デカルト『情念論』を解読する

本書『情念論』は、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596年~1650年)による著作だ。1649年に発表された。

本書でデカルトは心身二元論の観点から「情念」(Passion)について論じている。

精神は考えるモノであり、身体は延長をもつモノである。そうデカルトは『省察』で主張していた。精神と身体はあくまで別々に存在する。しかしここで難題が生じてくる。人間は考えるモノであると同時に、延長をもつモノでもあるからだ。私たちは精神としても、また身体としても存在している。この事態をどう考えるべきか?これが本書のメインテーマだ。

精神と身体は「松果腺」を通じてつながっている

デカルトいわく、私たちの精神にとっては、身体が最も「能動的」なものだ(ここでいう能動的とは、意識の向こう側から働きかけてくる、ということ。自律的と言ったほうが分かりやすいかもしれない)。一方、情念は精神と同じく受動的なものだ。

なので、情念を認識するためには、精神と身体の違いを吟味して、私たちのもつ機能が精神と身体のどちらに属するかを見なければならない、とデカルトは言う。

私たちは物体が考えるとは言わず、精神が考えると言う。一方、私たちのうちにある熱と運動は、それが思考によらない限り、身体にのみ属すると考えるべきだ。

また身体の機能に着目すると、身体運動の物体的な原理は心臓の熱だ。心臓に流れ込む血液は精気を作り、精気は脳へと流れこむ。

精気の流れは、脳の奥にある松果腺がコントロールしている。松果腺は精気の流れを変化させる部位だ。松果腺は精気を脳の孔から放出し、神経を通して筋肉に到達させ、これによって筋肉を運動させている。また精神は松果腺のうちで生じる運動から知覚を受け取っている。

したがって松果腺は精神と身体をつなぐ役割を果たしているのだ。

精神と身体は別のものとして存在している。ただし、それらは松果腺によってつながっており、これを通じて相互に関係している。これがデカルトの心身二元論のポイントだ。

「精気なんて無いけれど?」と言う前に

現代の水準から言えば、精気が神経を通って筋肉を動かしているとする主張は正しいものとは言えない。だがそうした批判自体にあまり価値はない。むしろ大事なのは次のことだ。

デカルトは、私たちの身体は神の意志によってではなく、それ自身のメカニズムによって運動する、と考えた。これは当時の水準から考えると、とても卓越した視点だったと言える。当時のヨーロッパでは、人間は神の被造物だという見方がいまだに強い力をもっていたからだ。

情念は精神に意志させる

デカルトによれば、情念は、脳に含まれる精気が心臓の動きを早めたり遅めたりするのに役立つ方向へと流れるときに生じてくる。したがって、ドキドキしたり、ビックリして心臓が止まりそうになるときには情念が働いているということになる。

情念をひき起こすおもな原因は、脳室に含まれる精気であって、しかもそれが、心臓の入口を広げたりせばめたりするに役だつ神経のほうへ、あるいは他のところにある血液をさまざまなしかたで心臓におしやるに役たつ神経のほうへ、あるいはどのようなしかたによってであろうと、ともかくも同じ情念を維持するに役だつ神経のほうへ、流れるかぎりにおいてなのである。

情念の効果は次の点にある。つまり情念は精神に対して、自分が身体にさせようとしている事柄を、精神にも意志するように働きかけ方向づける。

たとえば「恐れ」の感情は、精神に対して逃げることを意志するよう促し、「大胆」の感情は闘うことを意志するように促してくる。

ここでデカルトが言おうとしているのは、身体の運動をリードしているのは意識(精神)ではなく情念だ、ということだ。

私たちは自分がしようと意思していないことを(むしろそれに反対しているときでも)してしまうことがある。たとえば私たちは誰かを愛そうと思って愛することはできない。なぜなら愛は自分の意識(精神)によって完全にコントロールできるものではなく、精神のかなたから到来してくる感情だからだ。

こうした感情の彼岸性こそ、デカルトが情念の概念に込めているポイントだ。

喜怒哀楽は欲望を通じてのみ表現される

デカルトによれば、私たちの基本的情念は、驚き、愛、憎み、欲望、喜び、悲しみの6つだ。確かにそれらはどれも意識して得られる感情ではない。驚こうと思って驚くことはできないし、悲しいときに嬉しくなろうと思っても無理だ。嬉しいときは嬉しいし、悲しいときは悲しい。

デカルトいわく、なかでも欲望は特別の位置を占めている。なぜならそれらの情念は、驚きを除いて、欲望を通じてのみ行為を引き起こすことができるからだ。

それはなぜか。喜怒哀楽が現在に限定されているのに対して、欲望は精神に未来の対象を目がけさせる本性をもつからだ。

欲望は善(「よい」こと一般)が未来において存在し、また存在し続けることを精神に願わせる情念だ。欲望が働くので私たちは未来の対象をめがけて行為する。喜怒哀楽も欲望を介してこそ精神に未来の対象をめがけさせることができるのだ。

もし「欲望が私たちの時間性の根拠である」と論じていたならば、デカルトの時間論はズバ抜けたものになっていたはずだ。私たち人間の時間性は情状性(気分)を根拠とする、と論じたマルティン・ハイデガーの議論を数世紀先取りしていたかもしれない。

欲望を否定するのではなく、コントロールしよう

私たちの情念は欲望を通じて、精神に対して未来の対象を目がけて行為するよう意志させることができる。

私たちにとって欲望はとても重要だ。なぜなら欲望があってこそ、私たちは「善」を目がけることが出来るからだ。そうデカルトは言う。

しかしデカルトは私たちは欲望の赴くままに行為するべきだと言うわけではない。私たちはまず、何が善であるかを理性と経験によって見て取らなければならない。それによって私たちは善と悪を区別し、本当の善を目がけることができるようになるからだ。そうデカルトは主張する。

われわれは経験と理性とを用いて、善きものを悪しきものから分かち、善きものと悪しきものとの正しい価値を知らねばならない。それは、善を悪ととりちがえたりせぬように、また何ごとにも過度に傾かぬように、するためである。

欲望には私たちに依存する部分とそうでない部分がある。なので欲望を、私たちに依存する部分以上に広げないよう訓練しなければならない。それによって欲望の達成がつねに完全な満足をもたらすようになるからだ。

このように必然の宿命を偶然の運から区別する練習をつむならば、われわれは、自分の欲望を統御する習慣を容易に獲得することは確かであり、しかも、それら欲望の達成は、ただわれわれ自身にのみ依存するのであるから、それらはいつも完全な満足をわれわれに与えることができるのである。

初め松果腺の運動は自然に形成される。しかしそれは「習慣」(習慣化)を通じて他の運動に結び付けることができる。要は方法の問題なので、だれでも訓練すれば情念をうまくコントロールできるようになるはずだ。そうデカルトは言う。

デカルトの倫理学

情念論 (岩波文庫)

『方法序説』でデカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」が一切の学問の原理でなければならないと論じていた。『情念論』はいわばその土台の上に組み立てられた建物だ。

『情念論』を純粋に自然科学的な観点から捉えれば、いまや何の意義ももたない。しかし欲望をうまく生かすことで私たちは「よく」生きられるとする視点、これは現代でも生かすことができる。デカルトは理性と欲望の適切なバランスを保つことが「よい」生にとって重要だという。これは確かにその通りだ。