いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → アリストテレス『政治学』を超コンパクトに要約する
本書は古代ギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)による政治学だ。本書でアリストテレスは、ポリス(古代ギリシアの都市国家)とは何であり、それはいかに治められるべきかという問題に取り組んでいる。
奴隷制を肯定したけど
アリストテレスは次のように批判されることがある。「確かにアリストテレスは共和制国家を肯定していた点で評価できる。しかしその内実は、奴隷制の上に成り立っているものでしかない」、と。
現代の水準からはそうも言える。しかしアリストテレスのいう国家とは、あくまでギリシアのポリスであることを忘れてはいけない。万人がひとりの人格として互いに平等であるという理念は近代に至って初めて現れたものだ。
アリストテレスが奴隷制を(消極的であれ積極的であれ)肯定しているからといって、そのことでもってアリストテレスの議論を批判するのはフェアじゃない。別に歴史的なプロセスにおいてアリストテレスが遅れていたわけではないからだ。事後的な批判は無効だ。
では本文を見ていくことにしよう。
国家(ポリス)は「最高善」をめがける共同体
初めにアリストテレスは次のように言う。
国家はいずれも、われわれの見るところ、一つの共同体であり、共同体はいずれも何かよきこと(福利)のために出来ている—というのは、すべて人間は何ごとをなすにも、自分がよいと思うことのためにするからである—とすれば、明らかにすべての共同体のめざすところはなんらかの善であり、そのうちにおいてもまたあらゆる善の最高最上のものを目標とするのは、他のすべての共同体を自己のうちに包括する最高最上の共同体がそれであるということになる。そしてそれこそが国家(ポリス)と呼ばれているもの、すなわち国家共同体にほかならないのである。
アリストテレスによれば、ポリスは次のような順序で作られる。
まず日常的な必要(要求)がある。これが家族を生みだす。家族が複数集まると、村落が成立する。そして村落からポリスが成立する。
生活上の最低限必要なものごと、すなわち衣食住は家族の領域でまかなわれる。
では、衣食住が満たされているにもかかわらず、村落や国家が成立するのはなぜか?それは、村落や国家は「よい」生活を実現することを目的として成立するものだからだ。
どんな事物も何かしらの目的(目的因)をもっている。なかでもポリスは「最高善」を目指す本性をもっている。なぜなら「よさ」をめがける共同体の最終段階であるポリスは、当然、最高の「よさ」を目的とするからだ。
それゆえポリスとは、人びとが単に共同生活を送る場所なのではなく、立派なこと(卓越性)を追求する場所なのだ。
国家共同体は、よい、りっぱな行為(よい、りっぱな生活をすること)のためにあるのであって、ただいっしょに生活するためにあるのではないとしなければならない。
アリストテレスは国家を共同体の最終段階と規定しているが、これを現代のグローバル社会に適用することは難しい。国家をもはや最上最高の共同体と見なすことはできないし、国家が共同体の最終段階と捉えているかぎり、複数の国家間で生じる闘争関係について解決策を提示することができないからだ。
人間=ポリス的動物
次のアリストテレスの言葉も有名だ。
かくて以上によって見れば、国家が(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つであることは明らかである。また人間がその自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物であることも明らかである。
人間は完成されればおよそ動物のうちでも最善のものとしてあるけれども、しかしそれだけにまた、法律や法的秩序から離れてしまうと、あらゆるもののうち最悪者となる…
国家は自然の本性にもとづいて現われるものであり、人間は「ポリス的動物」である。なぜなら人間の目的因は「善」であり、「最高善」がポリスにおいて実現されるからには、人間がポリスをもつのはきわめて自然なことだからだ。そうアリストテレスは言うわけだ。
「人間はポリス的(政治的)動物である」の意味については、こちらで詳しく解説しました → 「人間はポリス的動物である」の意味は?
「よき市民」とは?=統治する市民
アリストテレスは、奴隷と市民を、市民のみが裁判とポリスの政治に参加できる点で区別する。
もっと言うと、市民とは裁判とポリス統治に従事している人間だけを指しており、そこには商人や兵士、農民は含まれない。現代と比較すると、市民に含まれる人びとの割合はきわめて狭かった。
またアリストテレスによれば、政治に参加して国家を統治する市民には、よき人の徳が備わっている。そうした市民こそが立派な市民であり、よい市民である。
この時代のギリシアでは奴隷制が正当なものとされていた。しかし、上でも言ったように、この点でギリシアの政治制度を批判しても無効だ。なぜなら個人が人格として平等であるという理念は近代において初めて成立したものだからだ。
「正しい国家体制」は?=公共の利益を目がける体制=共和制
アリストテレスによれば、国家体制には、王制、貴族制、共和制、僭主制、寡頭制、民主制があり、特に最初の3つの体制が正しい。なぜなら公共の利益を考える体制のみが正しい政治体制であるからだ。その目的から外れて支配者の利益を求める国家体制は間違っている。
また、アリストテレスいわく、王制、貴族制、共和制のなかでも、大衆が参加する共和制が国家体制のスタンダードとして位置づけることができる。なぜなら多数の市民が参加するほど、よりよく公共の利益に適うように国家統治を行うことができるからだ。
「望ましい生活」とは?=行動的生活
続けてアリストテレスは次のように言う。
最も望ましい生活とは何かについて確認することが、国家の政治体制を探求するために必要である。
では最も望ましい生活とは何か。それは「行動的生活」である。これは要はポリスの政治に関わる生活のことだ。
しかしアリストテレスは、それ自体を目的とした観照(テオーリア)のほうが、実際に政治活動に携わるよりも行動的だと主張する。今から見ると何だかヘンテコな論理だが、実践に対する観照の優位を主張したところにアリストテレスの特徴がある。
むしろ、それ自身のなかに目的をもち、それ自身のためになされる観照や思考が、いっそうはるかに行動的なのである。
知識型タイプの政治学
アリストテレスのうちには、プラトンが『国家』で主張した「哲人政治」に対する反感がある。プラトンは、哲学者がポリスの王となって統治するのがポリスにとって最も幸福なのだと、ある意味ナイーヴに論じていた。
その点アリストテレスは常識的、と言うかバランスの取れた哲学者といえる。
ソクラテスやプラトンをいわば「直観型」の哲学者とすれば、アリストテレスはまさしく「知識型」の哲学者だ。知識の整理整頓を得意とする学者タイプ。書物自体がほとんど無かった時代に、よくあれだけ多くのことについて探究できたな、と驚くほかない。