ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を解読する

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本書『アンチ・オイディプス』(1972年)はフランスの思想家ジル・ドゥルーズ(1925年~1995年)と精神科医フェリックス・ガタリ(1930年~1992年)によって著された著作だ。

ハリボテ感

『アンチ・オイディプス』ほど長い著作はめずらしい。ただ、長さと比べると、得られるものはほとんどない。 確かに書き方は難しいが、手を変え品を変え、何度も同じ主張を繰り返しているにすぎない。こう言ってしまうと身もフタもないが、ハリボテ感の否めない著作なのだ。

たとえば本書では「器官なき身体」「n個の性」「原国家」「脱領土化」といった概念が示されている。これだけ聞いてもほとんど意味が分からないかもしれないが、それにビビってはいけない。細かい箇所や「ああも言えるかもしれないし、こうも言えるかもしれない」のような言い方(実際そんな言い方をしている)を全て取り除けば、言いたいことは拍子抜けするほどシンプルだ。

概要をまとめてみる

概要をできるだけコンパクトにまとめてみると、大体こんな感じだ。

こんなイメージ
こんなイメージ

メラニークラインが直観したように、人間は本来さまざまな対象へと欲望を向けている。人間の欲望は「多形倒錯」しており、欲望はそれ自体が生産的な“流れ”である。にもかかわらず、フロイトのエディプス・コンプレックス仮説は、そうした欲望を家庭内の三角関係へとすべて落とし込んでしまう。フロイトは本来散乱している人間の欲望を家庭主義的な枠にはめ込もうとするのだ。

エディプス=コンプレックス仮説は、私たちの本来的な欲望を別の欲望に置き換える。そうすることでフロイト的精神分析は、支配階級による抑制に荷担することになる。支配階級は国家に資本主義を取り込み、欲望の生産性を調整しようとするのだ。

これに対抗するものこそ、分裂症(統合失調症)である。分裂症患者は「欲望する機械」であり、エディプス化されなかった人間だ。彼らは社会的な規律(コード)から逃れており、欲望の流れはつねに自由な状態にある。分裂症患者はいわば境界線を乗り越えていった人たちなのだ。彼らはそうして“逃走”する。逃走というと聞こえがよくないかもしれないが、実のところは創造的なものなのだ。

自我を破壊せよ!欲望の流れを自由に流れさせよ!一人ひとりはそうした流れの集合体であり、自我というものはエディプス化によって作られたものでしかない。資本主義は私たちの対抗運動に反発することだろう。しかし分裂症が示しているように、資本主義は内側から欲望の流れを解放するものへと自壊していくのだ。

欲望は本来どんな形も取りうる流動的なものであり、家族や国家、社会といった枠を超えてつねに広がっていくものだ。社会いいかえると支配階級はこれを放置せず、ヤバイ流れと見なして押さえつけようとする。これを象徴しているのがフロイトのエディプス・コンプレックスだ。フロイトの精神分析は資本主義に荷担し、欲望の本来的なあり方をねじ曲げてきた。しかし分裂症患者は資本主義の規律化(コード化)を免れており、欲望のあるべき姿を示してくれている。いまこそ先駆者たる彼らに続け、というわけだ。

本書への態度

ポストモダン思想は基本的に反真理主義であり、反体系主義だ。ドゥルーズ=ガタリも例外ではない。当然のことながら彼らは本書を体系的に書いていないし、体系的な理解を求めているわけでもない。何とでも解釈できるようになっているはずなので、「この箇所のこの概念の意味は何だ?!」とイキんで読むのは、まったくもってナンセンスだ。どう読んでも、どんな解釈をしても、ドゥルーズたちは喜んで受け入れてくれるはず。そうでなければ、ポストモダンたるものの自己矛盾だ。

では、本文について見ていこう。

人間は「欲望する機械」

ドゥルーズたちの世界観においては、本当にあるのは「機械」(エネルギー機械と器官機械)であり、人間はただそれらをつなぐ存在にすぎない。私たちは一人ひとりが“欲望する機械”である。これが基本の構えだ。

いたるところで、これらは種々の諸機械des machinesなのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互に連結し、接続して、〔他の機械を動かし、他の機械に動かされる〕機械の機械なのである。〈源泉機械〉には、〈器官機械〉がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。

各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があることは、常に流れと切断とがあることである。

生産と分配と消費をひとつの過程と見る観点からすると、人間は万物の王ではない。それは身体の「器官機械」を自然の「エネルギー機械」へとつなぐ担当者でしかない。そこで自然と人間は対立する二項ではなく、等位なのだ。

人間は宇宙のさまざまの機械を担当する永遠の係員なのである。これが〈過程〉というものがもっている第二の意味である。自然と人間とは、相互に相対する二項のようなものではない。だから、因果や理解や表現などといった関係(〈原因-結果〉〈主観-客観〉等々の関係)においては、捉えられないものである。

「器官なき身体」が生まれる

ドゥルーズ=ガタリが言うには、「欲望する機械」が身体へと有機化されようとするとき、身体はそれに苦痛を感じる。そこで機械は「非有機的な塊」を生み出す。この塊をドゥルーズ=ガタリは「器官なき身体」と呼ぶ。これは主体的な身体以前の身体であり、無限に散乱する欲望のことを指している。私たちが普段主体と呼んでいるところのものは、この「器官なき身体」を分節化することで生まれてくるものだ、と彼らは考えている。

種々の自動機械装置は一瞬にして停止し、それは非有機体的な塊りを出現させることになる。この塊りは、それまではこれらの自動機械装置が分節し作動させていたものにほかならない。

主体は絶えず揺れ動く(固定できない)

主体は絶えず揺れ動く。一定の自己同一性をもたず、欲望機械のもとで消費を行うたびにその姿を明らかにし、それと同時に、つねに生まれ変わって現れる。主体は欲望機械の周りに存在するものであり、それが通過する状態から引き出されるものでしかない。主体は中心に存在しない。中心に存在するのは欲望機械だ。

普段私たちは意識を主体と見なしているが、それは誤っている。なぜなら無意識から欲望が生まれ、主体はこの欲望の流れの残りカスでしかないからだ。

主体は、欲望する機械の傍の残りものとして⦅すなわち、その機械の付属物、あるいはその機械の隣接部品として⦆生みだされ、離接点が形成する円環のあらゆる状態を通過して、ひとつの円環から次の円環へと移ってゆく。主体自身は中心にいるのではない。中心は機械によって占められている。主体は周縁に存在し、固定した一定の自己同一性〔身元〕をもたない。それは、常に中心からずらされ、自分が通過する諸状態から引き出されてくるものでしかない。

この言い方は明らかにデカルト以来の理性主義・人間中心主義(とドゥルーズ=ガタリは考えている)を意識したものだ。1970年代のフランスの思想は、意識を主体と見る考えにこぞって反対した。理性や意識、主体といった概念を批判して、無意識こそが真の主体であると論じることで、近代における一切の問題は、その根本において解消されると考えられたのだ。

本来の欲望=散乱する欲望

ドゥルーズ=ガタリいわく、私たちの本来の欲望はつねに散乱している。欲望の対象は「部分対象」であり、何か特定の対象を目指すようなことはない。

メラニー・クラインが発見したように、私たちの欲望は「部分対象」をもつのであって、何らかの全体性を目がけるわけではない。

部分対象は「欲望する生産」に関わるものだ。本来はもろもろの部分対象が、欲望する生産の法則に従って網の目を作り上げている。これが最も根本的で、何にも置き換えられない生産だ。

しかしフロイトのエディプス主義はこの網の目をエディプス・コンプレックスの枠組みへと回収してしまう。欲望の接続や離接(欲望ネットワークの絶えざる再編成)を抑圧し、エディプスの主権のもとにつり下げてしまうのだ。

種々の部分対象⦅つまり、生産の諸動因や反生産の諸因子⦆が、全体としての欲望する生産の諸法則に従ってこれらの諸関係を織り成しているのであるが、この作業が始まるのは、すでにこどもの生命においてであり、しかも乳幼児の最も基本的な諸行動からである。この欲望する生産の本性はいかなるものであるのか、またいかにして、いかなる条件において、いかなる圧力の下で、オイディプス的三角形化が生産の進行の登録の中に介入してくることになるのか。こういったことを始めに見ておかないと、われわれは普及して一般的に受けいれられているオイディプス主義の網の中に捉えられてしまうことになる。このオイディプス主義は、こどもの生命やその後の経過を、また成人の神経症や精神病の諸問題を、さらには性欲の全体を根本的に歪めてしまうものなのである。

エディプス主義は欲望を「欠如」と見なすが、それは間違い

また、エディプス主義は欲望を対象の「欠如」と見なす。これは欲望が初め獲得すべき対象を欠いているとする見方だが、この見方は間違いだ。そもそも欲望機械による生産過程があるだけで、欲望は何も欠如していない。

欲望は、多様な接続と離接によって絶えず形を変えるネットワークのうちを駆けめぐる。固定的な欲望などがありはしないのと同じく、固定的な性別もありはしない。性は無限に存在する。n個の性が存在するのだ。

欲望は無意識の自動的生産の働きであり、実在するものはこの欲望のもろもろの受動的綜合の結果なのである。欲望は何ものをも欠如してはいない。

ここに存在しているのが、まさに欲望する諸機械であり、非人間的なる性なのである。ひとつの性が存在するのでもなければ、二つの性が存在するのでさえもない。そうではなくて、n……個の性が存在するのだ。

エディプス主義は本来の欲望を「置きかえる」

エディプス主義は初めの欲望を別の欲望によって置きかえる。散乱する欲望に近親相姦の欲望を、また、欲望機械の接続に婚姻を対置させることで、初めの欲望を「偽りのイマージュ」(エディプスのイメージ)によって覆い隠してしまう。

この置き換えは、「抑制的な社会組織体」(つまり社会のこと)から家庭に委託される。家庭は社会の要請を受けて、欲望する生産に「偽りのイマージュ」を与えるのだ。

社会組織体によって抑圧が委托されると同時に、この抑圧によって欲望する組織体が歪曲され、おきかえられるということが起るのだ。この抑圧を委托された動因〔代理人〕、あるいはむしろこの抑圧に派遣された動因〔代理人〕といってもいいが、それが家庭である。

抑制的な社会的生産が、抑圧する家庭によって代行されるということとともに、この抑圧する家庭が、欲望する生産について〈おきかえられたイマージュ〉を与え、この〈おきかえられたイマージュ〉が、抑圧されるものを家庭的な近親相姦の欲動として表象する

このごまかしのイマージュ、これこそがオイディプスである。

社会は本来の欲望を抑圧し、精神分析がこれに荷担

欲望は本質的に革命的なものだ。それゆえ欲望を抑制し、搾取や隷属さえも欲望させることが社会にとっての課題となる。

精神分析は社会の要請に従い、家庭を利用して、本来的な欲望を抑圧している。精神分析は社会の抑圧に荷担しているのだ。

欲望が抑圧されるのは、どんなに僅かなものであれ、およそ欲望が定立されると、社会の既成秩序が疑問視されることになるからである。ただしこのことは、逆に欲望が非社会的〔社会と無関係〕であるということではない。そうではなくて、欲望が社会を転覆させることになるということである。

いかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。

だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。

ドゥルーズ=ガタリの言い方では、社会はほとんど支配階級と同じ意味で使われている。エディプスを三角形の頂点に置いたのも、欲望は欠如であるとしたのも、社会つまり支配階級が「欲望する生産」を抑圧し、既存の「社会的生産」を保つことで自分たちの利益を守るためだったのだ、という。

社会は欲望による自由な生産を反体制的とみなして忌み嫌う。本当の欲望はもっともっと自由なものなのに!と言いたい

結局のところ、資本主義国家が存在する理由もここにある。資本主義国家は「社会的生産」を調整し、「欲望する機械」の連接的結合(=自己増殖的ネットワーク化)を全力で妨害する。これにより資本主義国家は支配階級に奉仕しているのだ。そうドゥルーズたちは論じる。

オイディプスが〈始め〉であるのは、たんにみかけだけのことにすぎない。それは、全くイデオロギー的な〈始め〉であり、イデオロギーとして役立つためのものである。

市場の経済学の立場からこの空虚を操作することは、支配階級の作為である。すなわち、豊富な生産の中に欠如を組織すること、欠如に対する大きな恐怖の中に一切の欲望を投げ込み動転させること、実在する生産を欲望とは無関係なるものとして、欲望の対象だけを実在する生産に所属させること

この《国家》の種々の調整機能は、諸階級の間を仲裁調停するいかなる種類の働きをも含んでいない。《国家》がいわゆる支配階級に全く奉仕していることは、実際には自明なことである

一方、分裂症患者は…

ドゥルーズ=ガタリいわく、分裂症患者はエディプス・コンプレックスから逃れた人間だ。分裂症は「社会的生産」の後の「欲望する生産」そのものであり、いわば資本主義の落とし子だ。分裂症は現代人の病気なのだ。そうドゥルーズたちは言う。

分裂症患者は、資本主義の極限に身をおいているのである。かれは、資本主義に内属するその発育の衝動であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、それを殺戮する天使である。かれは一切のコードを混乱させ、欲望の脱コード化した種々の流れをもたらす。

この〈過程〉としての分裂症は、われわれ自身におけるわれわれの病気である。現代人の病気なのである。

さんざん言ってきたように、資本主義は欲望の流れのエネルギーをコントロールし、エディプス・コンプレックスを用いてそのエネルギーを内側に束縛し、逃走(漏出)することを認めない。それに対して、分裂症では流れのエネルギーは全く自由な状態となる。

資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに絶対的な極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。

こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの外なる極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な内在的な極限に⦅つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に⦆代えるのだ、と。

オイディプスは、このおきかえられた、あるいは内在化〔内面化〕された境界線なのである。欲望は、この境界線に捉えられることになる。

大部分の人たちは境界線を越える代わりに、おじけついてエディプス化されてしまう。分裂症患者は、この境界線を乗り越えた者なのだ。いまや彼らは「欠如」のない欲望について語り、障害を乗り越え、自由であり孤独かつ陽気な人間となる。どんなにエディプス主義が彼らを三角形のうちに引き入れようとしても、彼らはすでに手が届かないところまで進んでしまっているのだ。

分裂者は、脱コード化した種々の流れを導き、これらの流れに器官なき身体の荒地を横切らせて、この荒地に自分の欲望する諸機械をすえつけ、活潑なる諸力のたえざる流出状態を生みだすのである。分裂者は、境界線〔極限〕を、分裂〔線〕をのりこえたのである。

かれらは、身振りをたえず新たに生みだしてゆかなければならない。まさしく、このような人間は、自由で責任のない、孤独で陽気な人間として現われてくる。最後には、かれは、他人に許可を求めることなしに自分自身の名において単純なるあることを語り、単純なるあるものを生みだすことのできる人間となるのだ。〈何ものをも欠如しない欲望〉や、〈障碍物やコードをのり越える流れ〉や、〈もはやいかなる自我をも指示しない名前〉といったものを語り且つ生みだすことのできる人間となるのだ。

で、どうすればいいの?

ドゥルーズたちは、精神分析の代わりに「分裂者分析」を行うべきだ、と主張する。患者を「欲望する生産」へと連れ戻せ、精神医学を政治化し、敵意をもって破壊せよ、と。これだけ聞くと何だかカッコよさげな気がしてくるが、具体的にどうすればいいのかはよく分からない。

「分裂者分析」の積極的な任務について、ドゥルーズたちは次のように論じている。まあ…そのチャチさに驚かないでほしい…。

積極的な第一の任務は、解釈には全く頼らないで、ひとりの患者に即して、この患者の欲望する諸機械の本性、その自己形成〔発育〕、その作動を見いだすことにある。お前の欲望する諸機械は、いかなるものであるのか。お前はお前の諸機械の中に何を入れ、何を引き出すのか。〈それ〉はどのように動くのか。お前の非人間的な性は、どのようなものであるのか。分裂者分析を行うものは、ひとりの機械技師であり、分裂者分析はひたすら機能的なるものである。

あれだけさんざんフロイトを批判してきたくせに、いざ自分たちが何かを提案する番になると「患者に即して、患者の欲望する機械の動きをじっくりと見ることにしよう」としか言えない。それまでの勢いはどこに行ったのだろうか。あまりに凡庸なプランに、ハリボテ感は否めない。

カリスマ性はある…か?

本書に関しては、あまり参考にできるポイントはない。

もっとも、体系的ではないので「ドゥルーズ=ガタリが○○で指摘していたように…」と簡単につまみぐいできる、ある意味では都合のいい著作であることは確かだ。本書はむしろ小説として読んだほうが得られることは多いのかもしれない。

確かに、エディプス=コンプレックスは仮説以上のものではない。フロイト自身は、その正しさが学的研究の進展によって実証されるはずだと考えていたが、それは原理的に不可能だ。しかし、だからといって、ドゥルーズ=ガタリの説が正しいというわけでもない。彼らはフロイトの仮説に対して、別の仮説を対置させたにすぎない。仮説性という点からすれば、両者は同じ水準にある。欲望する機械と言われても、イメージすることしかできない。

近代社会に何かしらの違和感をもつひとにとって、それを代弁しているドゥルーズ=ガタリは、一種のカリスマ、預言者に映るかもしれない。しかし、本気のドゥルーズ主義者であれば、本書を権威化(神格化)しようとする動きに対しても、つねに警戒心をもっていなければならない。なぜなら、神格化こそ彼らが心底軽蔑する態度だからだ。

「統合失調症の患者は自由である」という誤解

結局のところ、本書については、いくらでもケチはつけられる。

ひとつは「分裂症(統合失調症)患者は自由なのか?」というものだ。これに関してはあえて言うまでもないだろう。勝手に救世主に仕立てあげられたところで、統合失調症の患者からすれば、迷惑きわまりない。ドゥルーズ=ガタリは、「分裂症者はいつも不安定だが、つねにバランスを取って立ち上がる」と言っている。だが、彼らは基本的に不安と恐れのうちにあるのであって、自由を満喫しているわけではない。自由であることと、幸福であることは、本質的に異なるものである。

本書には、自由とは何かについての洞察が欠けている。定まった図式、ルール、体系から逃れていることを、私たちはしばしば自由と考えるが、それは自由がもつ一つの側面にすぎない。それは、私たち自身の経験を反芻しても見て取ることができるはずだ。結局のところ、彼らは統合失調症の立場に立っているようで、実は単に、自分たちの主張を補強するための材料に使っているだけなのだ。

また、欲望は本来多様で流動的であるという見方にも、とりわけ何か根拠があるわけではない。それはどこまでも論証されず、フロイトのエディプス図式に対置させられているにすぎない。実のところ、欲望が無限定的(可塑的)であることに関しては、ドゥルーズ=ガタリの目の敵であるヘーゲルがすでに直観していた。近代社会がそれまでの社会と異なり、多様な欲望が現れる時代であることについて、ヘーゲルは、「機械」とか「流れ」といったワードを使うことなく見事に論じている。これに比べると、ドゥルーズ=ガタリの議論は、概念をイメージに乗せて詳細に描いているものの、端的に言えば、その概念の意味について納得出来る洞察はほとんど示されていない。

詳細な記述と、意味の洞察は、文字を使うという点では同じだが、それ以外では全く異なるものである。この点を履き違えるとき、哲学あるいは思想は、もはや何かを納得したり、誰かを説得したりすることを離れた知的な戯れへと堕してしまう。本書を読むとき、私たちはそういったことも含めて考えさせられる。