フロイト『自我とエス』を解読する

本書『自我とエス』Das Ich und das Esは、オーストリア出身の心理学者フロイト(1856年~1939年)の著作だ。1923年に発表された。1920年に発表された『快感原則の彼岸』の続編に当たる。

本書でフロイトは、『ナルシシズム入門』で提案した「自我理想」という概念を「超自我」と定式化しなおす。そのうえで、超自我の起源にはエディプス・コンプレックスがあり、エディプス・コンプレックスの抑圧によって超自我が成立すると論じる。こうした直観は『ナルシシズム入門』では示されていなかったものだ。

では早速、本文に沿って見ていくことにしよう。

意識は心の一側面

フロイトは初めに、意識が私たちの心のうちで占める位置について、次のように論じている。

精神分析では、心的なものの本質は意識のうちにはないと考えている。意識は心的なものの一つの質であり、これが他の質に加わって存在することも、あるいは存在しないこともあると考えるのである。

私たちの心にとって、意識はその一面でしかない。それゆえ意識を心と同一視することはできない。ではその他の要素にはどのようなものがあるのか?フロイトいわく、それが無意識だ。

意識されている状態は直接的な知覚に基づく。しかしこうした知覚は長くは続かない。いま見ているものが次の瞬間には存在しなくなり、ただ思い出すことが可能な状態へと移る。このような潜在的に意識化できる状態を、私はここで無意識と呼ぶことにする。

しかし、フロイトによれば、必ずしも全ての無意識が意識化できるとは限らない。無意識的な表象(イメージ)のなかには、抑圧されており、意識化されることに抵抗するものがある。この抵抗は、精神分析の技法によってしか取り除くことができず、そうすることでしか意識化することができない。

それゆえ無意識は、厳密に言えば、潜在的に意識できるものと、抑圧されており普段は意識できないものに分けることができる。そこでフロイトは前者を前意識Vorbewusstsein (Vbw)、後者を本当の意味での無意識Unbewusstsein (Ubw)と呼ぶ。

われわれは潜在的に無意識的なもの、動力学的な意味ではなく記述的な意味で無意識的なものを、〈前意識的なもの〉と呼ぶ。そして本来の〈無意識的なもの〉という名称は、動力学的な意味で無意識的に抑圧されたものに限定している。このように、三つの用語が確定された。意識的なもの(Bw)、前意識的なもの(Vbw)、無意識的なもの(Ubw)である。

簡単にまとめておくと次のような感じだ。

  • 意識的なもの (Bw)
    • 直接的な知覚の対象
  • 前意識的なもの (Vbw)
    • すぐに思い出すことができる記憶
  • 無意識的なもの (Ubw)
    • 抑圧されており精神分析によってしか意識できないもの

知覚システム

無意識については、あくまで意識化することによってしか知りえない。それゆえ無意識について知るためには、知覚が生じる水面である意識を出発点とするほかない。そうフロイトは言う。

無意識的な表象は、認識されえない何らかの素材に基づいて生じる。これに対して、前意識的な表象は、言語表象との結合によって生じる。ここでいう言語表象は、本質的に聴覚から生まれるものだ。

感覚と感情は、知覚(W)システムにもたらされることで意識される。言語表象と結びつくことで、感覚は意識にもたらされる。ここでは言語表象が「記憶痕跡」として、前意識的な表象が外部知覚に転換され、意識化されるのだ。

言語表象とは記憶の残滓である。かつて知覚であったものであり、すべての記憶の残滓と同じように、再び知覚となりうるものである。しかしその本質についての考察を深める前に、新しい洞察が浮かび上がってくる。意識されうるためには、かつて意識的(bw)な知覚であったことがなければならないのであり、感情は別として、内部から意識的になるためには、みずからを外部知覚に転換しなければならないのである。それは〈記憶痕跡〉によって可能となる。

知覚システムの「W」は、ドイツ語のWahrnehmung(知覚、認識する)の頭文字だ。

感覚と感情は、記憶の言語表象を通じて前意識から取りだされ、意識化される。知覚システムに到達しなければ、それらは意識にもたらされない。そうフロイトは言う。

自我とエス

フロイトいわく、私たちの自我は普段、私たちの心の動きを抑圧している。興奮から生じるプロセスを制御し、夜になると夢を「検閲」する。ただし、抑圧を行う自我が完全に意識に属するわけではない。それは同時に無意識にも属する。

すべての抑圧されたものが無意識的(ubw)なものであることはあくまでも正しいが、すべての無意識(Ubw)が抑圧されたものであるとは限らない。自我の一部が、しかも自我にとって非常に重要な部分が、無意識的(ubw)なものでありうるのであり、そして確実に無意識的(ubw)なものなのである。

これはつまり、普段は意識化できないような抑圧の出所が自我のうちにあるということだ。

このことを論じるにあたって、フロイトは次に、私たちの心を自我-エスという関係のうちで捉えていく。

エス(Es)に乗っかっている自我(Ich)
エス(Es)に乗っかっている自我(Ich)

エスは無意識的で、知覚されえない力、それによって私たちが「生かされている」ような力だ。自我はエスの表面に乗っかっており、接触面で合流している。自我は「聴覚帽」をかぶっている。

自我は前意識的であり、エスは無意識的なものだ。エスは快感原則によって支配されており、自我は快感原則の代わりに現実原則を適用しようとする。抑圧されたものはエスの一部を構成し、自我から明確に区別される。そのことは精神分析の際に、患者が抑圧されたものに対して抵抗を見せることから理解できる。

エスと自我の関係は、暴れ馬と騎手の関係に近い。自我は理性でエスをコントロールしようとするが、エスが進もうとする方向に行くしかない場合が多い。

自我はエスに対して、自分を上回る大きな力をもつ奔馬を御す騎手のようにふるまう。騎手は自分の力で奔馬を統御しようとするが、自我は借りてきた力を使うという違いがある。この類比はさらにもう一歩進めることができる。自我は騎士の場合と同じように、馬から振り落とされたくなければ、馬が進みたい場所に行くしかない場合が多いのである。すなわち自我は、あたかもそれが自分の意志であるかのように、エスの意志を行動に移すしかないのである。

良心もまた無意識に属する

自我は前意識に属し、エスは無意識に属する。しかし、無意識に属するのはエスだけではない。フロイトいわく、私たちの良心もまた無意識に属する。

混沌とした欲望を無意識のうちに見出すことは自然な直観であり、決して意外なものではない。しかしここで、社会的・倫理的に高く評価されるものもまた無意識に根ざすとしたらどうだろうか?

精神分析によって明らかにされたところによると、一定の人びとにおいて、「自己批判」と「良心」は無意識の領域にあり、彼らに重要な影響を及ぼしている。とりわけ神経症患者においては、それが罪責感として働き、彼らの回復の障害となることが次第に明らかになってきている。自我の底にあるエスだけでなく、最も高位の価値審級である良心もまた無意識的なのだ。

精神分析において無意識的なものとして残るのは、抵抗だけではないのである。そして新しい発見によってわれわれは、批判的な洞察が進んでいるにもかかわらず、無意識的な罪責感を問題とせざるを得なくなるのである。特に、多数の神経症患者においては、この種の無意識的な罪責感が経済論的に決定的な役割を果たし、回復のための最大の障害となることが次第に明らかになってきているだけに、これは困惑させられる概念であり、新たな謎を生む。自我のもっとも深い場所にあるものだけでなく、われわれの価値の尺度によるともっとも高い場所にあるものも、無意識的でありうると言わねぱならなくなる。

たとえば私たちは「良心を発揮する」という言い方をする。確かに私たちは、自分で何がよく何が悪いかを理性的に判断して、「…をすることが良いことだ」と判断し、それに従って行為することができる。

ただ一方で、その判断が自分の意志というよりも、無意識的にそうしてしまわざるをえないケースがあることも確かだ。勉強しないとお父さん、お母さんに怒られてしまう…どうしよう…。そうした感覚が良心として無意識的に働き、自分の価値基準を支えているパターン。これは子供の頃のしつけが上手く行き「すぎた」青年を考えると分かりやすい。

超自我としての良心

では、なぜ良心は無意識的に罪責感として作用することがあるというのだろうか?

フロイトいわく、その根拠は「超自我」だ。

超自我は『ナルシシズム入門』で「自我理想」と呼ばれていたものだ。両親や社会の期待を反映した理想像、善や正義などの一般的な価値基準を内面化した“理想の自分”、これをフロイトは自我理想と呼んでいた。

本書でフロイトが明らかにしようとしているのは、では一体、この自我理想(=超自我)は具体的にどのようなプロセスで成立するのか、ということだ。

この点を明らかにするためにフロイトが導入するのが、有名なエディプス・コンプレックスだ。

エディプス・コンプレックス

フロイトは次のように言う。

口唇期では、対象備給(=性対象にリビドーを向けること)と同一化は区別されていないはずだ。だが次第にエスから対象備給が行われるようになり、これに対して自我は従うか、もしくは抑圧しようとするに違いない。

この過程は、自我がエスを支配し、エスとの関係を深めるものと考えることが出来る。しかし自我はエスに対して従属的な位置に置かれる。つまりここで、自我はエスにとっての性対象として振る舞うよう迫られるのだ。

フロイトいわく、このようにして幼児期の第一次的なナルシシズムが成立する。『ナルシシズム入門』では、ナルシシズムを第一次と第二次に区別し、第一次的なナルシシズムは幼児期で正常であり、第二次的なナルシシズムは誇大妄想的で病的であるとした。

ここで、フロイトによると、第一次的なナルシシズムが成立するとともに、もうひとつの重大な出来事が生じる。それは父親との同一化だ。

自我理想の背後には、個人の最初の(そしてもっとも重要な)同一化が潜んでいるのである。これは個人の〈原始時代〉である幼児期における父との同一化である。この同一化は当初は、対象備給の結果や帰結とはみえず、媒介なしの直接的な同一化であり、どのような対象備給よりも早い時期に行われるものである。しかし最初の性愛期に行われる対象選択、すなわち父と母に関する対象選択は、通常の推移をたどる場合には、こうした同一化として終わり、一次的な同一化をさらに強化すると考えられる。

口唇期の幼児は、母親に対する対象備給を発展させる。母親の乳房がその対象だ。その一方で、幼児は自分と父親との同一化を強めていく。

しかし幼児が成長して少年になり、母親に性的な欲望を向けようとすると、父親が邪魔な存在として映るようになる。こうしてエディプス・コンプレックスが成立する。父親を排除したいという願望が、父親に対する畏敬の念と立ち並ぶことで、父親との関係はアンビバレントなものとなるのだ。

父親に対するアンビバレントな感情と、母親に対する性的な欲望、これが少年におけるエディプス・コンプレックスの基本形だ。

しかしこの争いで子供の側に最初から勝ち目はない。そこでフロイトによると、少年は父親との同一化を強め、少女は母親との同一化を強める。そうすることで子供は「男性らしさ」や「女性らしさ」を身につけ、エディプス・コンプレックスは解消される。そうフロイトは言うのだ。

超自我はエディプス・コンプレックスの抑圧により成立する

フロイトによると、エディプス・コンプレックスを解消した結果として自我のうちに「沈殿」として残るもの、それが自我理想であり、超自我だ。

エディプス・コンプレックスに支配されている性的な発展段階においては、もっとも一般的な帰結として自我の中に〈沈殿〉が起こると想定できる。この〈沈殿〉はなんらかの形で、二つの同一化が結びついて生み出されるものである。この自我の変化は特別な地位を保持するものであり、自我理想または超自我となる。これは自我の他の要素と対立するものである。

超自我は父親に対する反動形成として生まれる。そのため、超自我は自我に対して、一方で「父親のようにあれ!」と命じ、他方で「父親のようにあってはならない!」と命じる。

この両面性は、超自我がエディプス・コンプレックスの抑圧によって成立することから生じる。幼児の自我は、エスを抑圧するために父の力を借りる。この過程で超自我は父の性格を手に入れ、エディプス・コンプレックスが強く、かつ抑圧が急激に行われるほど、超自我は良心、あるいは罪責感として自我を支配するようになるのだ。

子供が成長すると、初めは父親が担っていた役割を、次第に周りの他者、たとえば学校の先生が担うようになる。こうした人びとの命令が自我理想のうちに残り、子供に命令を行うようになるのだ。

父から力を借りるというこの行為は、その自我に非常に重要な結末をもたらすことになる。超自我は父の性格を得ることになり、エディプス・コンプレックスが強いほど、そして(権威、宗教的な教え、教育、読書などを通じて)抑圧が急速に行われるほど、のちになって超自我は良心として、あるいは無意識的な罪責感として、強力に自我を支配することになる。

個人の成長が進むにつれて、教師と権威をもつ人々が父の役割を引き受けた。こうした人々の命令と禁止が、自我理想の中に強く残り、良心として道徳的な検閲を行うようになる。

超自我が自我に対する強力な検閲として働くとき、自我はエスからの要求の板挟みになってしまい、どちらに従うべきか分からなくなってしまう。罪責感はこうした状況から現れてくる。そうフロイトは言う。

治療に抵抗する患者

フロイトいわく、罪責感が過度に強い影響を自我に与えるために、強迫神経症とメランコリー(うつ)が発症する。具体的には、メランコリーでは「死の欲動」が超自我を支配して自我を脅し、強迫神経症では限りない自己呵責が生じるのだ、とフロイトは言う。

だが、フロイトによると、患者のなかには、症状の治療に対して抵抗を示すひとが出てくる。

理由のひとつには疾病利得がある。しかしこれだけでは説明がつかない。それよりもここで重要な役割を果たしているのは、罪責感だ。患者は罪責感のために疾病に満足を見出し、苦痛を手放そうとしないのだ。しかもここで罪悪感は「無口」であり、患者自身にとってそれが罪悪感として感じられることはない。患者はただ単に自分が病気であると感じるだけだ。

精神分析的な治療法の核は言語による意識化によって抵抗を取り除くことにある。しかしここでは抵抗はきわめて取り除きにくいものとして現れるため、治療は困難なものとなる。

自我は不安のうちにある

自我は3つの脅威から脅かされている。1つ目は外界、2つ目はエス、3つ目は超自我だ。自我はそれらに応じた不安に悩まされている。自我はそれ自体が不安の場所なのだ。

フロイトは不安を 「死の不安」と、対象不安・神経症的なリビドー不安に区別するべきだとする。その区別に基づいて、メランコリー的な死の不安は、自我が超自我に迫害されると感じるために自分自身を放棄することについてであり、それは良心の不安と同様、「去勢不安」が加工されたものだと理解することができる、と主張する。

死の不安は良心の不安と同じように、去勢不安が加工されたものとして理解することができる。神経症者では、罪責感が大きな役割を果たしていることから、重篤な場合には、自我と超自我の問の不安(去勢、良心、死の不安)が発生すると、普通にみられる神経症的な不安が強まると考えられる。

良心は無意識に属するという直観

哲学で良心が論じられるようになったのは、ヨーロッパで正義の絶対的な基準だったキリスト教の権威が凋落し始めた近代以降からだ。代表的な論者にはヘーゲルとニーチェがいる。ヘーゲルは『精神現象学』や『法の哲学』で、良心を意識の運動から現れるものとして描き出していた。また、ニーチェは『道徳の系譜』で、約束を守ることのうちに良心の条件を見出していた。

ヘーゲルとニーチェには思想的な違いも多いが、良心に関して言えば、倫理の超越性を中世的な仕方で前提に置くことが無効であるとする直観においては、深く共通している。そのことは、ヘーゲルの場合は「道徳」から「倫理」への移行のうちに、また、ニーチェの場合は「神は死んだ」という表現によって象徴的に示されている。

一方、本書におけるフロイトの良心論には、ヘーゲルやニーチェとは異なる独自の視点がある。それは良心の無意識性だ。

超自我的な良心を編み変える

本書でのフロイトのポイントは、自分自身のエス(=欲望)と超自我的な良心が激しく衝突するとき、それは私たちの心にとって重大な帰結をもたらすこと、また、エスと超自我はともに無意識に属しており、簡単に意識化できるわけではないことにある。

フロイトは超自我がエディプス・コンプレックスの抑圧から生まれるはずだと考えていた。それは現段階では仮説だが、いずれ実証されるはずだ、と。確かに、フロイトの推測は外れ、エディプス・コンプレックスの存在が実証されることはなかった。これから実証されることもないだろう。

しかし、だからといってフロイトの議論が全くのナンセンスかというと、決してそうではない。

確かに、私たちは良心を意識的に発揮することができる。正しいと信じる判断を自分自身で下し、それを行為に移すことができる。だが私たちは、良心を生まれつきもっているわけではない。内省してみれば分かるように、両親や社会の一般的な期待を暗々裏のうちに身体化し、良心を形成することによってこそ、善悪を判断することができるようになったはずだ。

もし両親や社会の価値規範(一般ルール)と、自分の欲望が宥和的であれば、生活のうちで多少辛いことがあっても、私たちはさほど大きな苦悩をもつことなく、自分のあり方をそれなりに納得し、引き受けつつ生きることができる。だがそれらが真っ向から対立する場合はしばしば大きな困難を経験する。近代的な良心に固有の問題が現れてくる理由は、まさしくこの点にある。というのも、こうした困難は、善悪の根拠が習俗や宗教によって規定されている中世においては、現れてくる条件をもたなかったものだ。

フロイトが、そうした葛藤を精神分析の手法によって解消することができるというとき、そのポイントは言語による自己了解にある。自分の欲望(エス)がどのようなものであり、超自我の由来が何であるかを、言葉によって意識化し、了解すること。エディプス・コンプレックスの仮説の妥当性は検証できないとしても、臨床にてカウンセリングの有効性が認められていることを考慮すると、こうした直観それ自体は、確かに本質的と言えるはずだ。

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