コント『実証精神論』を解読する

本書『実証精神論』は社会学の創始者として知られているオーギュスト・コント(1798年~1857年)による著作だ。1844年に発表された。

本書の流れをざっと確認すると、大体次のような感じだ。

現代社会は無秩序化(アノミー)が進み、秩序が失われつつある。したがって社会の無秩序化を抑制し、社会に再び秩序をもたらす必要がある。そのためには実証哲学を発展させなければならない。なぜならそれまでの哲学は抽象的で非科学的な議論に終始してきたため、社会のメカニズムとその進化の過程を正しく捉えることができず、その無秩序化を促進してきたからだ。

あらかじめ言っておくと、こういった哲学(とりわけ近代哲学)に対するコントの評価はほとんど納得できるものではない。その理由は後で見ることにして、まずはコントの議論のポイントを取り出すことにしよう。

神学的精神 → 形而上学的精神 → 実証的精神

初めにコントは次のように言う。

人間の思考パターンには、神学的精神、形而上学的精神、実証的精神の3つがある。

ただし、それらは並列にあるのではなく、神学的精神から形而上学的精神を経て、実証的精神へと展開していくという時間的な前後関係にある。

個としても種としても、人間の思索はすべて、必然的に三つの理論段階を順次通過する。すなわち、普通、神学的段階、形而上学的段階、実証的段階と呼ばれている三つの段階である。

1.神学的精神

コントによれば、人間の最初の思考パターンは神学的精神だった。

神学的精神とは、「現象の究極原因」を探求する精神のことだ。それは一切の現象を人間の生じさせる現象と同一視しようとする傾向に由来する。神学的精神は自分の想像(空想を含む)を現実に投影することで、現実のありようを説明しようとする。こうして形作られた現実の説明体系が宗教である。

神学的精神は形而上学的精神と実証的精神によって乗り越えられたが、当時では神学的精神は重要な意味をもっていた。それは何かというと、神学的精神は精神的権威を生み出すことにより、道徳的・政治的観念を結合させ、人びとが社会を営み生活することを可能にした。つまり人びとに秩序を守らせる権威を作り上げたのだ、とコントは主張する。

この最初の哲学が人間知性の発展に不可欠であったと同様に、人間の社会生活の前提的発展にも必要であったことを知らねばならない。ここではそれを証明することはできないが、この哲学は、社会的紐帯に広さと強さを与えるための共通の一教義を最初に提供し、当時可能であった唯一の精神的権威を自然に生み出したのである。

2.形而上学的精神

形而上学的段階は未熟な神学的段階から成熟した実証的段階への橋渡しとして存在していた。ただし形而上学的精神は、神学的体系を解体することしかできず、近代文明をいわば否定的に発展させることしかできなかった、とコントは言う。

特に今日から見て、このような哲学的思考方式の歴史的効用をいっそうよく理解するためには、それがその性質上、社会的活動としては無論のこと、知的活動としても「批判的」すなわち破壊的活動しか行ない得なかったこと、何ら独特のものを作り上げられなかったことを認識しなければならない。

3.実証的精神

形而上学的精神の後に登場するのが実証的精神だ。コントいわく、これは私たち人間の精神が行き着く最終の、そして最高の段階である。

コントは初めに「実証的」の概念の意味を、次の6つに規定している。

  1. 現実的。神学的・形而上学的精神は空想をこねくりまわしていたが、実証的精神はあくまで事実の観察に集中する。
  2. 有用的。実証的精神には、好奇心とは異なり、私たちの生の条件を改善していくという価値がある。
  3. 確実な。
  4. 正確な。実証的精神は事実を正確に記述しようとする態度であり、神学的・形而上学的精神がアイマイな認識に終わるのとは全く違う。
  5. 建設的。形而上学が神学的精神による世界の体系的認識を破壊するだけに終わった(単に否定的だった)のとは違い、実証的精神は「組織すること」を目標とする
  6. 相対的。実証哲学は建設的かつ相対的で、他の理論の価値を正確に判断し、かつ自分の見解を妥協に陥らせることもない。

以上の点において、実証的精神によって導かれる実証哲学は、他のいかなる哲学よりも優れている。

この語は、真の近代哲学がその本性上、破壊することではなく、「組織すること」を特に目標とする点を表わすことによって、この哲学の最も優れた特質の一つを明示している。

実証的精神はひたすら事実の観察を追求し、記述へと置きもどせない事実はナンセンスと見なす。実証的段階にたどりついた精神は、初めて「合理的実証性」に行き着くことができる、とコントは言う。

実証的精神=社会の新たな統合原理

では、実証的精神は具体的にどのような意義をもっているのだろうか?

それは、社会の知的・道徳的な無秩序(アノミー)を解決し、社会に統合・秩序を取り戻させる、というものだ。

現代社会が直面している難問は、政治的な問題ではなく、むしろ道徳的な問題だ。それゆえ必要なのは、制度ではなく思想や習俗を立て直すことだ。それが可能なのは神学的哲学でも形而上学でもなく、ただ実証哲学のみだ。

私たち人間の目的は「人間性」を改善することにある。ではこの人間性の内実は何か。それは知性と社会性だ。私たち人間は、そもそも社会的である。エゴイズムは例外的で不自然な状態なのだ。そうコントは言う。

人間はその本性として知性と社会性をもつ。私たち人間は連帯することを本性としており、知性はそのために役立つものだ。この相互関係は、人間の進化の過程に沿って次第に緊密になりつつある。

実証哲学の全体は、この点について、次のように完全な証明を与えてくれる。すなわち、人間性の改良とは、個人にとっても人類にとっても、主として、人間の「人間性」を単なる「動物性」から区別する優れた属性をますます優勢にすることである。この場合その優れた属性とは、一つは知性、もう一つは社会性という本来連帯的な二つの能力であって、これらは互いに手段および目的という関係で助け合うものである。これら二つの能力の効果は、個人的あるいは社会的な人間進化の自然のコースに従って着実に大きくなっている。

「私たちはそもそも社会的である」という命題は、端的に言って、思いつき以外の何ものでもない。ホッブズやルソーの「自然状態」のように仮説として提示するならまだしも、コントの言い方はただの独断論だ。

秩序、統合、社会的連帯を目指すのが人間の進むべき「正しき」道だ。しかし道徳の無秩序化によって、そのプロセスは妨害されてしまっている。いまや実証的精神に社会を支配させ、その混乱を修復しなければならない。

コントは、実証哲学が社会の統合・連帯に最適な理由をいくつかあげている。

そのひとつは、実証哲学が過去を合理的に説明できることだという。

現在は過去の状態が進化した結果であるので、法則と事実の間に調和関係を作り上げることによって過去を合理的に評価する必要がある。それができるのは神学・形而上学的精神ではなく、事実を正しく見て取る実証精神だ。実証哲学のみが歴史の進化過程を正しく説明し、再秩序化の方法を提示することができる。

実証的精神によれば、「歴史的大時期」は、その一つひとつが同一の基本的進化の一段階なのであり、各段階は、共通の前進過程の中で、それがどのような特別の役割を果たすべきかを定める不変の法則に従って、前の段階から生まれ、後の段階を生み出す。このようにして、この前進へのあらゆる協力について、矛盾も偏見もなく常に正しい判断を下すことができる。

もうひとつは、実証的精神のみが「健全な道徳」に必要な社会的感情を発達させられることだという。

私たち人間の基本的な欲求の対象は、「秩序」(連結)と「進歩」である。その欲求は社会的連帯を強調する実証哲学によってしか満たされない。なぜなら神学的・形而上学的道徳は端的にいってエゴイズムだからだ。それらは人びとの社会的感情を刺激できなかった。

したがって、信仰が衰退した現代では、実証的哲学のみが私たちを結びつける役割を果たすことができるし、そうすべきなのだ。

実証的精神を、理論と実践の両面からさらに深く広く考察すれば、それが、あらゆる健全な道徳にとって第一に必要な基礎である社会的感情を直接に発達させ得る唯一の精神であることがわかる。古い知的体制は、不自然な間接的技巧の助けを借りてしか、この感情を刺激できなかったし、その現実の成果も極めて不完全なものであった。

道徳に関して、この精神は、多くの正反対の大見得にもかかわらず、今日広く行なわれている「利己主義」という有害な体系以外、何ら実際的な理論に到達できなかったのである。

新しい哲学の全体は、実際生活においても思索生活においても、ひとりの人間が多種多様な局面で他のすべての人間と結びついていることを常に強調するように努めるであろう。そして、私たちは、あらゆる時と場所に正しく拡大された社会的連帯という深い感情に、知らず知らずのうちに親しむことになるであろう。

道徳教育によって実証的精神を叩き込む

実証的精神を社会のうちに浸透させるために道徳教育が必要だ。

精神的権威を個人の衝動のうちに介入させ、格律を頭に叩きこんで、その正しい使い方を覚えこませること。そうすることで、個人がエゴイスティックに振舞わないように押さえつけ、同時に、他者に対する好意を刺激し促進させなければならない。なぜなら他者に対する好意の感情こそが、私たちの幸福の条件だからだ。

このような体制が正常な効果を発揮するためには、大衆の予断から当然出てくる強力な衝動ばかりでなく、ある精神的権威の、ときには消極的、ときには精極的な組織的介入が必要であることは明白である。この精神的権威の役割は、前に触れた著述(『実証哲学講義』)ですでに説明しておいた通り、基本的格率をしっかりと銘記させ、その適用を正しく指導することにある。

以上が本書の議論だ。

無秩序に対する反動思想

神学的精神が世界の究極原因を探求するという言い方は、なるほどと思わせる。それは確かにその通りだ。

しかし、コントは私たちの精神が神学的精神から実証的精神へと「進化」してきたと主張するが、本当にそうなのだろうか?認識論的には、それは検証不可能だ。コントの示した進化モデルは検証不可能な仮説を越えることは原理的にありえない。

現象学を打ち立てたフッサールは次のように言う。現象の一切を法則化し、科学の進歩とともにそれらをより正確かつ厳密に写し取ることができる。実証主義に代表される自然科学はこれを暗黙の前提としているが、認識論的には、その前提は不可疑的ではない。むしろ自然科学の対象は、私たちの意識経験にもとづく確信と見なすのがよい、と。

もっとも、当時は科学によって事実を正しく記述できるという希望が生まれたばかりの時代だったことを鑑みると、この点をもってコントを批判するのは、あまりフェアではないかもしれない。

致命的な問題は、社会哲学の側面にある。

近代哲学の業績を全く理解していない

ミルは『自由論』でコントを批判した
ミルは『自由論』でコントを批判した

コントは実証哲学以前の哲学はエゴイズムを促進し、道徳と社会を無秩序化したと主張する。しかし私からすれば、それはひどい言いがかりだ。というよりも言いたい放題だ。

近代哲学は、ホッブズルソーヘーゲルベンサムミルに至るまで、「自由と平等を両立させつつ、各人が固有の幸福を追求できる条件は何か?」ということを共通の問題とした。この問題に取り組むうちで現れてきたのが、エゴイズムの対立をいかにして解決するか、という問題だ。

この問題に対して、近代哲学者たちは、コントのように道徳を持ち出してくる代わりに、「合意によるルール形成」を原理とした。そのことの意味は、およそ次のようなものだ。

私たちがエゴイズムの相克をできるだけ抑制しつつ、「よい」生を送るための原理は、ただ私たちの内的な合意を通じてしか取り出すことはできない。なぜなら外部から持ち込まれた“正解”は、実はきわめて恣意的である可能性をつねにはらんでいるからだ(ヘーゲルはこのことを『法の哲学』の良心論で明らかにしている)。

なので、「具体的な道徳の内実は何ですか?」とコントに聞いたところで、コントが道徳的と考えていることが正解として示されるしかない。「女性の社会進出?反道徳的!」という具合だ。社会原理として取り入れるには、それはあまりに恣意的だ。

確かに道徳の強権は、私たちの社会に秩序をもたらすかもしれない。しかしそれは同時に、欲求の体系(ヘーゲル)として成立している近代社会においては、私たちの生を“腐らせて”しまうのだ。コントはこの点をまったく理解していない。

「エロスの自己中心性」を否定せずに社会を構想する

「社会的連帯を!」と唱えるのはきわめて安易だ。それでOKなら、ホッブズもルソーもヘーゲルも苦労しなかっただろう。

なぜ彼らが苦労したか。それは私たちのエロス(生の快楽、幸福)の自己中心性が、 条件次第では自己中心主義(エゴイズム)へ変貌し、エゴイズムの相克を引き起こしてしまいかねないと直観していたと同時に、だからといってエロスの自己中心性を否定してしまえば、私たちの生きる意味それ自体が失われてしまうとも直観していたからだ。

近代哲学が示した、合意によるルール形成の原理においてのみ、私たちはエゴイズムの相克を解決し、他者を不当に抑圧することなく、エロスを自由に享受するための条件を満たす社会を構想することができる。コンフリクトを解決するために自由を否定することは本末転倒だ。なぜなら秩序は方法であって、それ自体が目的ではないからだ。