フロイト『精神分析入門』を解読する

『精神分析入門』Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyseは、オーストリア出身の心理学者フロイトによる著作だ。1916年から1917年にかけてウィーン大学医学部で行った講義をもとにしており、同年、全3巻で出版された。

本書は3部構成となっている。

  1. 錯誤行為
  2. 神経症総論

なお、本書の続編として、『続精神分析入門』Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyseが1933年に出版されている。これは『精神分析入門』のように実際に大学の講義で使われたものではないが、同じ形式で著されている。以下では『続精神分析入門』もあわせて確認していくことにする。

『精神分析入門』では『夢判断』や『性理論三篇』、『続精神分析入門』では『快感原則の彼岸』や『自我とエス』などで論じた内容が概説されている。両方あわせて読んでおけば、フロイトの議論の全体像はつかめるはずだ。

それではまず、『精神分析入門』について見ていくことにしよう。

シュピーゲル社のProjekt Gutenbergで原文が公開されています。参考までに → Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse von Sigmund Freud - Text im Projekt Gutenberg

1.錯誤行為

まずはじめにフロイトは、錯誤行為Fehlleistungenについて論じる。

錯誤行為とは、たとえば言い間違いや書き間違いのことであり、他には「ど忘れ」や、完全に忘れてしまうことがある。

錯誤行為は不注意によって起こるとされることがある。しかし必ずしもそうであるとは限らない。むしろそれは、間違えないようにと注意しているときに限って起こる。

最も身近な言い間違いは、言おうとしていたの反対のことを言ってしまうことだ。それらは音の響きという点では異なるが、心理的には非常に近い関係にある。実際にこんな例がある。ある衆議院議長が会議を開くにあたって、「それではここに閉会を宣言いたします」と言ってしまったのだ。

不快感や疲れは、錯誤行為を引き起こす要因ではある。しかしそれらは必須の条件ではなく、むしろ補助的なものだ。錯誤行為はそれ自身において意味のある行為なのだ。

確かに私たちは普通に生活していると、言い間違いをしたり書き間違いをしたりするし、ど忘れもする。そうした錯誤行為をしないようなひとは、ほとんどいないはずだ。

錯誤行為は意向同士の葛藤の現れ

私たちが錯誤行為を行う根本の理由は何なのだろうか?

フロイトはこの問題に対して、錯誤行為は心的な意向同士の葛藤を表現したものであり、その動機は不快からの逃避だ、と答える。

錯誤行為には、妨げる意向と妨げられる意向がある。それら相互の葛藤が表現されたものこそ、錯誤行為にほかならない。先の例で言えば、議長の言い違いの意味は、「私は開会を宣言するが、内心は閉会したい」という気持ちの表れなのだ。

その意味で、「ど忘れ」は分かりやすい。これは何かをしたくないという反対意志によって引き起こされるものだ。

錯誤行為の根本的な動機は、不快を回避しようとする意図、不快からの心理的逃走にある。これはど忘れだけでなく、怠慢など多くの錯誤行為にとっても当てはまることだ。

心的現象を力動的に把握することが目的

この実例によってわれわれの考えている心理学の意図のいかなるものであるかがおわかりになると思います。われわれは現象をただ記述したり分類したりしようとしているのではありません。現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとして捉えること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目ざして働いているもろもろの意向の現われとみたいのです。われわれは心的現象の力動的な把握を求めているのです。

心理学的に見て、錯誤行為は、私たちの心が刺激-反応のスタティックな機構ではなく、ダイナミックな構造であることを示している。そうフロイトは言う。

2.夢

次にフロイトは夢について論じる。

ここでのポイントを大ざっぱに言ってしまえば、夢とは、日中は無意識的なものとして抑圧されている性的願望(潜在思想)が、緩んだ「検閲」のもとで歪曲されて顕在化する視覚像であり、夢の解釈は、潜在思想と顕在夢の間の「象徴関係」を手がかりに、夢を見た本人の自由な連想のもとで行われるものである、というものだ。

無意識とは単に「意識されていないもの」ではない。それは独自の願望、表現形式をもった領域である。しかもその願望は性的なものだ。無意識という概念にこうした内容を盛り込んだのはフロイトが初めてだ。

無意識はもはや、その時に潜在的だったものに対する名称ではありません。無意識とは、独自の願望の動き、独自の表現形式、およびそれ以外の世界では活動していない独自の心的機制をもった特殊な心的領域なのです。

夢の検閲

一般に、夢は支離滅裂なことが多い。現実に近い夢を見ることもあるが、たいていは非現実的だ。時間的に不連続で、論理的な整合性をもたない。ついさっきまで家にいたのに、次の瞬間には外で友達と歩いていたり、空を飛んでいたと思えば学校にいたりする。それは何故だろうか?

フロイトいわく、夢が支離滅裂である理由は、夢の潜在思想が検閲されるからだ。

ここで、潜在思想とは、以下のようなものだ。

われわれは、夢の物語るものを夢の顕在内容と呼び、いろいろと思い浮ぶことを追求して到達できるはずの隠されているものを夢の潜在思想と呼ぼうと思います。

夢はそれ自体が願望なのではない。空を飛ぶ夢を見るのは実際に空を飛ぶことができたらと願っているからではない。そうではなく、これは潜在思想が「翻訳」された結果現れる表現なのだ。そうフロイトは言う。

夢の検閲は、この「翻訳」に際して生じる心の働きだ。

潜在思想は無意識的なものであり、夢はこれを代理している。その際に行われる「検閲」によって、夢が歪曲されるのだ。

検閲される内容は、倫理的・美的・社会的に見て全く非難に値する意向、利己的であり性的に禁じられた欲求である。抑圧された願望が夢となり、間接的に現れるのだ。それはおそらく、日中に働いている検閲の働きが、夜になると多少弱まるからではないか、と考えている。

夢は「検閲」され歪曲された性的な願望の表現

夢は性的なものを象徴的に表現する

潜在思想と顕在化された夢との関係を、フロイトは象徴関係と呼ぶ。

フロイトいわく、夢の解釈には象徴関係に関する理解が欠かせない。象徴関係について理解し、これを自由連想と併用することで、顕在夢から逆に辿って潜在思想を解釈することができる。そうフロイトは考える。

フロイトによれば、象徴の大多数は性的なものだ。具体例としてフロイトは以下のようなものをあげている。

人目にもたち、両性にとって関心のある性器の部分でもある陰茎を象徴的に代理するものは、第一には形の上で似ているものです。すなわち長くて突き出ているもの、つまりステッキ、傘、棒、木などです。第二には、陰茎と同じように体内に侵入して傷つけるという点で共通性をもつもの、すなわちメス、懐剣、槍、サーベルなどあらゆる種類の尖った武器、また小銃、短銃およびその形からみてはなはだふさわしい連発式ピストルなどの飛び道具が陰茎象徴となります。不安をともなう少女の夢では、メスとか飛び道具をもった男性に追いかけられる場面が大きな役割を占めています。これなどはおそらくもっともよくみる夢の象徴で、みなさんが容易に翻訳しうるものの実例だと思います。また、すぐ男性の陰茎の代理とわかるものとして水を吹き出すもの、すなわち蛇口、じょうろ、噴水などや、伸びちぢみすることができるもの、すなわち吊りランプ、シャープペンシルなどがあります。

女子性器は、腔洞があって中にものを容れることができるという性質を備えたすべての対象によって象徴的に表現されます。すなわち、凹み、溝、洞穴、管、瓶、箱、小箱、トランク、筒、荷箱、ポケットなどによってです。船もこの系列にはいります。どちらかといえば、女子性器によりも子宮に関係をもっている象徴もかなりあります。たとえば戸棚、竃、とくに部屋です。

フロイトのこれらの例えはそれなりに有名だが、かなり無理があると言わざるをえない。長さは相対的なものだから、原理的には、どんな物体でも男性器を象徴できることになってしまう。女性器についても同様だ。

最大の問題は、象徴の対応関係が原理的に証明できないということだ。なぜ原理的かというと、潜在思想は無意識的なものであり、それを意識化したときに「正しく」表現できているかどうかは証明できないからだ。一致を証明するためには潜在思想は最初から意識的なものでなければならないが、これだと前提に反してしまう。

シンプルに言えば、ステッキが男性器を象徴していると言わざるをえない証拠はどこにもないということだ。一見それらしく思えるかもしれないが、どこまでも行っても証明できない。

夢が行う3つの作業

ともあれ、フロイトによれば、夢は以下の3つの作業を行う。

  1. 圧縮
    • 潜在夢から顕在夢への翻訳
  2. 移動
    • ほのめかしによる代理、アクセントの移動
  3. 視覚像への翻訳
    • 思想を視覚像へと翻訳する

第1の作業は圧縮だ。これは、潜在夢を省略しつつ翻訳することで顕在夢が生まれるということだ。圧縮の程度には差があるが、つねに潜在夢のほうが顕在夢よりも内容に豊んでいる。逆方向の圧縮はない。

第2の作業は移動だ。これは2つの仕方で行われる。ひとつは、夢において潜在思想がそのものとして表現されることはなく、ほのめかしによって代理されること、もうひとつは、心的なアクセントがあまり重要でない要素に移されることだ。これにより潜在思想の意向がそのまま表現されることはなくなる。

第3の作業は、思考から視覚像への翻訳だ。その際、「なぜ」「だから」「そして」などの論理関係を示す語は消去され、中身だけが感覚的・視覚的に表現される。

フロイトいわく、見た夢について語るのが難しい理由は、思考から視覚像へと翻訳された夢を、再び思考へと翻訳し返さなければならないからだ。

「昼の名残」と潜在思想

ここでフロイトは、潜在思想と「昼の名残」を区別する。フロイトによれば、昼の名残は潜在思想の一部にすぎず、これに潜在思想の願望が加わることによって夢が生じる。夢を生じさせる力はあくまで無意識的な願望だが、夢は「昼の名残」を手がかりとして現れるのだ。フロイトはそのように言う。

結局われわれの見解では、昼の名残の上に、これも無意識に属していたあるもの、すなわち強力ではあるが抑圧を受けていた願望の動きが付加されて、この願望の動きのみが夢を形成することができたということになるのです。

解釈に対する抵抗

夢の解釈は、夢を見た本人からの抵抗にあう。「いや、私はそう思っていない」「私は非難されるべき性的な欲求を持っていない」、と。

だが、こうした反論を正当なものとして受け入れることはできない。むしろ、抵抗が強いほど、そこには無意識的なものを理解するために重要なものが隠されている。夢解釈はこうした抵抗に打ちかって行われる必要があるのだ。

われわれは、夢の物語るものを夢の顕在内容と呼び、いろいろと思い浮ぶことを追求して到達できるはずの隠されているものを夢の潜在思想と呼ぼうと思います。

やましいからこそ逆に強く反論するのと同様、強く抵抗するのには何か裏があるはずだ。夢解釈はその裏を理解することへと向かっていく必要がある。そうフロイトは言う。

強く抵抗することには何か裏があるはず。その裏を明らかにしようとするのが夢解釈。

3.神経症総論

続いてフロイトは、神経症(ノイローゼ)と性的倒錯が発症する構造、条件について論じていく。

フロイト的には、性的倒錯には2つのタイプがある。『性理論三篇』では次のように整理されていた。

  1. 性対象(=性的な欲求が向かう人間)について
    • ゲイ、レズビアン、バイセクシャルなど
  2. 性目標(=性的な行為)について
    • 性器以外の部位が性目標となること(フェティシズム)
    • 途中の段階に停滞すること(のぞき、露出など)

フロイトの見解を先取りして言えば、神経症と倒錯が生じる条件は、リビドー(性欲動を動かす力)と自我の関係のうちにある。

ここで重要な鍵を握るのが、私たちの性的な体制の展開プロセスだ。

私たちは、性的な体制をあらかじめ備えて生まれるわけではない。それは幼児期から思春期にかけて、大きな変化を遂げつつ成立する。このことはフロイトを度外視しても納得できるはずだ。

そこで、まずは性的な体制の展開プロセスに関するフロイトの主張を確認しておくことにしよう。基本的には『性理論三篇』と同じ内容なので、知っているならパスしてもOKだ。

『性理論三篇』はこちらで解説しました → フロイト『性理論三篇』を解読する

幼児性欲からエディプス・コンプレックスへ

フロイトいわく、幼児にも性欲動はある。それは思春期以後の性欲動とは異なる独自性をもっている。その独自性をひとことで言い表すと、「自体愛的」であることだ。これはつまり、性欲動が自分自身に向かい、自分の身体で性的な快感を感受するということだ。

幼児は主に次の2つの方法で快感を自体愛的に感受している。ひとつは「おしゃぶり」であり、もうひとつはトイレだ。

おしゃぶりは、栄養摂取から独立して、幼児に満足をもたらす。幼児は栄養を取る必要がないのに、その際の動作を反復しようとしている。おしゃぶり済ませた幼児が満足そうに寝入ることのうちに、おしゃぶりがそれ自体で快楽をもたらしていることが示されている。

同様のことがトイレにも当てはまる。幼児はその際、快感を感受しており、粘膜部を興奮させて快感を得られるように調整していると考えられる。

こうした自体愛的な段階をフロイトは「前性器的体制」と呼ぶ。フロイトの説では、前性器的体制は6歳まで続き、その後8歳まで、性的な体制の展開は中断される(潜伏期)。

フロイトによれば、前性器的体制の展開プロセスの締めくくりに「エディプス・コンプレックス」が現れる。

前性器的体制の発展がほぼ完結に至ると、性対象(リビドーが向かう人間)としては、口唇期に栄養摂取を通じて得られた対象、すなわち母親が見出される。口唇期と異なり、この段階では、対象は一人の人間としての母親だ。

幼児を観察すると以下のことが分かる。すなわち、小さい男の子は母親を独占しようとし、父親を邪魔と感じること、父親と母親が仲良くしていると不機嫌になること、父親が不在だと満足することなどだ。

同様の事態が女児にとっても当てはまる。女児の可愛さの背後には、母親に対する敵視と、父親の愛情を独占したいという欲求が隠れているのだ。

幼児にとって、家族関係は決して調和的なものではない。男児にとっては母親、女児にとっては父親の愛情をめぐり、同性の親と争わなければならない。こうした複雑な力関係が幼児にとっての家族関係の内実である。そうフロイトは言うわけだ。

様々な分析から考慮すると、潜在期を経て思春期になると、幼児期の性対象がふたたび取り上げられることが明らかになる。幼児期と比べて、はるかに強力な過程がエディプス・コンプレックスを強化する方向、もしくはこれに反対する方向へと働く。

この時期から個々人は、両親からの権威から独立して、社会の一員となるという課題に向かう。それを完了させることで、私たちは幼児から個人となり、社会の一員となるのだ。

もっともフロイトは、家族関係における葛藤を親子関係に限定しており、兄弟姉妹間で両親の愛情をめぐる競争についてはほとんど論じていない。だが実際には、兄弟姉妹間も親子関係と同様に葛藤をもたらしうる。それについて論じなかったことは、やはり手落ちと言わざるをえない。

エディプス的な状況は「心的現実」

一般的な感覚では、「エディプス・コンプレックスが必ず生じるとは限らない」と思うのが常識的だ。どれだけ考えても、母親に対する性的欲求を抱いたことはないし、父親と争った記憶もない。そう思うひとは少なくないはずだ。神経症の患者が幼児期にエディプス的な状況で葛藤を経験したとも言えない。

だが、フロイトいわく、実際にそうした経験があったかどうかが問題となるわけではない。患者にとってそれが必ずしも真であるわけではなく、空想のときもある。しかし問題なのは、そうした空想が一定のリアリティをもって受け取られていることであり、神経症ではそうした心的現実性が鍵となるのだ。そうフロイトは言う。

分析によって構成あるいは想起された体験は、ある時は明らかに虚偽であるが、ある場合には確実に正しいものであり、たいていの場合には真偽が混淆しているというのが事態の真相なのです。つまり症状は、ある時は実際に起った体験の表現であり、その体験がリビドーの固着に影響したとみてさしつかえないですし、またある時は患者の空想の表現であって、病因としての役割を果すには言うまでもなく全く不適当なものなのです。

これらの心的産物もまた一種の現実性をもっています。患者がこのような空想を作り出したということは、あくまで一つの事実であり、この事実は、患者の神経症にとっては、患者がこの空想内容を実際に体験した場合にも劣らない重要な意味をもっているのです。これらの空想は物的現実性とは反対に心的現実性をもっているのです。そして、神経症の世界では心的現実性が決定的なものであるということをわれわれは次第に了解するようになるでしょう。

倒錯と神経症

フロイトいわく、倒錯と神経症では、リビドーの「退行」が生じる。これはリビドーが前性器的な段階へと戻り、そこに固着することを指している。一方、神経症は、自我の検閲がリビドーの退行に反抗し、それが固着した箇所で抑圧するゆえに生じると言う。

倒錯に至る道と神経症に至る道とははっきりと分れているのです。これらの退行が自我の反抗を呼びさまさなければ、神経症にはならず、リビドーは、たといもはや正常ではないとしても、なにかある現実的な満足に到達するのです。ところが、単に意識を意のままにできるのみならず、運動性神経支配への通路、従ってまた心的欲求の実現への通路をも意のままにできる自我が、これらの退行に同意しなかった場合には、葛藤が起ります。

自我の中でリビドーの代表に対して起った反抗は、「逆充当」としてリビドーに従い、リビドーに、同時にその反抗自身の表現でありうるような表現を選ばざるをえないように仕向けます。そういうわけですから、症状は無意識的なリビドーの願望充足の、さまざまに歪みを受けた派生物として出てくるのです。

フロイトは、葛藤が生じる条件を考える際には、エネルギーの量的側面に着目する必要があると言っている。ここには個人差があり、どれだけリビドーが強くても、それと同じくらい自我が強ければ発症しないし、逆の場合もある。自我欲動と性欲動のバランスで発症するかが決まるのだ。そうフロイトは主張する。

私は最後のいくつかの論議で、一つの新しい因子を病因論の理論的連鎖構成の中へ導入しました。すなわち問題にされるエネルギーの量、いわばその大きさの問題がそれです。われわれは今後この因子をあらゆるところで考慮に入れなければなりますまい。病因となる諸条件を純粋に質的な面から分析するだけでは不充分なのです。換言すれば、これらの心的諸過程をたんに力動的にとらえるだけでは不充分であって、そのうえになお経済的な観点が必要となるのです。

フロイト的な見方からすれば、一旦神経症に落ち込んでしまったときにそこから抜け出すのが難しい理由はここにある。神経症は自我欲動と性欲動の妥協でありな力同士の均衡の表現だからだ。長年にわたる大国同士の争いがそう簡単には解決できないように、押し合いへし合いしている欲動間の葛藤を根本から解消するのは、きわめて難しいのだ。

治療は「感情転移」で

次にフロイトは、神経症の治療法について論じる。

精神分析は、無意識的な葛藤を意識化することで何とか解決できる状態へと持っていくことの手助けをする点においてのみ影響力をもつ。生活上のアドバイス、たとえば家族から離れて一人暮らしをするべきとか、仕事を変えるべきだと言うのは職権の乱用だ。そうフロイトは言う。

われわれが治療効果を挙げえているのは、われわれがまさに、無意識を意識に置き換え、すなわち無意識を意識に翻訳するからにちがいないとみなさんはお考えでしょうが、私が言おうとしていることもまさにそれなのです。われわれは無意識的なものを意識的なものに変えることによって抑圧を解消し、症状形成のための条件を除き去り、病因となる葛藤を、なんとか解決できるにちがいない正常な葛藤に変えるのです。われわれが患者の心の中に引き起すのは、この一つの心的変化だけなのであって、この変化が及ぶ範囲内でだけ、われわれの援助の働きが実を結びます。

ただし、フロイトいわく、単に無意識を解釈した結果を患者に伝えればいいわけではない。そこでは別のアプローチが必要だ。

無意識を意識化するためには、単にこちらから解釈した結果を患者に伝えればいいわけではない。私たちにとってのその情報の意味と、患者にとってのそれは異なるからだ。こちらから伝えたとしても、患者はそれを無意識に代わるものとしてではなく、それと同列のものとして受け取ってしまう。

ではどうすればよいのか?

ここでまず、治療のために必要な条件をあげてみる。

ひとつは、健康になりたいという患者の欲求だ。治療活動は患者との共同作業だ。彼自身に治したいという欲求がなければ、そもそも治療活動を始めることはできない。もうひとつは、患者が知性を働かせてくれることだ。こちらから与えた解釈に対して患者が考えてくれれば、患者自身が症状と抑圧の関係を見出してくれることは容易になるはずだ。

フロイト的観点からすれば、神経症の治療は身体的な病気・損傷、たとえば風邪や骨折のように、こちらから患者に一定の治療を施しておけばいずれ治るようなものではない。成功するか失敗するかに関しては、医師の手の届かない偶然的な要因に左右されるところが大きいものの、こちらから影響を与えることができる要因としては、医師と患者の関係性が決定的だ。

それゆえ治療は、この関係性を活用することによって進められる。では、その関係性の中身はどのようなものなのだろうか?

ここでフロイトは、医師と患者の関係性を「感情転移」というキーワードをもとに描き出す。

神経症の治療を行っていると、しばしば次のような思いがけないケースに遭遇する。苦しい葛藤から逃れようとしている患者が、その手助けをしている医師に対して、特別な関心を寄せ始めるのだ。患者はしばしば自分のことよりも医師のことを気に掛けるようになる。解釈も適切となり、一般的には認めたくないような事柄も積極的に認めるようになる。病状は目に見えて快復して行く。

しかし必ずしもつねにそう上手くいくわけではない。患者が治療に協力しなくなることもある。医師に対して敵対的となり、こちらの指示に対して一切耳を貸さなくなるときがあるのだ。

こうした事実を精神分析では「感情転移」と呼んでいる。日常生活において患者がもった感情が、医師との関係に持ち込まれている(転移している)のだ。

たとえば父親に対する憎しみ、母親に対する怒りの感情が、医師との関係性のうちに反映され、立ち現れる。こうした感情転移を患者に意識化させること、自分が対面しているのは親ではなく医師であり、その感情がかつての感情の反復であることを教えることで、患者は感情転移を克服することができる。そしてこれが神経症の治療につながるのだ。そうフロイトは言う。

とにかく治療にとってきわめて強い脅威を意味するようにみえた感情転移が、治療にとっての最良の道具となり、この道具の助けによって、心情生活の固く閉ざされた扉が開かれるのです。

患者は葛藤に立ち向かうことに対して決断をしなければならない。治療はひとつの戦いなのだ。

この戦いで決定的なのは、患者の知的な了解ではなく、ただ患者の医師に対する関係だけだ。もし敵対的で陰性の感情転移であれば、治療は上手く行かない。しかしそれが宥和的(陽性)の感情転移であれば、患者は医師の権威を認め、報告や見解を信頼するようになる。

感情転移を通じて、解決可能な葛藤を作り出すことが治療に必要だ。感情転移はいわば人工的に作られた病気であり、これを正常な仕方で解決することにより、病的な抑圧を取り除き、リビドーが自由に流れるようにする。これによって神経症は治る、とフロイトは論じる。

この作業の決定的な部分は、患者の医師に対する関係、すなわち「感情転移」の中で、葛藤の新版を作りあげることによって成し遂げられるのです。

患者の本来の病気の代りに、感情転移という人工的に作られた病気、すなわち感情転移性疾患が現われ、種々の非現実的なリビドーの対象の代りに、医師というこれまた空想的な対象が現われるわけです。しかし、この対象をめぐる新しい戦いは、医師の暗示によって最高の心的段階にまで高められ、正常な心理的葛藤としての経過をとるのです。新たな抑圧を避けることによって、自我とリビドーとの間の疎隔した関係は終結するに至り、その人間の心的統一はふたたび回復されます。

必ず治せるとは限らない

感情転移を使っても、あくまでも治すのは本人だ。先に「決断」という語を使ったが、まさしくフロイトは、最終的に神経症を治すのは本人であり、医師はその手伝いをすることしかできないと考えていた。しかも医師が手伝える範囲は限られているうえに、症状には偶然的な要因が絡んでくる。だから必ず神経症を治すことができるとは限らない。『続精神分析入門』には次のようにある。

私の多くの弟子たちは野心にかられて治療に立ち向い、これらの支障にうちかって、すべての神経症的障害を精神分析によって治癒しうるようにと最大の努力を払いました。彼らは無理をしても分析操作を切りつめた期間にやってのけ、感情転移を高めて、それによって一切の抵抗にうちかち、それとその他の種類の影響とを合一させて、ぜがひでも治療してみせようと試みたのです。その労苦が、称讃に値することはむろんでありますが、しかしそれは徒労だと私は思うのです。

実際のところ、神経症は体質的に固着した重篤な疾患であって、何度か発病するというだけのものではなく、大抵は長期にわたるか、あるいは一生涯にわたって続くものなのです。生活史的な羅病誘因と偶発的補助契機とをつかまえてしまえば、持続的に神経症に働きかけて行くことができるということが分析によってわかりましたので、われわれは治療の実際に当っては体質的因子を重視しないことにしました。けだしわれわれは、体質的因子には手出しがならないからです。しかし理論的にはつねにこの因子を忘れるべきではないでしょう。精神病がそもそも分析治療の手に負えないという事実がすでに、精神病と関係の深い神経症の場合にはわれわれの要求の制限さるべきことを命じています。

体質については生まれつきのものなので、こちら側から影響を当たることはできない。偶然的な要因については、たとえば家族を選択できないことなど、患者自身にさえどうしようもできないものがある。神経症をすぐに完治させる魔法は存在しないのだ。そうフロイトは言う。

神経症は治るまで時間が掛かる。しかも必ず治るとは限らない。

「性的にどんどん開放していけばいいじゃん」は論外

もしかするとなかには、葛藤が起きるのは抑圧があるからなので、性的に開放していけば抑圧は消え、神経症も治るはずだ、と考えているひともいるかもしれない。しかしフロイトからすると、率直に言って、そういうアドバイスは論外の極みだ。

性的に充分に人生を楽しみつくすようにという助言などが分析療法において一役演じうるなどという考えは論外のことです。すでにわれわれ自身が、患者のリビドーの興奮と性的抑圧との間に、および官能を求める傾向と禁欲を目ざす傾向との間に執拗な暮藤があると言ったことだけからでも、そんなことは問題にならないのです。この葛藤は、二つの方向の一方を強めて他方にうちかたせるということでは解消しないのです。現にわれわれは、神経症者においては禁欲のほうが優位を占めていることを知っているのですから。だからこそ、抑圧された性的志向がはけ口を求めて症状を作り出したのです。もしここでわれわれが、逆に官能に勝利をえさせますと、排除された性的抑圧は症状に代らざるをえないことになるでしょう。

解きがたい葛藤があるからこそ病気になる。そんなアドバイスで治るくらいなら、そもそも最初から神経症にならなかったはずだ。性を開放させれば、性欲動が圧倒的な力をもって、症状に代わるのは目に見えている。フロイトはそう指摘する。

以上が『精神分析入門』の内容だ。

『続精神分析入門』を解読する

次に、本書の続編となる『続精神分析入門』について見ていくことにしたい。

初めに確認したように、本書は『精神分析入門』と同じく講義の形を取っているが、実際に大学の講義で用いられたわけではない。この著作が書かれた1932年、フロイトは76歳に達し、ガンの進行やナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の高まりもあって、そもそも大学で講義を行える状況になかったとも言える。

本書の主なポイントは以下の通りだ。

  1. 自我・エス・超自我(心的装置論)
  2. 「女性」性について
  3. 精神分析と科学について

他には夢解釈、夢と心霊術についての関係についてもコメントしているが、あまり読みどころがないので、ここではパスしたい。

自我・エス・超自我(心的装置論)

本書で見ておくべき第1のポイントは、エス、自我、超自我の関係に関する議論だ。心理学的には「心的装置論」と呼ばれている。基本的には『自我とエス』と同じ内容なので、すでに読んだことがあるひとは軽く流してもOKだ。

『自我とエス』はこちらで解説しました → フロイト『自我とエス』を解読する

フロイトは次のように言う。

患者の中には、自我の統合が失われると、自分を監視する声が幻聴として聞こえてくるひとたちがいる。幻聴の中身を分析すると、これが裁き、処罰する声であることが分かる。ここから私は、この声が良心のひとつの機能ではないだろうかと推測する。

何か快楽を与えてくれることをしようとするとき、良心がとがめてそうするのを止めることがある。またはそれを行った後で、良心が激しく批判し、後悔の念に襲われることがある。

このように私を裁く自我の法廷を、私は「超自我」と呼びたい。

一言で言えば、超自我は性的な快感追求に対する両親の権威が内面化されたものだ。子供の頃はまだ快感追求に対する道徳的な歯止めが存在せず、代わりに両親の権威がこれを阻止している。両親からの威嚇によって、子供は愛情を得られなくなることを恐れ、快感追求を制限するようになる。その後、両親から与えられる抑制が内面化し、超自我が両親に代わって自我を批判、威嚇するようになる。

超自我の形成に決定的な影響を与えるのが、フロイトいわく、エディプス・コンプレックスだ。エディプス・コンプレックスを克服し、教師やさまざまな理想像の影響を受けることで、超自我は両親から次第に離れていき、一般性を得ていく。つまり社会規範という性格をもつようになる。

発達の途上で超自我は、両親にとって代った人々、つまり教育者、教師、いろいろな理想像の影響をも受けるのです。普通には超自我は本来の両親個人からだんだん遠ざかって行き、いわば非個性的になります。

超自我と自我理想

フロイトによれば、超自我には「自我理想」を担う機能もある。

自我理想とは、かつての両親像、完全で絶対的な存在として現れていた両親に対する畏敬の念が反映された理想像だ。

自我は超自我から与えられる自我理想に照らして自分の価値を判断し、それに近づこうと努力する。もし近づけなければ劣等感が生まれる。言いかえると、劣等感の条件は、自我と超自我の関係にあるのだ。

例えば中学生のとき、真面目に塾に通って勉強するのは、もちろん一方では自分の将来のためだという意識もあるが、他方では両親の期待に応えたいという意識もあるはずだ。学校でいい成績を取って、いい学校に進んでほしいと両親は思っている。寄り道して塾をサボるのは、そうした期待を裏切ることだ。個人差はあれ、たいていのひとはそういう感覚をいくらかは持っていたはずだ。

自我とエス

フロイトは次に「エス」について論じる。

エスは無意識の領域だ。エスはエネルギーで満たされており、快感原則のもとにある。いかなる論理的法則をもたず、時間の観念もない。抑圧されたエスが消えることはなく、何十年経っても古くなることはない。

自我はエスの一部分である。外界に適応するようにエスから変形されたものだ。自我はエスからエネルギーを借りて存在している。

自我とエスの関係は、騎手と馬の関係に近い。騎手は手綱を握り、馬が向かう方向を制御しようとする。しかししばしば、騎手は馬の力に圧倒され、馬が向かう方向に勝手に行かせるほかなくなることがある。

エスに対する自我の関係は、馬に対する騎手の関係に誓えられるでしょう。馬は動くためのエネルギーを供給し、騎手は目的地を定め、馬という強い動物の動きを御する特権を持っています。しかしあまりにもしばしば自我とエスとの間には理想的に行かない場合が生じ、騎手は馬自身が行こうとする方向へ馬を勝手に歩いて行かせなくてはならなくなるのです。

自我は「知覚-意識体系」において、外界を知覚するだけでなく、エスからの衝迫もまた受け取り、処理する。その意味で自我は、ちょうど樹木をくるむ樹皮のようなものだ。そうフロイトは言う。

自我というものは外界に近いことと外界の影響とによって変更を受けたエスの一部分であって、刺激を受け入れたり防いだりするようにできていて、それはいわば一塊の生活体を包んでいる樹皮層に譬えることができましょう。

このように自我は外界、エス、超自我の3方向から脅かされる。自我は外界からの要求を代弁すると同時に、エスとも手を結ぶ。エスの不合理的な要求を取りつくろい、現実にかなったものと見せかける。他方、自我は超自我による監視も受け入れざるをえない。超自我は外界やエスの要求を無視し、まったく独断的に道徳的な要請を行い、それに従わない場合は劣等感で自我を罰する。こうした状況で自我はそれらと調和を作りあげようとするのだ。フロイトはそう論じる。

エスに追いまくられ、超自我に締め上げられ、現実に突き戻されて、自我は、自己の中に働き、自己に対して働きかけてくる諸勢力や影響を受けとめながら、何とかして調和を作り出すという自己の経済的任務を遂行しようと奮願するのです。

「女性」性について

次に「女性」性に関するフロイトの議論について見ていくことにしよう。

フロイトによれば、女児の性欲は男児と変わらず、男児同様、女児にも口唇期、肛門期、男根期がある。女児は母親に子供を作らせたいという願望と、それに対応して、母親のために子供を産みたいという願望をもつ。あくまでフロイトによれば、の話だが。

問題は、ここからどうやって女児は女性的段階に進み、父親を性対象とするようになるのかということだ。フロイトは次のように言う。

母親への拘束はどのように解けるのだろうか。それは母親に対する憎悪によってだ。何に対してかというと、母乳を少ししか飲ませてくれなかったことに対してだ。そのことを女児は愛情が欠けていたからと解釈するのだ。

また女児は、男根期に性器をいじらないよう母親から禁止されることによっても、母親から離反するよう動機づけられる。なぜなら最初の快感活動を教えてくれたのは母親自身だからだ。

離反を決定づけるのは、母親にペニスがないことを発見することだ。

女児にも去勢コンプレックス(ペニスをいじってばかりいると切ってしまうぞ、という両親からの脅しに悩まされること)はある。女児はペニスが無いことで自分がひどく損をしていると考え、自分もあれが欲しいという陰茎羨望に陥ってしまう。

女児は初め、ペニスがないことを個人的な出来事として捉える。しかし後に、それを他の女性にも当てはめるようになる。こうして女児は母親にもペニスがないことを理解し、母親を自分と変わらない存在として見るようになる。その結果、母親に対する敵意が優勢となるのだ。

女児が女性らしさを身につけるようになる理由も、陰茎羨望から理解することができる。つまり父親が陰茎羨望を満たしてくれるはずだと期待し、父親を誘惑するために女性らしさを身につけるのだ。

この段階で女児はエディプス・コンプレックスに陥る。なぜなら母親は父親からの愛情をめぐる競争相手になるからだ。

このフロイトの珍解答に果たしてどれだけの説得力があるのか、私には分からない。それなりに納得できる場合もあるかもしれないが、おそらくほとんどのひとにとっては、意味不明で一切同意できないのではないだろうか?「は?ウルせえよこの変態ジジイ」と返したくなるひとも少なくないはずだ。

同意できない根本の理由は、去勢コンプレックスとエディプス・コンプレックスがともに検証不可能であることだ。仮説に仮説を重ねて論じており、どこまでが観察に基づくのか、どこからが仮説に過ぎないのか、ほとんど見分けがつかない。フロイトは観察を踏まえた根拠ある理論だと考えていたようだが、過度の一般化に陥っている感はどうしても否めない。

精神分析と科学

最後に、精神分析と科学の関係に関するフロイトの議論を見ておくことにしよう。フロイトはここで、精神分析の取りうる世界観について論じている。

精神分析は科学的世界観に属する。精神分析は心理学の一分野なので、それが独自の世界観を取るのは不適切だ。

科学的世界観は、慎重に調べた観察以外に認識の根拠は存在しないとする考え方だ。この考え方は過去数世紀にわたって一般に受け入れられてきた。今世紀(20世紀)になってから、科学的世界観は貧相であるとか、人間の精神性を無視するとかいう批判が現れてきたが、その批判には根拠が存在しない。というのも、精神分析が示しているように、人間の心も科学的な手法で論じることができるからだ。

では科学の本質は何か?フロイトいわく、それは現実との一致だ。科学は現実との一致を目がける。その一致こそ科学の目的であり、私たちが「真理」と呼んでいるものにほかならない。そうフロイトは言う。

科学的精神は現実との一致に到達することを志向します。すなわち、われわれの外部にわれわれとは独立に存立し、経験がわれわれに教えるところでは、われわれの願望の実現が一に懸かってそこにあるところのもの(現実)との一致に到達しようとするのです。このような現実的外界との一致をわれわれは真理と呼びます。真理はあくまでも科学的研究の目標なのです。

フロイトは、無意識について論じたからといって、決して「理性で全てを理解することはできない」とか「理性には限界がある」と言いたかったわけではない。もしそう考えていたとすれば、そもそも自我・エス・超自我の心的装置論を打ち出すことはなかったはずだ。

意識で捉えられない領域があるからといって、全てがダメになるわけではない。完全な認識に到達できずとも、そのことでもって精神分析を否定することはできない。理性を否定して宗教を取り入れることは本末転倒だ。なぜなら理性は人間性における未来の希望だからだ。フロイトはそのように言う。

知性—科学精神、理性—がやがては人間の精神生活における独裁権を獲得する日がくるであろうということは、われわれの最善の未来の希望なのです。その場合でも理性は抜かりなく人間の感情の動きや、それに規定されるものに対して、しかるべき地位を用意してくれるであろうということは、理性の本質が保証しています。しかし理性のこのような支配から生ずる一般的な強制は、人間と人間とを結び合せる最強の紐帯であるということが判明して、そこにさらに規模の大きい統合の道をひらいてくれることでしょう。宗教の思考禁令のように、このような進展の流れに逆行しようとするものは人類の未来をおびやかす一つの危険なのです。

フロイト思想の総まとめ

フロイト
フロイト

『精神分析入門』と『続精神分析入門』では、フロイトの思想が包括的に論じられており、両書はいわばフロイト思想の総まとめ的な位置づけにあると言える。そこで改めて、フロイトの思想がもつ意義について確認してみたい。

フロイトの功績は何より、私たちの身体性が性的(エロス的)なものであること、審美感など感受性や良心が性的な体制と密接に関係していること、それらがともに家族のうちで形成される関係的なものであることを直観したことにある。母親による承認なしに栄養摂取ができず、この栄養摂取に自体愛的な快感が依拠していることを考えると、私たち人間の性的な体制が関係的なものとして展開していくという直観には一定の理があるように見える。

一方、エディプス・コンプレックス、去勢コンプレックスなどの検証不可能な仮説が理論の中心に置かれたために、フロイトの議論は普遍的な共有可能性を失ってしまったことは否定できない。どこまでが観察された事柄であり、どこからが仮説に過ぎないのか、その仮説がどれだけの説得力をもつ根拠に基づいているのか。こうした疑問に対する答えは2冊のどこにも書かれていない。

フロイトを生かす読み方

『続精神分析入門』から察するに、フロイトには哲学、特に認識論に対する理解がほとんど無かったようだ。フロイトいわく、精神分析は科学として現実との一致を目がけるものである。精神分析は自然科学のひとつとして位置づけられるべきものだったのだ。

だが実際には、フロイトの精神分析は、ユングやアドラーなどの対立諸派を生み出し、精神分析はフロイトが想像していたような「客観的」科学として成立しえないことが明らかとなった。今日ではフロイト的精神分析そのものが非科学的と批判されることさえある。その根本的な理由は、まさしく、エディプス・コンプレックスを代表とする仮説の検証不可能性にある。今日では、エディプス・コンプレックスやリビドー仮説を素朴に受け入れることはできない。それらのいずれも実証されていないからだ。

ただ、だからといってフロイトの議論を全部ゴミ箱送りにするのは、あまりにもったいない。先に確認したように、フロイトには優れた直観も数多くあるからだ。

そうした直観を生かすためには、フロイトの知見から臆断と検証できない仮説を取り除き、自分の経験を内省しつつ、誰にとっても当てはまるであろうポイントを見て取るように読む必要がある。たとえば、「確かに大人になると、子供のようにキャッキャはしゃぎながら笑顔で走り回ることはなくなるな」とか、「不安になると、タバコを吸ったりコーヒーを飲みたくなるよな」というように。こうした観点から見れば、たとえば夢解釈に関する議論については、確からしいところもあれば、かなり疑わしいところもあることが分かるだろう。

仮説に基づく臆断ではなく、誰でも経験し確かめられる知見に依拠することによってこそ、その知は普遍的でありうる。このことはフロイトを読むときには、常に意識しておくべきだろう。フロイトを生かすも殺すも、言ってしまえば私たちの読み方次第なのだ。

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