フリードリヒ・エンゲルス(1820年~1895年)はマルクスの親密な友人かつ協力者だ。マルクスの思想を何とかして広め、実現しようとする熱意のもと、社会主義体制の枠組みづくりを指導しただけでなく、批判に対しても積極的に応答した。とにかく真面目で正義感にあふれた人物だといっていいだろう。
本書『空想より科学へ』は、1880年にエンゲルスが社会主義の入門書として自らの著作『反デューリング論』から抜粋して作ったパンフレットだ。
社会主義をよく知らない一般の人びとへ向けて書かれており、ほとんど前提知識がなくても分かるようになっている。エンゲルスは色々な入門書を書いているが、いわゆる「マルクス主義」を知りたければ、この一冊を読んでおけば十分だろう。
かつての社会主義は「空想的」だった
エンゲルスとしては、自分たちの思想に歴史的な必然性があること、歴史の流れのうちで自分たちが社会主義を主張していることには歴史的な意義があることを言っておきたい。
そこでエンゲルスは、まず初めに、以前から存在していた社会主義の動きについて解説する。
かつての近代社会主義はフランスの啓蒙主義を導く思想だった。フランス啓蒙主義によってフランス革命は強力に推し進められたわけだから、フランス革命を導いていたのは実は近代社会主義だったといっていい。
しかしフランス革命は失敗に終わった。なぜか。それはフランス革命は「理性の革命」であって、社会的な基礎なしに社会全体を改革しようと試みたからだ。
その結果、フランス革命はブルジョワ革命に終わってしまい、プロレタリアート、すなわち労働者を搾取するブルジョワジー王国を実現したにすぎなかった。事態はより悪化してしまったのだ。
ここでいう社会的な地盤とは、イギリスで生まれたような資本主義的な大工業のことを指している。大工業のもつ巨大な生産力こそ、プロレタリアートがブルジョワ階級から独立して自分自身の政治行動を実行するための条件だ。
しかし当時のフランスにはそうした大工業が発展していなかった。それゆえプロレタリアートは外からの援助の手に頼るしかなかった。
無産大衆から分離してはじめて新しい一階級の根幹となったプロレタリアートには、まだ独立した政治行動を行なう能力が全然なかった、彼らは抑圧され、苦しんでいる身分にすぎず、自力では無能なので、外からまたは上から、援助の手をさしのべてやるしかなかった。
このときに現われたのが、近代社会主義者のオーウェン、サン=シモン、フーリエの3人だ。彼らはともに、プロレタリア階級の利害を代表するかわりに人びとを一挙に解放しようと試みた。
しかし結局のところ、彼らはユートピア(空想)を思い描く空想家だった。現代の社会主義思想はいまだに彼らの影響を抜け出ていない。しかし社会主義は科学とならねばならず、そのためには「現実」のうえに思想を打ちたてなければならないのだ。
これら空想家の考え方は十九世紀の社会主義思想を久しいあいだ支配し、部分的には今もなお支配している。
こういう社会主義を一つの科学とするためには、まずもって、それを現実の地盤の上にすえねばならない。
弁証法的唯物論
エンゲルスは、社会主義は科学になる必要があると強く主張する。ではここでいう「科学的」とは一体何だろうか?
弁証法的唯物論、これがエンゲルスのいう科学的であることの内実だ。
いきなり弁証法的唯物論と言われてもまったく意味不明だが、エンゲルスからすれば、これこそが自然や歴史を含む世界のあり方を説明する唯一の方法だ。具体的にはこんな感じだ。
自然のあり方を考察するとまず見えてくるのは、要素間の諸関係と相互作用の多様な姿だ。そのことを初めて見出したのはヘラクレイトスだ。ヘラクレイトスいわく、「万物は流転する」。一切は相互に関係し、流転する。
しかしその後で現れてきた自然科学は、個々の対象の研究に向かった結果、自然物と自然過程を切り離して考察するようになってしまった。
この悪しき習慣はベーコンやロックによって哲学に導入された。これによって形而上学が生じた。しかし形而上学的な考え方は限界に行きつく。なぜなら形而上学は存在の運動を見逃してしまうからだ。
エンゲルスはロックを形而上学者とみなしているが、これはロックからすればひどい言いがかりだ。ロックは『人間知性論』で、私たちの知覚に現れる経験こそが認識の本質を見て取るためのカギだと言っていた。自分の知覚以外のものを前提としてはならない、なぜなら私たちはそこから抜け出て対象を直接認識することはできないからだ。それがロックの方法的態度だった(それを究極まで追い詰めたのがヒュームだ)。
エンゲルスは反対するに違いないが、むしろ万物流転観にのっとっているエンゲルス自身こそ、形而上学のうちにある。なぜなら意識の側から突き詰めるのではなく、いきなり「世界は本当は…である」と言うことは、かならず形而上学へと陥ってしまうからだ。
要するに、一切の有機体は「同一物であると同時に同一物でない」。肯定と否定、原因と結果が相互に浸透し作用している。
こうした過程を適切に捉えているのが弁証法だ。自然は弁証法をいわば“検証”している。なぜなら、自然は弁証法的なプロセスとして動き続ける歴史であることをみずから証明しているからだ。
自然は弁証法の検証である、そして、近代の自然科学のためにいうならば、自然科学は極めて豊富にして日々目撃する材料を提供して次のことを検証している、すなわち、自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである、それは不断の循環運動をいつも同じようにくり返さない一つの現実の歴史なのである。
このことを初めて明らかにしたのがカントだ。カントはニュートンに対して一切の惑星は回転する星雲から生じたとする星雲説を提唱し、宇宙が歴史的に展開していると主張した。
ヘーゲルはこのカント説を受け継ぎ、それを展開した。ヘーゲルは世界それ自体が一つの過程であり、たえず生成と消滅を繰り返すのだと説いた。
しかしヘーゲルは、世界の現実が「理念」の写し絵として現れていると考えてしまい、相関関係を転倒して(ひっくり返して)捉えてしまった。そのためヘーゲルの弁証法は観念論的なものであり、逆立ちしてしまったのだ。
ヘーゲルは観念論者であったから、彼にとっては彼の頭のなかの思想は現実の事物や過程を抽象してできる模写ではなかった、それとは反対に、事物とその発展とは、世界そのもの以前にどこかにあらかじめ存在している「理念」が模写として現われているものと考えた。このため、一切のものは逆立ちさせられ、世界の現実の関連は完全に顛倒された。
ドイツ観念論の誤りが分かるにつれ、次第に唯物論の力が増してきた。
ただし、この唯物論は18世紀に見られた単なる機械論と異なる。私の唯物論はまさに弁証法的なものだ。それは従来の歴史のうちから人間の発展過程と運動法則を見出したものなのだ。
かくして、ヘーゲルの観念論的な歴史観の代わりに、弁証法的唯物論が新たな真の歴史観として現れてきたのだ。
資本主義から社会主義へ
エンゲルスからすれば、歴史は弁証法的唯物論にしたがって進展する。それに従えば、階級の成立も階級間の闘争も必然的だ。
ところで、ここでのエンゲルスのポイントは、資本主義が社会主義によって乗り越えられるとき、歴史の進展は終りを迎えるという点にある。
では、そこに至るまでの過程はどのようなものだろうか?以下、エンゲルスの説明を順を追って見ていこう。
生産手段の「社会化」
唯物史観は、社会制度の基礎は生産と交換にあり、階級は生産と交換の様式によって決まると考える。と同時に、政治における変革の原因と手段が「生産関係」のうちにあるとする。
そこで生産関係へと目を向けると、ブルジョワ階級が自分たちにとって都合のいい社会制度を作り上げるにつれて、大工業はその時代の資本主義の生産方法と衝突するようになったことが分かる。
理由のひとつは生産手段の社会化にある。
資本主義が現れる以前の中世では、労働者は自分の労働手段をもっており、彼自身がそれを独占的に使っていた。個々の生産者がおのおの製品を交換し、無計画な分業が行われていたにすぎなかった。
しかし近代にいたり、ブルジョワジーと資本主義的な生産方法によって労働手段が一気に集積された。個人の仕事場の代わりに、数百人が協同作業を行う工場が現れ、計画的な分業が行われるようになった。このことは、個人的生産とならんで社会的生産が現れたことを意味している。
資本主義の矛盾=搾取
生産手段と生産体制は社会化された。にもかかわらず、生み出された生産物は、生産手段の所有者である資本家によって取得(搾取)されてしまう。
この矛盾こそが資本主義の本質であり、プロレタリア階級とブルジョワ階級の衝突の根本原因だ。
社会的に生産されることになった生産物を取得する人は、生産手段を現実に動かし、生産物を現実に生産する人ではなくて、資本家であった。
この矛盾こそ、新しい生産方法に、資本主義の性質を与えるものであり、この矛盾の内に現代の一切の衝突の萌芽が含まれている。
ところで、資本主義においては、商品生産がそれ自体独自の法則をもって進んでいく。つまり市場における商品が生産者から独立し、商品の法則が生産者を支配してしまうのだ。
この法則は、生産者から独立して、生産者の意志に反して、盲目的に作用するところのこの生産形態の自然法則として自己を貰徹するのである。生産物が生産者を支配する。
ここでは「生産の無政府性」と呼ぶべき事態が生じている。
商品の法則に支配された資本家は機械をどんどん改良する。さもなければ資本家は他の資本家との競争に負けてしまうからだ。
機械の改良は、労働を供給過剰へと追い込んでしまう。それによって失業が生じ労働者は貧困へと投げ込まれる。しかしその一方で、資本家には富が集中する。こうして資本の論理は貧富の格差を拡大してしまうのだ。
不況 → 恐慌 → 独占
生産力の拡大と市場つまり需要の拡大は次第に矛盾するようになる。それらは衝突するほかない。この矛盾が表面化すると不況となる。
生産者たちは、自分たちが生産力(=労働者)を完全に管理することができないことを認めなければならない。労働者は資本の論理から解放され、社会的生産力として承認されることを求めるからだ。
そこで生産者たちは生産手段を社会的なものへと変えるために、資本を独占して「トラスト」を作り上げる。生産者たちは生産をコントロールし、価格を市場に押しつける。しかしトラストも結局はうまく行かず、結局はひとつの大企業が国内産業を独占するにいたる。
トラストの段階では社会主義的な計画生産が優位となる。しかし大企業による独占の段階へ移ってしまうと、強烈な搾取が現れ、独占体制は崩壊するほかない。労働者が明白な搾取をそのまま放置するはずがないからだ。
ここでエンゲルスは大企業による独占は崩壊するに違いないと観測的な見方を取っているが、特に根拠を提示しているわけではない。何となくそんな気がする(そうあってほしい)だけだったのだろうか?
恐慌において大企業が現れることは、資本家が社会における機能を失ったことを示している。資本家は端的に資本の争奪戦を繰り広げているだけであり、労働者のみならず資本家もまた過剰になったことがいまや明らかとなる。
国家は搾取を無くさず、むしろ維持
恐慌を解決するために産業を国有化したとしても、それによって生産力の社会的性質が認められるけではない。なぜなら近代国家は、資本主義の基本的な条件を維持するために、資本家家の利益を守るためにブルジョワたちが作り出した制度だからだ。それゆえ国家のうちでは、労働者たちは絶対に搾取から逃れることはできない。
近代国家もまた、労働者や個々の資本家の侵害に対し、資本主義的生産方法の一般的な外的諸条件を維持するために、ブルジョア社会がつくりだした組織であるにすぎない。近代国家は、どんな形態をとろうとも、本質的には資本主義の機関であり、資本家の国家、観念としての全資本家である。生産力の所有をますます多くその手に収めれば収めるほど、国家は、いよいよ現実の全資本家となり、ますます国民を搾取する。
国家はブルジョワ階級(資本家階級)の利益維持機関である。これがマルクス主義の基本的な国家観だ。
国家は死滅する=「必然の王国」から「自由の王国」へ
では、どうすれ資本家階級による搾取を止めることができるのか?
それは生産力のもつ社会的な性質を実際に承認することで可能となる。つまりブルジョワ階級ではなく、社会が生産方法を所有すれば、私たちがそれを直接的にコントロールすることができるようになり、搾取は無くなるのだ。
そこには搾取もなければムダもない。そしてまた、搾取を正当化するために必要とされた国家は不必要となる。抑圧しなければならない対象も、階級支配も生存競争もそこには存在しないからだ。したがって国家は自然と死滅する。
国家がいつの日か社会全体の本当の代表者となるならば、そのとき、それは無用物となる。抑圧すべきいかなる社会階級も存在しなくなり、階級支配と従来の生産の無政府状態に立脚する個人の生存競争がなくなってしまえば、そしてこれから生ずる衝突と逸脱とがなくなってしまえば、抑圧しなくてはならぬものはないのである、特殊な抑圧権力たる国家は必要でない。
国家は「廃止」(“abschaffen”)されるのではない、死滅する(absterben)のである。
いまや資本の論理に代わって計画生産が行われるようになる。それによって初めて私たち人間は自分自身の社会を自分たちでコントロールできるようになり、真に人間的な存在になる。ここではいわば「必然の王国」から「自由の王国」への飛躍とよぶべき決定的な変化が起こっているのだ。
マルクス主義の基本構図がよく分かる
本書のエンゲルスの議論は、現在のマルクス主義の基本的な骨格となっている。経済的な不平等は資本主義の必然的な帰結だ。資本主義の枠内であれこれやっていても根本的な解決は望めない。それを解決するためには資本主義自体を無くさなければならない。このビジョンが、当時の人びとを強烈に惹きつけ、社会変革へと駆り立てたのだ。
しかし矛盾を解決するために資本主義を無くして社会主義へと移行すればOKとするのは、やはり表象的であり原理を欠いている。
国家は暴力縮減の契機
エンゲルスは社会主義が「自由の王国」をもたらすと主張する。しかし、幸福の内実が多様化していることを前提とすると、自由は制度的に保障されなければならず、フェアな幸福追求ゲームの可能性が普遍的に確保されていなければならない。
そのためには法律を公布し施行する権限をもつシステムがどうしても必要となる。国家は、そのための制度として、一般的に承認されているものだ。
これはある意味当たり前のことだ。暴力を抑制するようなシステムがなければ、要は弱肉強食の世界、ホッブズの描いた「万人の万人に対する闘争」に陥ってしまわざるをえない。
いかにして国家の正当性を確保するか
目下のところ、国家は、私たちがエゴイズムの相克を抑制しつつ、各人が各人で「よい生」を営むために必要な基本条件である。
この点から言えば、問題は、国家を否定することにあるのではなく、いかにして誰もがフェアと認めざるをえないような正当性を国家に確保できるかにある。その原理を打ち出したのが、近代哲学者、とくにルソーでありヘーゲルであることは、『社会契約論』と『法の哲学』が示しているとおりだ。