デカルト『方法序説』を解読する

『方法序説』は、「近代哲学の父」として知られるルネ・デカルト(1596年~1650年)の代表作だ。1637年に発表された。

デカルトの代名詞は「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)。大学などで哲学を勉強したことがなくても、おそらく一度は聞いたことがあるだろう。これはデカルトの思想の根本にある考えだ。

本書におけるデカルトの功績は、習俗や文化の違いを超えた共通了解の可能性を取り出したことにある。

デカルトは、それまでの「神が真理を照らし出す」(=神を知らない一般人は真理を知ることができない)という考え方に代えて、理性でとことん考えれば誰もが受け入れることのできる地点があるはずだという考え方を打ち出した。これは歴史上、とても先駆的な直観だった。

以下、この点についてデカルトの議論に沿いながら確認してみたい。

世界の普遍的認識を目指して

本書の冒頭で、デカルトは次のような主張を置く。

よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、これが本来良識または理性と名づけられるものだが、これはすべての人において生まれつき相等しい。

人間は、理性によって世界を合理的に推論し、その全体像を理解することができる。理性は誰もが等しく備えているので、理性の使い方を間違えないかぎり、世界についての推論は共通のゴールに達することができる。

言い換えれば、世界認識は普遍性に到達することができる。

そこで問題となるのが、どこに推論の出発点、つまり原理を置くかということだ。どれだけ理性を正確に働かせたとしても、スタート地点が各人各様であれば、ゴールもバラバラにならざるをえないからだ。

当時は、「信仰」によって真理に到達することができるとするスコラ哲学の見方がいわゆる正統的なものだった。

デカルトの見方はこれを根本的に否定する。

誰もが受け入れられる原理を見つけ、そこから出発し、理性を正しく働かせれば、普遍的な世界認識に達することができる。私たちは理性を正しく使うことで、宗教や文化の違いを超えて、共通の理解に達することができるのだ。このデカルトの直観はまさに画期的なものだった。

デカルトには、理性を正しく使うためには「方法」に従う必要があるという直観がありました。「方法」の具体的な中身については、こちらの記事で解説しました → デカルト『精神指導の規則』を解読する

方法的懐疑で哲学の出発点を置く

そこでデカルトは、「では世間の人びとは何を考えているのか?」と考え、しばしの間旅に出る。旅先でデカルトは色々な物ごとを見聞きし、自分の思想を徹底的に吟味する。

その際にデカルトが取った方法はとてもシンプル。あえて一切を疑うこと。全てを疑って疑いつくすこと。こうして徹底的に行われる懐疑が、デカルトの「方法的懐疑」だ。

一つ一つの事がらについて、その疑わしい点、それがわれわれを誤らせやすい点について、反省することに心を用いつつ、前から私の精神に忍びこんでいたすべての誤謬を、次々に根こそぎにしていったのである。

ところで、デカルトが方法的懐疑を行った理由は何だろうか?なぜ普通の懐疑では満足できなかったのだろうか?

この点を理解するためには、デカルトが方法的懐疑を行う動機について見ておく必要がある。ひとことで言うと、それは誰もが受け入れられる(かつ受け入れざるをえない)、哲学の出発点を置くことにあった。

感覚は疑わしい。感覚は欺くことがあるからだ。したがって自分の外側にある対象が存在するかどうかには疑いの余地が残るので、確実な出発点とすることはできない。

では自分の内側の思考はどうか。幾何学の証明は、間違いを犯しうるので疑わしい。夢もまた疑わしい。なぜなら夢は幻想だから。

こう考えてゆくと、何ひとつ確実なことは残らないように見える。しかし、まさにそのように疑っている自分が存在すること、これを否定することは絶対にできない。

したがってこれは、誰もが受け入れられる、かつ受け入れざるをえない哲学の出発点とすることができるはずだ。

私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。

「われあり、ゆえにわれ思う」ではない理由

よく見ると、「われ思う、ゆえにわれあり」は、私たちが普通考えている順序とは逆になっている。私が考えることができるのは、私(脳)があるからだ。普段私たちはそのように考えているし、誰もそれが間違っているとは思っていない。デカルトとしても、私が存在しているのは私が考えている限りだ、と言いたいわけではない。

以前「考えない人間(バカ)は存在しないに等しい」とするウルトラCの解釈を見かけたことがあるが、当然そういうことではない。

ではなぜデカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」という不自然な言い方をしたのだろうか?

それは普遍的な認識の可能性を基礎づけるためだ。

デカルトはキリスト教的世界観に代わる、ほんとうの意味での普遍性、共通了解の可能性を打ち立てるために、とことん根底的な地点から考えることで、方法的懐疑を編み出した。そして、方法的懐疑をみずから行うことによって「われ思う、ゆえにわれあり」を導き、これを思想の出発点に置いたのだ。

その意味で、方法的懐疑は、誰にとっても共有可能な、哲学のスターティングポイントを置くために編み出された方法なのだ。

「方法的懐疑」についてはこちらでも解説しました → 「方法的懐疑」は何のため?

主体の形而上学?

ニーチェは『権力への意志』で、懐疑しているとき私たちは自分についての認識を現象としてもつだけだ、とするデカルト批判を展開した。後年、このニーチェの批判が「主体の形而上学」として爆発的に広まった。存在しない主体を信仰するのは形而上学的である。主体の概念は放棄されねばならない。これがデカルトに端を発する、いわゆる意識哲学・近代哲学一般に対する批判の範型となった。

もっとも、そうした批判のように、「真理も主体も存在しない」と言うだけなら簡単だ。ただ、そのこと自体をいくら指摘したところで、あまり意味はない。というのも、とりわけ真理に関しては、それが実在しないことについては、私たちの誰もが暗黙のうちに気づいているからだ。

なぜ真理を求めてしまうのか?
なぜ真理を求めてしまうのか?

それゆえ、むしろ答えられなければならないのは、にもかかわらず私たちが真理や主体を仮構してしまう理由はなぜか、ということだ。ニーチェが「権力への意志」という概念を示したのは、そうした問いに答えるためでもあった。一切の認識は価値解釈なので、真理も主体も私たちの側からの価値解釈として現象するのだ、と。

ニーチェには、それまでの一切の価値秩序を転換するという課題を成し遂げるためには、それに応じた原理がなければならないという強い確信があった。だからこそニーチェは、『権利への意志』で価値転換に関する議論を行うに先だち、認識についての原理論を行ったのだ。こうした原理論のおかげで、ニーチェの言い方は、ただの相対主義やイチャモンになることなく、きちんとしたものになっているのだ。

一方、デカルトは基礎づけ主義、意識主義、真理主義である、とニーチェの二番煎じ的な批判を行っていた哲学者たちは、相対化以外に何か特筆すべき業績を残しただろうか?ほとんど何も残していないのが率直なところではないだろうか?

神の存在証明

ともあれ、最後に、デカルトは有名な「神の存在証明」を行い、それにしたがって認識の確実性を基礎づけようとしている。一般にこのデカルトの証明は詭弁とされているが、一応見ておこう。

何かを疑いの対象とするのは不完全な存在のみだ。疑うためには完全であってはならない。それゆえ人間は不完全な存在である。

不完全な人間が完全な神の観念をもっている。不完全なものは完全なものに由来するのでなければならない。したがって神が存在するのでなければならない。

ところで人間のもつ観念は神に由来する。神が人間を欺くことはありえない。したがって人間の観念は確実に真であるほかない。

つまりこういう感じだ。

神は完全(無限)であり、人間は不完全(有限)。完全なものが不完全なものに由来することはありえない。むしろ逆。だから不完全な人間の由来としての完全な神が存在すると言わなければならない。

無限は有限に含まれない?

上のデカルトの証明は、「無限は有限のうちに含まれない」ことを前提としている。しかしこれは本当に正しいと言えるだろうか?

実際のところ、決してそのようなことはない。無限が有限のうちに含まれるような例はいくらでも示すことができる。たとえば3センチの線分は、長さは有限だが、限りなく分割できるという点で無限だ。円の面積は有限だが、中に無数の点を打てるという意味では無限だ。

有限や無限は概念であり、観点の取り方でいくらでも変わる。それらを何か実体的なものとして捉えると、デカルトのようにトラップに引っ掛かってしまう。「概念の実体化」に陥らないことは、本書に限らず、哲学の基本ルールだ。

本書の内容は以上だ。

共通了解の可能性

確かに、神の存在証明は詭弁だ。

とはいえ、キリスト教の教義が絶対的な真理だった時代のうちで、宗教や文化の違いを超えた普遍性に到達しようとした点で、デカルトはそれまでの哲学とはまったく別次元の射程をもっていた。このことも確かだ。

なかには哲学と聞くと、頭のいい人たちがあれこれ観念をいじくり回して、好き勝手に言っているというようなイメージをもっているひともいるかもしれない。しかしデカルトには、本質は誰にとっても理解することができなければならない、レトリックを多用してあれこれ論じるのは学者の悪しき態度である、という確信があった。これは確かに納得できるものだ。

本書は哲学の歴史のなかで特別の地位を占めている作品だ。否定的に捉えるひともいれば、肯定的に捉えるひともいる。ただ、いずれにしても、先入観をもつことなく読んでから判断してみてほしい。哲学では先入観と読まず嫌いが二大タブーだ。

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