デカルト『省察』を解読する

『第一哲学についての省察』Meditationes de prima philosophia(一般に『省察』と略される)は、フランスの哲学者デカルト(1596年~1650年)による著作だ。『方法序説』の3年後、1640年に発表された。『方法序説』はフランス語で書かれたが、本論はラテン語で書かれている。

本論のメインテーマは以下の2つだ。

  • 神の問題
    • 神の存在証明
  • 精神(=意識)の問題
    • 心身二元論

それでは以下、本文に沿って見ていくことにしよう。

第一省察:方法的懐疑について

第一省察のテーマは、「普遍的な懐疑」の効用だ。ここでいう普遍的な懐疑とは、『方法序説』で示された方法的懐疑のことだ。

デカルトいわく、方法的懐疑は懐疑主義ではない。むしろ、認識の普遍的な根拠を示すことで、懐疑主義に反論し、学問の出発点を置くことを目的としているのだ。冒頭でデカルトは次のように言っている。

すでに何年も前に、私はこう気づいていた—まだ年少のころに私は、どれほど多くの偽であるものを、真であるとして受け入れてきたことか、また、その後、私がそれらのうえに築きあげてきたものは、どれもみな、なんと疑わしいものであるか、したがって、もし私が学問においていつか堅固でゆるぎのないものをうちたてようと欲するなら、一生に一度は、すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない、と。

夢と現実は区別できない?

デカルトは次のように続ける。

感覚は私を誤らせることがある。しかしそうでない場合もある。いま私がここにいることをどうして否定できるだろうか。そうしようとするのは狂人くらいだ。しかし私は、眠りに入ると、そこでもまた自分はいまここにいると考えることだろう。

確かに、いま私は目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし私は、夢のなかで同じような考えにだまされたことを思い出さずにはいられない。

以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見いだすことができないことに気づかされる。

ここでデカルトは、私たちが見ているのは現実ではなく夢だとあえて想定して、以下のように言う。

手についてのイメージをもつためには、その元となる手がなければならない。また、空想上のキャラクターを描くためには、たとえそのキャラクターが空想であっても、色それ自体は真のものでなければならない。これと同様のことが事物の性質一般についても言える。形や量、場所、時間など。

しかし私は次のような説があることを知っている。全能の神が存在し、この神によって私はいまあるものとして造られたのだ、と。そうすると、私は神によって、形や量、場所などがあると思うように(実際はそんなものはないにもかかわらず)造られた、と考えることもできる。

こう考えると私は次のように言わざるをえない。かつて私が真とみなしたもののうちで、一切の疑いを容れないようなものは何一つ存在しない、と。

悪い霊がダマそうとしていると仮定する

しかし、デカルトいわく、このことに気づくだけではまだ足りない。さらに進んで、一切の意見は幻である、悪い霊が私を誤らせているのだと考えてみよう、という。

ここで、意志をまったく反対の方向に曲げて、私自身を欺き、それらの意見をしばらくの間まったく偽りで幻のものと仮想してみよう。

真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。

あえてそのような想定を置くことで、意識的・徹底的に懐疑を行うこと、これが方法的懐疑のポイントだ。

ちなみにデカルトは、第六省察で夢と現実を区別するための条件について論じている。デカルトはそこで、現在の知覚と過去が記憶によって結びつけられないとき、これを私たちは夢とか幻覚と呼んでいるのだ、というふうに論じている。

第二省察:精神が最も明証的に把握できるのは、精神自身

次に第二省察を見ていくことにしよう。

デカルトはここで、方法的懐疑から導かれる「われ思う、ゆえにわれあり」を踏まえ、私たちの精神(=意識)が最も明証的evidentlyに認識できるものは精神それ自体であると主張する。

まず初めに、デカルトは次のように言う。

「われ思う、ゆえにわれあり」が意味しているのは、私が存在していると確実に言える(=言わざるをえない)のは、ただ私が考えているだけである、ということだ。もし考えることを一切止めてしまえば、その際おそらく私は、存在することをまったく止めてしまうことになるだろう。

いま私が承認するのは、必然的に真である事がらだけである。それゆえ、厳密にいえば、私とはただ、考えるもの以外の何ものでもないことになる。いいかえれば、精神、すなわち知性、すなわち悟性、すなわち理性、にほかならないことになる。

気をつけておきたいが、ここでデカルトは「私とは理性である」と言っているわけではない。方法的懐疑を徹底すれば、考えている私が存在することは絶対に確実だが、考えることを止めれば、そのことは確実ではなくなる(=疑いの余地が生じる)。

デカルトの目的はあくまで、絶対に確実といえる、学のスタート地点を置くことにあった。方法的懐疑はその目的に照らして考案されたのであって、身体や感覚は存在しないと主張するためだったわけではない。

方法的懐疑の意義については、こちらでも解説しました → [Q&A]「定言命法」とは?

事物の認識と精神自体の認識

デカルトは以下のように言う。

いまなお私には、物体的な事物—心のうちにそれらの像を描きだすことができ、感覚そのものによってじかにつかまえることのできる事物—のほうが、かのもの—なんらか私自身に属すものでありながら、想像力によってはとらえられないもの—よりは、はるかにはっきりと知られるように思われる。また私は、そう思わないではいられないのである。

たとえば目の前にコップがあるとする。これをより深く認識するためには、手に取ったり眺めたりして観察すればいい。どのくらいの大きさか、どのような形か、どれくらいの深さか、というように。

確かにコップと比べると、自分自身についての認識はそれほどハッキリしていないように思える。でも実際はどうだろうか?

たまたま私はいま、通りを行く人々を窓ごしにながめる。そして、蜜蝋の場合と同じく習慣によって、人間そのものを見るという。しかし私が見るのは、帽子と衣服だけではないか、その下には自動機械が隠れているかもしれないではないか。けれども私は、それは人間である、と判断している。同じように私は、眼で見るのだと思っていたものをも、私の精神のうちにある判断の能力のみによって理解しているわけなのである。

もちろんデカルトは、自動機械が実際に隠れているはずだと考えていたわけではない。ここで大事なのは、事物の認識には可疑性が必然的につきまとうということだ。意識は知覚をもとに判断を行うことで、その事物が何であるかを判断している。しかしその判断には誤る可能性がつねに存在している。

これに対して、デカルトいわく、精神自身の認識は最も明証的だ。事物についての認識は誤りうるが、精神自身の認識にはその余地がないからだ。

物体ですら、本来は、感覚あるいは想像の能力によって把握されるのではなく、ただ悟性によってのみ把握されるのだということ、また、触れたり見たりすることによって把握されるのではなく、もっぱら理解することによって把握されるのだということが、いまや私に知られたのであるから、私は、私の精神ほど容易に、また明証的に、私によって把握されるものはほかにありえないということを、明らかに認識するのである。

第三省察:神の存在について

次に第三省察を見ていこう。ここでのメインテーマは、神の存在証明だ。

さきにデカルトは、悪い霊が私をダマしていると考えてみようと述べ、現にそうした前提のもとで議論を進めてきた。それは神が私たちの認識を誤るように造ったかもしれないからだ、と。しかし、デカルトいわく、そうした前提は確実な根拠をもたない「こじつけ」でしかない。

デカルトによれば、むしろ次のように考えなければならない。

私のうちにある観念の原因を私自身のうちに見出すことができず、自分がその原因でないことを確信するならば、ここから必然的に、世界にただ私だけが存在しているのではなく、その原因もまた存在するのでなければならないことが導かれる。

ここで、神の観念について考えてみたい。ここでいう神とは、完全で無限、全能であり私を、そして他のものがあるとすれば、それらを創造した実体のことだ。

右に述べられたところからして、神は必然的に存在する、と結論しなくてはならないのである。

なぜなら、私は実体である、というそのことから、確かに実体の観念が私のうちにあるにしても、だからといってその実体の観念は、—私が有限なものであるゆえ—真実に無限であるところの、ある実体からでてきたのでないかぎり、無限な実体の観念ではありえないはずであるから。

無限な観念が有限な存在から導かれることはない。なぜなら有限は無限に由来するからだ。したがって神は存在する。これがデカルトの証明のキーポイントだ。

神はダマさない

また、デカルトいわく、神が私たちをダマすことはありえない。つまり誤った認識を行うように造ることはありえない。なぜならダマそうとするのは、ただ不完全な存在だけだからだ。

神が欺瞞者でありえないことは明らかである。なぜなら、すべて奸計と欺瞞とはある欠陥にもとづくものであることは、自然の光によって明白であるから。

第四省察:理性を正しく使えば、正しく認識できる

次は第四省察を見ていくことにしよう。

ここでデカルトは、神の存在証明を踏まえて、私たちの認識の正しさの根拠は理性にあることを示している。理性を正しく使えば、正しく認識することができる。それは何故かというと、理性は完全な存在である神によって与えられたものだからだ、と。

では、なぜ私たちは判断を誤ることがあるのだろうか。デカルトいわく、それは私たちの判断能力の有限性と意志の自由のためだ。

私の誤謬はいったいどこから生じるのであろうか。この一つのことから、すなわち、意志は悟性よりも広い範囲に広がるものであるゆえ、私が意志を、悟性と同じ限界内にとどめおかずに、私の理解していない事がらにまでおよぼす、というこの一つのことから生じるのである。

誤る原因は理性ではない。誤るのは私が理解している範囲を超えて意志の力を及ぼすためだ。

私はしかし、何度も入念に省察を繰り返すことで、誤らないようになることができる。ここにこそ人間の完全性があるのだ。

第五省察:再び神の存在証明

次は第五省察を見ていこう。ここでデカルトは、再び神の存在について論じている。

神の存在は、神の本質から切り離すことはできない。存在を欠いている、すなわち完全性を欠いている神を考えることは矛盾だ。

確かに次のように言えそうではある。私が神を存在すると考えるからといって、現に存在しているとは限らないのではないか、と。しかしそうではない。というのも

私が神を存在するものとしてでなければ考えることができないということからは、存在が神から不可分離であるということ、したがって、神は実際に存在するということ、が帰結する

からである。

このことは、私がそのように考えるというよりも、むしろ神の存在の必然性が、私にそう考えさせるのだ。なぜなら「存在しない神」は形容矛盾であり、そのように考えることはできないからだ。

しかし、いずれにせよ最終的には、明晰判明に認識できるものは真であるという点に帰着する。

神が真なる認識を送り込んでいるから、その認識が正しいといえるわけではない。あくまでも、私が明晰判明に認識できるからこそ、それは真であると言える。大事なのはこの構えだ。

いま私が考えていることはすべて、眠っている間に心に浮かんでくることと同じように真ではないのだ、とでもいおうとするのか。そんなことをいってみても、なんにもならない。なぜなら、たとえ私が夢みているのだとしても、私の悟性にとって明証的であることはすべてまったく真なのであるから。

第六省察:心身二元論

最後に、第六省察を見ていくことにしよう。ここでのメインテーマは、精神と身体が区別されて一体となっているということ、つまり心身二元論だ。

ここでデカルトは次のように言っている。

おそらくは〔あるいはむしろ、すぐあとで述べるように、まちがいなく〕私は身体をもっており、これが私ときわめて密接に結びついているにしても、しかし私は、一方で、私がただ思惟するものであって延長をもつものでないかぎりにおいて、私自身の明噺で判明な観念をもっているし、他方では、身体がただ延長をもつものであって思惟するものでないかぎりにおいて、身体の判明な観念をもっているのであるから、私が私の身体から実際に分かたれたものであり、身体なしに存在しうることは確かである。

精神が身体なしに存在しうる、という言い方は、現代の自然科学の水準からすれば、確かに到底受け入れられるものではない。しかしそうした批判は、デカルトにとってはあまりに辛すぎる。デカルトのような知識人がいたからこそ、自然科学が成立し、現代にいたるまで発展することができたからだ。

一方、以下のような言い方は、なるほど確かにと思わせる。

自然はまた、それら痛み、飢え、渇き等々の感党によって、私が自分の身体に、水夫が舟に乗っているようなぐあいに、ただ宿っているだけなのではなく、さらに私がこの身体ときわめて密接に結ばれ、いわば混合しており、かくて身体とある一体を成していることをも教えるのである。なぜなら、もしこうなっていないとするならば、思惟するものにほかならない私は、身体が傷ついたときでも、そのために苦痛を感ずることはなく、ちょうど舟のどこかがこわれた場合に水夫が視覚によってこれを知覚するように、純粋悟性によってその傷を知覚するだけであろうし、また身体が食べ物や飲み物を必要とするときでも、私はこのことをはっきり理解するだけであって、飢えとか渇きとかの混乱した感覚をもつことはないであろうからである。

骨が折れたとき、私たちは「親指が曲がってしまっている」と思うかわりに、まず第一に「痛っ!」と感じる。意識して指先を痛くすることはできないし、逆に痛みを消すこともできない。我慢はできても、痛さそれ自体を無くすことはできない。というより、そもそも痛さがなければ、我慢しているという感覚自体が生じないだろう。

このように、身体感覚は精神と関係しつつも、精神がこれを「操作」できるわけではない。むしろそうした感覚は精神にとって動かしがたいものとして到来してくる。この直観はそれなりにうまく言えているように思えるが、どうだろうか?

心身二元論については、別の著作『情念論』でより深く論じてあるので、そちらもあわせて読んでみてください → デカルト『情念論』を解読する

夢と現実を区別する条件

最後にデカルトは、私たちが夢と現実を区別できる、その条件について書いている。

第一省察では、夢と現実を区別するための確実な根拠がないことについて驚かされる、と言っていたが、デカルトいわく、その懐疑はあまりに大げさであり、根拠がない。

さきに私は、覚醒を睡眠から区別しなかったが、いまはこの二つのものの間に、きわめて大きな差異を認めるからである。すなわち、夢は、覚醒時に現われる事がらとはちがい、生涯の他のすべての活動と記億によって結びつけられることがけっしてないのである。実際、もしだれかが、私の目ざめている間に、ちょうど夢のなかで起こるように、不意に姿を現わして、そのあとすぐまた姿を消し、どこからきたのかもどこへ去ったのかも私にはわからないというのであれば、私がその者を、ほんとうの人間であると判断するよりも、むしろ幽霊であるか、あるいは、私の脳中にこしらえられた幻想であると判断するのは、なんら不当ではないであろう。

現実では現在の知覚と記憶が調和的な連鎖関係にある。誰かが自分の目の前に現れるときも、いきなりパッと見えてパッと消えるのではなく、だんだんと目の前に近づいてくるものとして現れる。そうした調和的な関係が成立しなければ、対象は幽霊、または幻想と判断される。ただし、これは「判断」であり、実際にその人が幽霊であるかどうかには関わらない。言いかえると、そのように判断するのが妥当であり、このことを疑うことに正当な理由はない、ということだ。

どうすれば神の存在を合理的に説明できるのか?

デカルトは本論に先立つ『方法序説』でも、神の存在証明を行っていた。基本的な流れは本書と同じだ。疑うことができるのは不完全な存在だけだ。不完全なものは完全なものに由来する。それゆえ神は存在するのだ、と。

確かにこの証明は詭弁だ。デカルトの想定に反して、有限は無限を含みうるからだ(10センチの線は有限だが「無限」に分割できる。有限とか無限は実体ではなく、観点によって変化するものなのだ)。

しかしここで、「いるはずのない神について論じるのはバカバカしい」というように批判するのは正当ではない。それが当時の一般的な世界観だったからだ。

むしろ、ここでは次の点に着目してみたい。

デカルトにとって大事だったのは、「とにかく神はいるのだ!」とゴリ押しすることではなく、理性を使えば誰でもそのように考えざるをえないという仕方で神の存在を証明することだった。本論の発表にあたって、デカルトはパリ大学神学部へ献辞を書いている。一部を引用すると次のような感じだ。

私はつねにこう考えてまいりました、神についての問題と精神についての問題との二つは、神学によってよりはむしろ、哲学によって論証されねばならない問題の最たるものである、と。なぜかと申しますに、私たち信仰ある者にとっては、人間の精神が身体とともに滅びるものではないということと、神が存在するということとは、信仰によって信ずるだけで十分なのでありますけれども、信仰なき人々の場合は事情が別であって、あらかじめこの二つのことを自然的理性によって証明してみせたうえでなければ、いかなる宗教も、また一般に、いかなる徳のすすめすらも、彼らに受け入れさせることはできないと思われるからであります。

神の存在を信じないひとに対して、「不信仰だ!」「信仰心を持て!」と言ったところで意味はない。神の存在は合理的に論証する必要がある。なぜならそうすることで初めて神の存在に関する共通了解に達することができるからだ。そうデカルトは考えたのだ。

認識の根拠はあくまでも意識

デカルトは神が私たちを欺くはずがないという言い方をしているため、神が私たちの認識を作り上げていると考えていたように見えるかもしれない。しかしデカルトは同時に、認識が真であると判断するのは私たちの意識である、とも考えていた。明晰判明に認識できるものは、それが存在しないのではないかと疑う正当な理由をもたない。この言い方は確かになるほどと思わせるものだ。