『大学』『中庸』を解読する

『大学』と『中庸』は、儒学の経典『礼記』に収録されていた2篇だ。荀子の時代の後、紀元前3世紀頃に著されたとされている(正確な時代は不明)。孔子が生きたのが紀元前5世紀(春秋時代)だったから、孔子の死後およそ200~300年間のうちに著されたことになる。

『大学』と『中庸』は、はじめ『礼記』に収録されている1章にすぎなかった。この2章に光をあてたのが、朱子学を創始した朱熹だ。朱熹は『礼記』から『大学』と『中庸』をピックアップし、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。これがいわゆる四書五経のはじまりとされる。

ただし、朱熹は『大学』と『中庸』を原形そのままに受け継いだわけではない。朱熹は彼独自の解釈を加えたうえで、それらをみずからの理論のうちに取り込んだ。朱熹流の『大学』と『中庸』が本物とみなされていた時代もあったようだが、現代では文献研究を通じて、本来の姿をほとんどの部分について確認することができるまでになっている。

そこで、ここでは朱熹の解釈は横に置き、『大学』と『中庸』の本体のうちからポイントを取り出すことにしよう。

『大学』

『大学』は、その名前の通り、大学教育について論じている。ただ当時の大学は、今日と異なり、国家の指導者層の子息たち、超エリートが通うところだった。したがって、いかに天下国家をよく統治し、人びとの間に平和をもたらすことができるか。これが大学で探求される問題だった。

その根本原理として『大学』が提出するのは、修身だ。

国家の統治を目指す者は、単に学問を修めるだけでは足りない。それに加えて、自己をよく修養し、徳を身につける必要がある。なぜなら徳こそがよい国家統治の条件だからだ。

シンプルだが、これが本書の主張のポイントだ。

では徳を身につけるにはどうすればよいか。それは「物事の善悪」を確かめることによってだとされる。

ものごと〔の善悪〕が確かめられてこそ、はじめて知能(道徳的判断)がおしきわめられ〔て明晰にな〕る。知能がおしきわめられて〔明晰になって〕こそ、はじめて意念が誠実になる。意念が誠実になってこそ、はじめて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、はじめて一身がよく修まる。一身がよく修まってこそ、はじめて家が和合する。家が和合してこそ、はじめて国がよく治まる。国がよく治まってこそ、はじめて世界じゅうが平安になる。

『中庸』

次は『中庸』を見てゆこう。本書は、有名な中庸の徳が初めて論じられた著作だ。

本書いわく、中庸の徳とは、感情が動く前の静かな状態である「中」を、いかなる場合でも守ることのできる徳のことだ。

喜・怒・哀・楽などの感情が動き出す前の平静な状態、それを中という。〔それは偏りも過・不及もなく中正だからである。〕感情は動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態、それを和という。〔感情の乱れがなく、正常な調和を得ているからである。〕こうした中こそは世界じゅうの〔万事万物の〕偉大な根本であり、こうした和こそは世界じゅういつでもどこでも通用する道である。中と和とを実行しておしきわめれば、〔人間世界だけでなく、〕天地宇宙のあり方も正しい状態に落ちつき、あらゆるものが健全な生育をとげることになるのだ。

各人が中庸の徳に従い、中と和を極めれば、世界全体は正しい状態に落ち着く。これが中庸の徳のポイントだ。

天の働き(誠)を地上にもたらせ

『中庸』にはもうひとつ別の概念が出てくる。それは「誠」だ。

誠とは、天から与えられた命令のことだ。これを地上に実現しようと努力することが人としてなすべき道である。そう『中庸』はいう。

ここには『中庸』の独特の自然観が表れている。自然は「誠実」であり、それゆえに様々な事物を次々と生み出し続けている。この「天地自然の造化育成」は、生まれながらにして誠が備わっている聖人だけでなく、誠を学ぶことによって誠を手に入れたひとも助けることができる。

要は、自分の本性を発揮することで、他人の本性だけでなく、物の本性も発揮させることができる(だからそうするべき)、というわけだ。

誠が身についた人は、〔自分の本性の誠を発揮する人だから〕自分で自分を完成してゆくのである。そしてそのふみ行なう道は、〔本性に従う道であるから〕その道自体が〔誠の実現へと〕導いてくれるものである。誠が身についた人は物ごとの始まりと終りを定め〔てそれぞれに成り立たせ〕る。誠によって〔誠実に〕行なうのでなければ、物ごとは〔成り立たず〕存在しないことになるのだ。

中国古代思想のひとつ

秦の始皇帝
始皇帝

『大学』と『中庸』は、朱熹によって四書に含まれたこともあって、『論語』と『孟子』と並ぶ儒教思想の中心として重要視されてきた。徳治や中庸といった概念がいまだに使われていることは、それらの与えた影響の大きさを物語っている。

ただしこのことは、徳治が政治のあり方として優れていることを証明しているわけではない。

もちろん施政者が人びとの生活をむやみに破壊しないことは重要だが、徳治には大きな問題がある。徳治の内実が施政者にとって都合のいい解釈に強制され、意向次第で体制がガラリと変わるかもしれない危険性をもっている。言い換えると、徳治は本質的に不安定なのだ。

戦国時代に中国を統一した秦国は、商鞅により作られた法家思想を取り入れ、徳ではなくルール(法)に基づく国家統治を行っていた。これはただの偶然ではない。

マキャヴェリは『政略論』で次のように言っていた。「君主政体にしろ、共和政体にしろ、それが長期にわたって存続するためには、法律によって秩序づけられていなければならない」、と。その理由は、ヴェーバーが『国家社会学』で論じていたように、法律は共有可能性と修正可能性をもつことにある。もちろん現代と比較すると、その程度は圧倒的に低かったに違いないが、この2つゆえに、法は、徳と比較して、公正かつ安定した統治を可能とするのだ。

図式的に解釈しないこと

興味深いのは、徳治と法治の考え方が、東洋と西洋の両方で生まれてきたということだ。

現代世界の危機は西洋中心主義のせいなので、いまこそ東洋思想に学ぶべきだという議論はよくある。しかし西洋的でないからといって東洋思想を称揚することは、ただの反動形成だ。「東洋は和を尊び、西洋は個人主義である」という言い方がきわめて図式的なものであることは、少しでも東洋思想に触れてみればよく分かるはずだ。

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