アウグスティヌス『告白』を解読する

アウグスティヌス(354年~430年)は、中世哲学・キリスト教哲学の中では超重要人物だ。多作であり、スコラ哲学を代表するトマス・アクィナスに強い影響を与えた。自由意志について論じたことを考慮すると、近代哲学にも影響を与えたといえる。

アクィナスに影響を与えたと聞くと、アウグスティヌスはさぞかし真面目なエリート学者だったのでは、と思えるかもしれない。

しかし、もしアウグスティヌスが自分の欲望のやみ難さや、故郷の母親が自分を心配していることに対してひどく悩んでいたと聞くと、何か身近さを覚えるひともいるのではないだろうか?

私は特にキリスト教に思い入れがあるわけではないが、本書で描かれているアウグスティヌスには好感を抱いている。というのも、本書にはアウグスティヌスが本当に納得できる生き方を試行錯誤しながら探求していたこと、また、そうせざるをえなかった内的な理由が描かれているように思えるからだ。

アウグスティヌスは最初からキリスト教徒だったわけではない。改宗以前はマニ教を信仰しており、すでにキリスト教徒に改宗していた母親モニカを心配させていた。あなたはいつになったらキリスト教に改宗するのかい、と。本書で面白いのはこういった描写だ。今風に言えば、田舎から都市に出てきた大学生と母親との関係性をイメージすると分かりやすいかもしれない。もっともアウグスティヌスとしては、それはあくまで前座であり、中心は後半の教義論にあると思っていたに違いないが…。

マニ教についてはWikipediaの記事よりも、こちらの記事のほうが簡潔で分かりやすいです → マニ教 -消えた世界宗教-

罪を犯す理由は私の自由意志にある

アウグスティヌスは冒頭で、自分が過去、情欲に負けたり、盗みを働いたりしてしまったことを回顧して、次のような問題を提示する。

私たちが「罪」を犯すのはなぜか?この問いに対して、アウグスティヌスは次のように答える。それは、私たちが本当の善を忘れ、目の前にある善に傾いてしまうことで、神の法を裏切ってしまうからだ、と。

低次の善であるのに、それに無節度にかたむくことによって、より善きものともっとも善きもの、すなわち、われらの神なる主よ、あなたと、その真理と法とが無視される場合です。

罪を犯す理由は、神と世界の側にではなく、私の側にある。情欲をもつのは他でもない私自身である。それゆえ私以外の何処かに、自分が犯した罪の原因を求めることは不合理である。したがって罪の原因は私の自由意志であるとするのが最も妥当である。そうアウグスティヌスは言う。

何かを欲したり欲しなかったりする場合、欲したり欲しなかったりするのがほかならぬ自分であることはきわめて確実であり、そこに自分の罪の原因があることにだんだんと気がつくようになったのです。

罪の判断基準=神の意志

では罪は何によって判断されるか。アウグスティヌスは、それはただ神の意志によってだとする。

たとえある行為が人びとの間では賞賛されようとも、それが本当に正しい行為だとは限らない。神によって認められた行為のみが正しい。

これを推し進めれば次のように言わねばならない。ある行為がたとえ社会の掟に反するとしても、神が命じるのであれば、それは必ず行われなければいけない。行為の正しさの根拠は神にあるからだ。

悪は存在しない(=罪は悪ではない)

また、アウグスティヌスによれば、一切は滅びうる以上、そのうちに何らかの善を含んでいる。善を持っていなければ存在することはできない。したがって被造物にとって悪は存在しえない。それゆえ人間の本性は善である

アウグスティヌスは、罪=悪とは考えない。罪とは本当の善を忘れて眼前の善へと傾くことであって、悪に傾くことではない、と考える。

「取って読め」

アウグスティヌスは本書で、キリスト教の教義を論じつつ、自分がキリスト教に回心するに至った過程についても述べている。自分の人生がどれだけ罪深いものだったか、また自分が罪からどうやって救われたかを“告白”する。

アウグスティヌスの言葉を額面通りに受け取れば、青年時代には悪友と遊びまわるなど、欲にまみれた生活を送っていたらしい(今だと「やんちゃ」で済むレベルだったのかもしれないが)。それでもアウグスティヌスは、学業をきちんと修め、修辞学の先生となる。その後彼はローマへと旅立つが、そこでもやはり情欲にさいなまれる。故郷だろうとローマだろうと変わらず情欲に流され、なかなか回心できないこと苦悩のうちで長くもがいていた。

ある日、アウグスティヌスが家で「なんで回心できないんだろう」と泣いていたとき、隣の家から子供が「取って読め」と歌うのが聞こえてきた。

隣の家から、くりかえしうたうような調子で、少年か少女か知りませんが、「とれ、よめ。とれ、よめ」という声が聞こえてきたのです。

アウグスティヌスは「これは!」と思い、聖書を開いて、一番最初に目に止まった章を読んだ。するとそこには「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みとをすてよ。主イエス・キリストを見よ。肉欲をみたすことに心をむけるな」とあった。ここで私は完全にキリスト教へと回心した。そうアウグスティヌスは振り返っている。なんだか物語チックな感じだが、逆にそうした奇跡に近い偶然があったからこそ、アウグスティヌスは力強いキリスト者になれたのかもしれない。

記憶と時間について

次にアウグスティヌスは、神をどうすれば認識できるかを明らかにするため、記憶と時間について論じていく。

記憶論

まず、アウグスティヌスは次のように論じる。

身体的・感覚的能力によって神は認識できない。そこで、それらを超えてゆき、神のほうへと向かってゆくと、私たちは記憶のなかへと入ってゆく。

記憶のうちには無数の心象(イメージ)がある。私たちは、自分の記憶からイメージを取り出し、過去の事柄に結びつけ、イメージと過去の事柄の結合体をもとにして未来の事柄を考える。これによって過去と未来の事柄を現在の事柄として考えるのだ。

この意味では、記憶は結局のところ自分の力である。しかし自分のうちに制限された力によって、自分を超え出た存在である神を見出すことはできない。それゆえ神を見出すためには、記憶を超えてゆく必要がある。

こうアウグスティヌスは主張する。ただ、記憶を超えていくとは具体的にどういうことだろうか?この点についてアウグスティヌスはハッキリと論じていないので、何を意味しているのかについてはよく分からない。

時間論

アウグスティヌスは、時間もまた神による被造物であると主張する。

じっさい、あなたはすべての世紀の創始者であり建設者なのですから、お造りになる前に、どうして数えきれない世紀が過ぎさることができたでしょう。また、あなたによって造られなかった時間があったでしょうか。けっしてなかったとしたら、どうして過ぎさることができたでしょうか。

これだけならナンセンスと片付けることもできるが、興味深いのは、時間を実体的に考えるかわりに、私の現在に相関して、意識のうちに存在すると捉えていることだ。

時間は神を起点とする。神以前に時間はありえなかったし、神が不滅である以上、時間も不滅である。

時間を測る基準については次のように言える。一見すると時間は過去から未来へ絶えず流れていくので、現在は存在しないように思える。なぜなら、もし現在が幅をもっているのであれば、それは過去と未来に分割されてしまうからだ。現在は空虚であり、存在するのは過去と未来だけである、と。

しかし時間はそういうものではない。むしろ私たちは次のように考えるべきだ。すなわち過去・現在・未来とは、私の内側(私の魂のうち)に、私の現在に相関して存在する、と。過去・現在・未来がそれぞれ自立的に存在していると考えるから、一見矛盾のような謎が生じてしまうのだ。

じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。

現在は過去と未来の「差延」でしかないという説は、ジャック・デリダのような比較的現代の哲学者だけでなく、ゼノンのような古代ギリシア哲学から何度も繰り返し論じられ、蒸し返されてきたものだ。アウグスティヌスの時間論は、そうしたレトリカル(イメージ先行型)な時間の見方よりもはるかに原理的だ。時間を実体的な幅と考えること自体が、出発点としてそもそも誤っているのだ。

以上の時間論に基いて、アウグスティヌスは、神を認識するための方法を次のように定式化する。

私は時間の順序を知らず、過去や未来へと「分散」してしまっている。しかしそれでは、神どころか自分自身も捉えることはできない。流れ行く時間に身を任せてしまうとき、神にしたがって生きること、つまり本当の生き方を選ぶことはできない。過去を忘れたり、未来のことに気を散らしたりすることなく、現世の事柄に集中せよ。時間を主体的に生きること、これが神に達するための道だ。

私の年々は、ためいきのうちに過ぎてゆきます。主よ、ただあなただけが私のなぐさめ、わが父永遠です。それに反してこの私は、順序も知らない時間のうちに散らばっています。

私は過去のことを忘れ、来たりまた去りゆく未来のことに注意を分散させずに、まのあたり見るものにひたすら精神を集中し、分散ではなく緊張によって追求し、天上に召してくださる神の賞与をわがものとする日までつづけます。その—日、私は讃美の声を聞き、来ることも去ることもないあなたのよろこびをながめることでしょう。

意識相関

記憶と時間が近い関係にあることは明らかだ。1年前の記憶、昨日の記憶、今日の記憶、3分前の記憶というように、記憶が秩序ある像として統一されているからこそ、時間の流れもまた統一的な像として認識される。

言い換えれば、時間があらかじめ存在しているのではなく、記憶と予期の作用にもとづいて、時間の流れがひとつの統一的な像として確信されるのだ。もしそれらの作用が失われてしまえば、私にとって時間の流れは全く混乱に陥ってしまうだろう。t軸としての時間は、物理現象を説明するために“発明”されたものだ。

これは順序の問題

ありがちな考え方は、t軸的な時間は“真の時間”ではなく、“より根源的な”内的時間から発生してきたものにすぎない、というものだ。たとえばベルクソンの時間論は典型的な一例だが、この構図は、ある意味分かりやすいが原理的ではない。これは考える順序の問題だ。どちらが本当の時間でどちらがニセの時間か、ではなく、私たちにとって時間はそうした両方の側面をもつものとして現れる、と考えるほうが適切だ。

本書の議論は以上だ。

「真」の生き方を目指して

アウグスティヌスはキリスト教哲学において重要な功績を残した人物だ。

ただここではアウグスティヌスが、どのような生き方が本当の生き方であるかについて葛藤し、時代のなかで自分なりに答えを出したことに着目してみたい。キリスト教は、その問題に答えるために彼に与えられ、かつ選びとることのできた唯一の通路だった。事後的な批判では彼のモチーフを見て取ることはできないだろう。

真の生き方、よい生き方が何であるかについては、時代に応じた違いがある。アウグスティヌスの頃はキリスト教に回心できさえすれば、それで万事OKだったかもしれない。しかし現代では私たち一人ひとりが自分でどういう生き方をすればよいか選択しなければならない。生き方の「真理」はもはや存在しないからだ。

とはいえ、真の生き方、よい生き方を目指しつつ挫折することの苦悩が深ければ深いほど、それを一層強く求めてしまうことには、時代を超えた普遍性があるはずだ。だからこそ本書はいまなお読者の心を打つのだろう。

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