者は、およそ理解をしようとするのであれば、テクストをこの状況に結びつけなければならないのである。

適用とは、普遍的なものが与えられていて、その普遍をまずそれ自体で理解したのちに、具体的な事例にあとから当てはめることではない。適用とはまず、われわれに与えられたテクストが示す普遍性そのものを現実に(wirklich)理解することなのである。

理解が歴史的な地平融合だということは、すでに上で論じられている。ここで何か新しいことを言っているわけではない。

以上が第2部の議論だ。

第3部 … 解釈は言語を通じて行われる

次に第3部の議論を見ていくことにしよう。ここでガダマーは言語に着目し、言語が解釈の前提であり、地平融合を行うための媒体Mitteであると主張する。

上で見たように、ガダマーによれば、理解は過去と現在をつなぐ(=地平融合する)ものである。ガダマーがここで言いたいのは、理解のための媒体が言語であるということだ。

言語とは、そこにおいて対話者同士の意思疎通と、事柄についての了解が行なわれる中間(Mitte)なのである。

解釈学の問題は、正確に言語を使いこなすといった問題ではなく、言語という媒体のなかで起きる事柄をいかに正しく了解するかという問題である。

言語は、理解自体がそのなかで遂行される普遍的な媒体である。そしてどのように理解を遂行するかが解釈なのである。

対話は単なる情報伝達ではない

始めにガダマーは「対話」に着目する。

ガダマーはここで、対話とは単なる情報伝達ではなく、他者へと耳を傾け、自分の思考にフィードバックしつつ相互に理解し合うことであるというどこかで聞いたことのあるような主張を行う。ちなみに、ヤスパースも似たようなことを「交わり」という概念で論じていた。

「交わり」については、こちらで解説しました → ヤスパース『哲学入門』を解読する

対話とは、意思疎通のプロセスである。それゆえ、真の対話であれば、他者の言葉に耳を傾け、そのひとの視点を承認し、また、そのひとの個性ではなく、言っていることを理解しようとするという意味で、相手に自らを置き換えるのである。捉える必要があるのは、言っていることの内容が正しいかということであり、それによってわれわれは互いにその事柄について同意することができる。したがって、われわれは相手の見解をそのひとにではなく、われわれ自身の思い(Meinen)や思い込み(Vermeinen)にフィードバックしている。

とにかく言語的な解釈が先立つのだ

ここでおそらく、「言語が過去と現在をつなぐものだというなら、造形芸術はどうなのか?」と思うひともいるかもしれない。これに対してガダマーは、「いや、造形芸術は直接的であり、理解されるようなものではない。理解はやはり言語に属するのだ」となかば強引に論じている。

造形作品や音楽である場合にも解釈は行なわれる。そのような解釈の形式があるからといって、問題はない。そうしたたぐいは言語的ではないが、実際には言語性を前提にしているからである。たとえば対比の手段を用いて、なにかを具体的に示すことがある。つまり、ふたつの絵を並べて見る、あるいはふたつの詩を交互に朗読するといったことで、一方を他方から解釈するのである。そのような場合、いわば具体的に示すことが言葉による解釈に先んじてはいる。しかし実際にはそれは言語的な解釈の変形である。

率直なところ、この主張は説得力があるとは言いがたい。むしろ音楽は、まず「琴線に触れる」という仕方で情感に訴えかけるものだと見るほうが、はるかに説得力があると思うが、どうだろうか?

ギリシア的言語観とキリスト教的言語観

次いでガダマーは、ギリシア的言語観とキリスト教的言語観に着目する。ここでのガダマーのポイントは以下のような感じだ。

  • ギリシア的言語観(プラトン)
    • 思考と言語を切り離した結果、言語を記号のマッピング体系とみなす近代的言語観の前提となった
  • キリスト教的言語観(三位一体説)
    • 三位一体説は思考と言語の一体性を示している
  • ギリシア的言語観よりキリスト教的言語観のほうがイケている

考えることと話すことのあいだの人間的な関係が、不完全ではあるが三位一体という神的な関係に対応しているからである。精神の内的な言葉と思考は、神の子と父なる神が同一であるのとまったく同様、本質的に同一なのである。

言語は記号の体系ではないと言いたい(権威に頼って)

何故ガダマーが、わざわざ言語の説明に三位一体説を持ち出してこなければならなかったのかというと、それはおそらく、言語が記号の体系ではないという主張を行うための権威として使いやすかったからだ。

思考することと自らに話しかけることのあいだにある内的な一体性は、受肉という三位一体的な秘義に対応しているが、そこには、精神の内的な言葉は反省的な行為によっては形成されないという意味が含まれている。

ガダマーの構図では、理解は言語による伝承を通じて行われる。理解が地平融合であり、歴史的なプロセスであるとする以上、言語が現在の知覚に基づいているとするのは都合が悪い。そこで、言語が具体的な状況のうちで「受肉化」するとしておけば、言語を記号の体系とする見方を、キリスト教の権威の力で簡単にひねり潰すことができる。ガダマー的には、「理解」は「権威」に基づいているので、権威の力が強ければ強いほど都合がよい。

語の意味によって表されている普遍的な概念そのものが、その都度の具体的な事柄の見方によって、より豊かなものとなり、その結果、場合によっては、事柄の見方の特殊性にさらに適合した、さらに特殊な新しい語が最後には形成されることを意味している。

道具主義的な記号理論は、語や概念をすでに用意されているか用意しうる道具と捉えていて、当の解釈学的現象を見誤っていることは明白である。

人為的了解のために考案された体系は、けっして言語ではない。というのは、人工言語、たとえば隠語や数学記号は、言語・生活共同体を基盤としておらず、ただ了解の手段・道具として導入され応用されるからである。

世界は言語であり、言語は世界である。言語は認識と対象の関係に先立っていて、対象は言語の地平に取り囲まれている。世界は言語の対象とはならないのだ。

言語は「受肉化」する。言語を通じて理解が行われ、伝承が新たに言語化される。こうしたプロセスは、自然科学的な合理的構成、測量化とは本質的に異なるものである。そう主張したいがためにガダマーがここでわざわざ三位一体説を引っ張り出してきたと見ても、あながち間違っていないはずだ。

われわれが前提としているのは、人間の世界経験の言語的把握においては、眼前存在者が考量され、測定されるのではなく、存在し意味をもつものとして人間のまえに現れるような存在者が言葉へといたるということである。その点に—近代の数学的自然科学を支配している合理的構成という方法論的理想にではなく—精神科学において行なわれている理解との共通性が再確認されうる。

問いと答えの弁証法は、したがって、解釈の弁証法につねにすでに先行している。問いと答えの弁証法こそ理解を出来事として定めているのである。

伝承の意味すべては、理解する私との関係のなかで、意味の理解という具体化の場を見いだすのであって—最初に意味を考えた私〔作者・著者等〕の再構成のなかなどではないということである。

解釈学こそが哲学

私たちは世界へと言語によって関わるのであり、その関わり方自体が言語によって理解可能となる。解釈学は単なる精神科学の方法的な基礎なのではない。それは哲学そのものの普遍的なあり方でもあるのだ。そうガダマーは言う。

問題提起は、その具体的な出発点であった美的意識および歴史意識に対する批判や、それにとって代わるべき解釈学から、さらに普遍的な問題設定へと拡張したのである。というのも、人間の世界へのかかわりは、絶対的かつ根本的に言語的であり、同時に理解可能なものだからである。その意味で、解釈学は、すでに見たように、哲学の普遍的な相であり、ただ単にいわゆる精神諸科学の方法論的な基礎なのではない。

「方法」によっては「真理」は保証されない

精神科学の認識は、それが科学的方法によっているという点では限界がある。ただ、私はここで精神科学を否定したいわけではない。

言いたいのは次のことだ。精神科学によって到達できない真理は、問いを通じて探究されなければならないし、また、そうすることによって真理は保証される、ということだ。

精神科学の認識において、認識者自身の存在もそれにかかわり合っているということは、たしかに〈方法 Methode〉の限界を示している。しかし、それは学問の限界を示すのではない。方法という道具がなしえないことは、むしろ真理を保証する問いと探究という規律を通してなされなければならないし、またそれによって真理が保証されるのである。

デカルト
デカルト

デカルトは『精神指導の規則』という論文(未完)のなかで、「真理」の探究には「方法」が必要である、と主張している。

デカルトのいう真理とは、数学的な意味での真理、すなわち、明晰で明白な直観から出発し、演繹という方法に従って合理的に考えれば、誰もが到達でき、かつそうならざるをえないような認識、つまり共通了解のことを指している。

共通了解は、権威や伝統といった後ろ盾を排したうえで、人びとの間で行われるフェアな確かめ合いの言語ゲームのうちで達成される認識のことだ。デカルトのいう「方法」とは、その言語ゲームのうちで守られるべきルール、規則にほかならない。

一方、ここでガダマーが言おうとしているのは、真理は、歴史的な存在である人間が、「伝統」の解釈を通じて手に入れることができるものだから、方法のような道具によって行うことはできない、ということだ。

“真の理解”に必要なのは、伝統、権威、先入見であって、方法ではない。真理は歴史的な解釈によってあらわにされるべきものであり、主観が方法を使って真理に到達できるとする見方は、先入見の意義を認めない啓蒙主義のおこがましさの表れである。ガダマーが言うのは、要するにそういうことだ。

ただ、率直に言うと、ガダマーの批判は的外れだ。

ガダマーの言う真理は、伝統の作用史の流れのうちで行われる「解釈」によって掘り当てられるべきものだ。だが、この構えには決定的な問題点がある。ガダマーは、伝統を“正しく”受け取り、それを”正しく”適用することが、真理を保証すると考えている。だが、その受け取り方、適用の仕方が本当に正しいと判断する客観的・普遍的な標識、規準はどこにも存在しない。

デカルトのように、真理を共通了解として捉えれば、真理の規準は、共通了解の言語ゲームにおける各人の間の了解という点に置くことができるし、またそうするほかない。これに対して、ガダマー的には、権威のあるひとが「これが正しい」と言えば、それが正しいことになる。しかしそれは学問と言うよりもむしろ宗教に近い。

確かに、教養という形で身についた伝統が、そのひとの直観を豊かにしてくれることはある。ある事柄を見たときに、背景知識を持っているのといないのとでは、直観の質が大きく異なってくる。だがそのことと、学問の根拠をどこに置くかという問題は本質的に別のことだ。

以上が第3部の議論だ。本書の議論はここまで。

初めから時代遅れの権威主義

初めに本書の全体像を以下のようにまとめておいた。

過去の「伝承」が現在の地平と融合するときに語り出す作品の「声」を聴き、伝承を受け継いで、現在の地平で理解する(=「適用」する)ことが、真の解釈であり理解である。理解が現在の視点から「方法」を使って行われると考えるのは思い上がり。

ここまで見てきたら分かると思うが、本書で主張しているのはまさしくこのことであって、これ以上のことは何も言っていない。確かにボリュームはあるが、基本的には同じことの繰り返しだ。そもそも本書自体が、本質的には、ハイデガーの二番煎じでしかない。

二番煎じどころか、発表された当時においてさえ時代遅れだったといえる。

本書が発表された1960年までに、言語論ではヴィトゲンシュタインやソシュールといった革新的な思想家が現れていた。言語ゲーム論を展開した『哲学探究』が発表されたのは1953年だし、ソシュールの思想は、講義ノートなどを通じて、1950年代から次第に明らかにされていた。しかしガダマーは本書で彼らに一切言及していない。ラッセルやサール、オースティン、クワインといった分析哲学も完全無視だ。それは果たして言語論としてもどうなのだろうか?

ガダマーには「自分こそが哲学の伝承を正統に受け継いでいる」という自負感があったかもしれない。だが、そうした自負があればこそ、最新の学問的知見を徹底的に吟味する必要があったはずだ。自分の城にこもって、都合のいい事実を取り入れているだけでは、到底哲学の伝承を受け継いでいるとは言えない。ただの面倒臭い権威主義のオッサンでしかない。