アリストテレス『ニコマコス倫理学』を解読する

『ニコマコス倫理学』は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが生前残した講義ノートや草稿などを、アリストテレスの息子ニコマコスらが編集したものだ(なので“ニコマコス倫理”についての学、なるものがあるわけではない)。全10巻からなる。

ひとことでまとめてみると

本書の主張をシンプルにまとめると、大体次のような感じだ。

最高善は幸福であり、最高善に達するためには「中庸の徳」を身につけなければならない。中庸の徳には色々なバリエーションがあるが、最も優れた徳は知性の活動による観照にある。知性の活動はそれ自身が目的であり、それ自身の快楽があるので、知性の活動が究極の幸福。

本書の中心テーマは中庸の徳だ。観照的な活動に究極の幸福(つまり最高善)がある。徳は善の条件であり、観照的活動によって徳福一致が可能となる。ここにアリストテレスのポイントがあった。

なお、本書に限ったことではないが、アリストテレスはいかにも学者チックなスタイルで議論を行う。ある基本的な主張を最初に置き、これを前提として分析を進めていく。なのでどうしても議論が細かくなる傾向にある。また事例も説得力がある場合とそうでない場合がある。ただ、この点に関しては時代を程度考慮して、ある程度大目に見るのがいいだろう。

それでは、以下、本文に沿って見ていくことにしよう。

最高善はポリスに属する

初めにアリストテレスは、私たち人間の活動は、多かれ少なかれ善を目的とするものだという主張を置く。なかでも最高善は政治(ポリス)の領域にあるとする。

いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明の見事だといえる所以である。

種々の場合の目的とするものの間には、しかしながら、明らかに一つの差別が見られるのであって、すなねち、活動それ自身が目的である場合もあれば、活動以外の何らかの成果が目的である場合もある。

なかでも最終の目的があるとするならば(実際なければならない。もしなければ目的の系列は無限に進むことになり、私たちの欲求は空虚なものになるから)、それこそは最高善でなければならない。

最高善は政治(ポリス)の領域にある。善こそが政治の目的でなければならない。したがって、ここでの研究は一種の政治学的なものといえる。

「人間というものの善」こそが政治の究極目的でなくてはならぬ。まことに、善は個人にとっても国にとっても同じものであるにしても、国の善に到達しこれを保全することのほうがまさしくより大きく、より究極的であると見られる。

われわれの研究はこうしたことがらを希求するものであり、この意味でそれは一種の政治学的な研究だといえよう。

ポリスの善が最高善である理由、それは人間が共同体を作る本性をもっており、ポリスは共同体のなかで最終のものだから。したがって人間はポリス的動物である、という議論をアリストテレスは『政治学』で行っていた。

最高善=幸福

続けてアリストテレスは、最高善は究極の目的であり、その内実は幸福である、なぜなら究極の目的は幸福であるからだ、と論じる。

この世には色々な目的がある。一般的には富や品物だが、私たちはこれをそれ自体のために選ぶわけではない。だから目的が必ずしも究極的な目的であるわけではない。

他方、最高善は究極の目的だ。究極ということの定義は「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」である。この条件を満たすと考えられるのは幸福(エウダイモニア)である。

幸福が究極の目的である理由、それは私たちが幸福を望むのは幸福それ自体のためであって決して他のためではないからだ。私たちが名誉や富を求めるのも、確かにそれらのためでもあるが、同時に、それによって幸福となると考えているはずだからだ。

「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」は、これを無条件的に究極的であるという。

しかるに、かかる性質を最も多分に持つと考えられるのは幸福(エウダイモニア)である。なぜなら、われわれが幸福を望むのは常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく、しかるに、名誉とか、快楽とか、知(ヌース)その他いろいろのアレテー(卓越性・徳)をわれわれが選ぶのは、これらのもの自身のゆえでもあるが、(そのいずれの場合にあってもわれわれは何ものがそれから結果するのでなくともそれを選ぶだろうから、)しかしまた、幸福のために、すなわち、それによって幸福でありうるだろうと考えて選ぶこともあるのだからである。

また、究極的な善は自足的でもある。ただ、自足的であるといっても、私個人にとってのみ十分であるということではない。それは親や子、召使いや、さらにポリスの全ての市民にとっても十分であるということだ。

究極的な善は、自足的なものとして、私たちの生を完璧なものとする。幸福はこうした性質をもつものだと、私は考える。

自足的であるとわれわれの考えるところのものは、それだけでもって生活を望ましき生活、何ものをも欠除していない生活となすごときものにほかならない。しかるに幸福はあたかもかかる性質を持つものであると思われる。

人間にとっての善=卓越性に基づく魂の活動

ただ、ここでいう幸福とは具体的に何だろうか?これについて論じるために、アリストテレスは、私たち人間の「機能」について見ていく。なぜなら大工や笛吹きが自分の機能(能力)を発揮することに善があるように、人間一般についても同じことがいえるはずだからだ、と。

生きていることは植物にとっても当てはまる。なので栄養摂取とか成長は人間に特有とは言えない。感覚的な生はあらゆる動物にとって共通のはずなので、これも人間に特有とは言えない。

人間に固有の機能は、魂の「ことわり」(ロゴス)を備えた活動としての生だ。一切の機能は、それ固有の卓越性(アレテー)に基づいて行われる際に、もっとも最も「よく」達成される。なので人間にとっての善は、人間の卓越性に基づく、魂の活動にほかならない。牛や馬がこうした活動を行うことはできない。なので私たちは「牛や馬は幸福である」とは決して言わないのだ。

徳(アレテー)は中庸を目指すもの

以上のような徳は、アリストテレスいわく、中庸(メソテース)を目がけるものだ。

見事な作品に対して「付け加えられたり取り除かれたりするようなものは何もない」と言うとき、多すぎたり少なすぎたりすることは「よさ」を失わせることが含意されている。

これと同様に、徳においても多すぎたり少なすぎたりすることは批判され、中庸であることは賞賛される。徳は中庸であるかぎりにおいて正しいのだ。

「アレテー」というものは—自然もそうであるが—いかなる学問・技術よりもさらに精密な、さらにすぐれたものであるとするならば、それはやはり、「中」を目指すものなるのでなくてはならないであろう。(もちろん、「アレテー」とはここでは「倫理的卓越性」、すなわち倫理的な「徳」を意味している。)つまり、この種の「アレテー」は情念と行為とにかかわるものなのであるが、これらにおいては過超と不足と「中」とが存在する。

徳は情念と行為にかかわるが、これらいずれにおいても、過超ならびに不足は過つに反して「中」は賞讃され、ただしきを失わないものなのである。こうしたことは、しかるに、いずれも徳の特色に属することがらなのである。徳とは、それゆえ、何らか中庸(メソテース)ともいうべきもの—まさしく「中」(メソン)を目指すものとして—にほかならない。

ここでいう倫理的卓越性は倫理的に優れていることを指している。アリストテレスの分析では、卓越性にはもうひとつ「知性的卓越性」もある。これは簡単に言うと、勉強ができるという意味での頭のよさを指している。

徳は快楽と苦痛に関わる。快楽のゆえに悪い行為を行うこともあるし、苦痛のゆえによき行為を避けることもある。

快楽と苦痛に対してよく対処するひとはよき人となり、悪く対処するひとは悪しき人となるだろう。これは快楽を避けよ、ということではない。なぜなら、快楽を慎まないひとが放埒となるのと同様、快楽を避けるひとは無感覚な人となるからだ。過超、不足を避け、中庸を得るように行為することによって、初めて節制や勇敢といった徳も保たれるのだ。

倫理的な生き方は快楽を避けるものというイメージがあるが、ここでアリストテレスは快楽を否定せず、それを上手く用いることが中庸の徳にかなっていると主張している。対処の仕方が肝心だ、というわけだ。実際、徳を有するかどうかは私たちの選択の問題なので、中庸を得ずに悪徳を目がけることもまた可能であると言っている。

もし徳が、ひとびとのいっているように随意的であるとするならば、(実際、われわれは自己の「状態」に対してみずから何らかの仕方で責任を分つべきものなのである、そしてわれわれはかくかくのふうの人間であるに応じてかくかくのふうの目的を措定している、)その場合は悪徳もまた随意的でなくてはならないであろう。その点、両者いずれも同格なのである。

中庸の例

ここでアリストテレスは、いくつか中庸の例を挙げている。表にすると大体以下のような感じだ。

不足 中庸 過超
無謀 勇敢 怯懦
無感覚 節制 放埒
けち 寛厚 放漫
細かさ 豪華 派手
卑屈 矜恃 倨傲
機嫌とり 親愛 不愉快
卑下 真実 虚飾

ただ、この例示に何か根拠があるわけではない。節制が中庸なのは言えるかもしれない。しかし豪華と派手は何が違うのか。倨傲は過超というより、心の狭さを表しているので不足ではないだろうか。むしろ卑屈こそが増長した心であり、それゆえ過超ではないのか。この辺りの議論は何とでも言えるようになっていて、説得力をもつとは言いがたい。

正義(正しさ)について

次にアリストテレスは、正義もまた中庸であると言い、これについて論じていく。

正義とは正しいことを行わせるような状態のことである。ここでいう正しい行為とは、ポリスの幸福のためになるような行為のことである。

こうした意味での正義は、完全な徳であり、完全な徳の活用にほかならない。なぜ完全なのかというと、それを有するひとは自分のためではなく、ポリスの成員のために徳を働かせるからだ。

かかる正義が完全な徳にほかならないというのも、それが完全な徳の活用だからなのであって、それがことさらに完全であるというのは、これを所有するところのひとは徳を他に対してもはたらかせることのできるひとであって、単に自分自身だけにとどまらないというところに基づいている。事実、自分かぎりのことがらにあっては徳のはたらきを発揮することができても対他的なことがらにあってはそれのできないひとびとが多いのである。

あらゆる徳のうちで、正義のみは「他者のものなる善」だとも考えられている。正しいひとは、支配者や共同体の他の属員にとっての功益あることがらを行なうひとなのだからである。かくして、最もあしきひとは自己に対しても親しきひとびとに対してもその非徳をはたらかせるところのひとであるのに対して、最もよきひととは、その徳を自己に対してはたらせかるひとではなく、他に対してはたらかせるところのひとなのである。

配分的正義と矯正的正義

ここでアリストテレスは、正義にはこうした全般的な正義のほかに、部分的な正義もあるという。

アリストテレスは部分的な正義を、配分的な正義と矯正的な正義の2つに区別する。違いはどこにあるのかというと、こんな具合だ。

配分的な正義は、ある共同体(例えばポリス)の成員が共同体に寄せた財産が、共同体全体の財産のうちで占める割合に応じて配分されることのうちにある。寄与した割合に応じた見返りがあること、これが配分的な正義だ。

共同的な資財に基づいて配分の行なわれる場合にしても、その正しい配分は当事者たちの寄せた資財の相互の間に存する比とまさに同じ比に即して行なわれるであろう。

一方、矯正的な正義は、平均を回復することにある。一方が損失を被り、他方が利得を得る場合、裁判官は、一方から過多としての利得を奪い、刑罰によって均等化するのだ。

裁判官は均等を回復するのであるが、彼はいわば一つの線分が不均等な両部分に分たれている場合に、大きな部分が全体の半分を超えているそれだけのものをそこから取り除いて、小さいほうの部分へ付け加えてやるのである。

配分的な正義はポリス経済の公正性のこと

矯正的な正義のほうはそれなりに分かりやすいと思うが、配分的な正義については分かりにくいかもしれない。だがこれは抽象的に考えるから難しいのであって、内実はそれほど難しくない。

アリストテレスは配分的な正義に関して、ポリスにおける経済活動を想定していた。ポリスは経済活動(=相互給付)によって成立しているので、そこでの正義を保つことがポリスの維持に本質的な意味をもつことになる、とアリストテレスは考える。

ポリスは成員間での相互給付によって維持されている。大工が靴屋から靴を得るには、それに対応した財産を与えなければならない。

とはいえ、大工の財産と靴屋の靴が均等であるとは限らない。こうした不均等は異なった人びとの間での相互給付では一般的であり、均等化を必要とする。そのための手段として、貨幣が発生した。

貨幣はあらゆるものを計量する。貨幣によって、どの程度の靴が一軒の家、もしくは一定量の食品に等しいかを計算することができる。

かくして貨幣はいわば尺度として、すべてを通約的とすることによって均等化する。

通約的とするためには単位が必要だ。単位は協定に基づいて設定される。

Aは家屋、Bは一〇ムナ、Cは寝台。いま家が五ムナに値するならば、つまり五ムナと等しいならば、AはBの二分の一。また、寝台すなわちCはBの十分の一。この場合、幾台の寝台が一軒の家屋に等しいかは明らかである。すなわち五台。

自分の与えた財、サービスを正しく貨幣によって計測し、ズルをすることなく、他の財と正しく交換すること。良いものを自分のもとに多く残して隣人に少ししか与えないのではなく、公正に、過不足なく財を交換すること。これが配分的な正義の中身だ。

正義といえば、それは、正しいひとが自己の「選択」に即して正しきを行なうたちのひとだといわれる所以のものであり、自分と他人の間に、ないしは他人と他人との間に配分を行なうに際して、好ましきものはこれを自分には多く、隣人には少なく配し、有害なものはこれと逆の仕方で配するということがなく、比例に即した均等的なものを配分するし、他人同士に対しても、これと同様の仕方で配分するたちのひとだといわれる所以のものを意味する。

ポリスでの富の「配分」に関する「正義」なので配分的な正義という。正義を配分するということではない。

以上が正義に関する議論だ。

「真」を認識するための5つの手段

次にアリストテレスは、「真」を認識するための手段として、5つのものをあげている。ここでもまたアリストテレスは1つずつ細かく論じているが、まとめると大体以下のような感じになる。

  1. 技術(テクネー)
    • 「ことわりを具えた制作可能の状態」
    • モノを作り出すための方法について探求する
  2. 学(エピステーメー)
    • 「それ以外の仕方においてあることのできないもの」を認識
  3. 知慮(フロネーシス)
    • 「自分にとってのいいことがら・ためになることがら」を考慮
    • 何が自分にとっての善悪であるかを理解できること(自己配慮)
  4. 直知(ヌース)
    • 学を成り立たせている基本命題を真に認識させてくれる
    • 直観
  5. 智慧(ソフィア)
    • 「根源」の真に関する知、つまり哲学(第一哲学)
    • 智者はすなわち哲学者

「知慮」は実践的

以上の区別を行った上で、アリストテレスは、知慮(フロネーシス)に着目する。

アリストテレスいわく、知慮は技術や直知と異なり、実践によって善を達成するような目的を目がける特性をもつ。

知慮は、これに対して、「人間的なもろもろのことがら」、そして「それに関して思量することの可能なもろもろのことがら」にかかわっている。けだし、知慮あるひとの機能として挙げられるのは何よりも思量の巧者であることであるが、何びとも「それ以外の仕方においてあることの不可能なことがら」や、「何らか目的とするところ―つまり実践によって到達されうるごとき善―を持たないようなことがら」に関して思量しはしないのである。

政治学も実践的(ポリスの市民を善き人間にしようと配慮するという意味で)

実践は善を目がける。ところで、ポリスは最高善を目的因とする。なのでポリスについて論じる政治学はポリスに関する知慮である。言い換えると、政治学はポリスのあるべき姿に関する実践的な学である。そうアリストテレスは続ける。

棟梁的な立場からの認識は、これを政治学(ポリティケー)といってよいが、それは、知慮(フロネーシス)というのと同一の「状態」なのであり、ただ、両者は、その語られる観点を異にしている。

つまりこういうことだ。

人間は善を目的因とする(=私たち人間の活動は、多かれ少なかれ善を目的とする)。また、ポリスは共同体として最終のものであり、したがって最高善を目的因とする。政治学とは、人間がポリスの市民として、最高善を目がけることができる条件を考察するものであり、ポリスの法律(立法)が直接にそうした配慮を行うのだ、と。

いま、「国に関しての知慮」(=政治学)という観点からこれを見るとき、棟梁的位置にあるものとしての知慮は立法(ノモテティケー)にほかならない

アリストテレスは『政治学』で、「国家体制のうちで王制、貴族制、共和制、僭主制、寡頭制、民主制のどれが正しいか?」という問いを置いていたが、これは「ポリスの市民が最高善を目指すために最もふさわしい国家体制は何か?」と言いかえることができる。すなわち、アリストテレスにとって、政治学は、最高善を目指すための環境を整備しするための実践的な学なのだ。

『政治学』はこちらで解説しました → アリストテレス『政治学』を解読する

愛(親愛・友愛)について

次にアリストテレスは、親愛や友愛といった「愛」(フィリア)について論じていく。

愛は卓越性(アレテー)と切り離すことができず、生活に欠かすことができない。しかしそれは生活に欠かせないだけでなく、それ自体として素晴らしいものでもある。

ところで、ここで検討したいのは、愛に関する様々な主張である。

あるひとは、「似たもの同士」というように、類似する人びとが愛するという。しかし一方では、そうした人びとは単に利害関係で結びついているだけでしかないとするひともいる。なかには、さらに踏み込んで、愛を物理学的に説明しようとするひともいる。土が乾くと雨を恋うとか、対立するものは相手に役立ち、美しいハーモニーを奏でるとかいうように。

ただしここでは直接そうした問題について考えることはしない。それはここでのテーマではないからだ。その代わりに、愛の生じる条件やその種類について考察することで、人間にとっての愛とは何であるかについて考えてみたい。

相手の善を相手に即して願うのが真の愛

アリストテレスによれば、愛されるべきものには3つの種類がある。その3つとは、

  • 善きもの
  • 快適なもの
  • 有用なもの

有用のゆえに互いに愛する人びとは、相手に即して愛しているのではなく、自分にとって有用だから愛しているにすぎない(このケースは実利を追求する老人に多い)。快適のゆえに愛するのも同様だ(このケースは若者たちに多い)。

この2つに対して、善のゆえの愛は相手に即している。これは相手の善を見て取り、相手のためにその善を願うことだ。こうした愛は永続的である。

有用あるいは快適のための愛は非本来的だ。有用のために愛するのは、自分にとっての相手の善を愛しているにすぎず、快適のために愛するのは、自分にとっての快を愛しているにすぎない。

これらの愛は非本来的な性質のものでしかない。ここでは、愛する相手は、彼がまさにそうであるところのひとたるかぎりにおいて愛されているのではなく、かえって、彼らが何らかの善または快楽を提供するかぎりにおいて愛されているのだから。このような性質の愛は、それゆ加え、解消しやすき愛である。これらのひとびともいつまでもそういう同じような性質を保持していくわけではないのだから—。

善のゆえ愛は、究極で完全なものだ。それは相手の善を、相手に即して願うものであり、両者が善きひとであるかぎり永続する。しかし彼らの善、すなわち卓越性というものは固定的なものなので、この愛が揺らぐことはそもそもありえないのだ。

彼らの間では有用性も快適も満たされている。無条件的な善は無条件的な快でもある。それゆえ彼らの間の愛こそは、最も十全で、かつ最も善きものなのだ。

第一義的な、すぐれた意味における愛はへ善きひとびとの、善きひとびとたるかぎりにおいてのそれであり、それ以外の愛は類似的になぞらえた意味での愛にすぎない。なぜなら後者にあっては、ひとびとはそこにも何らかの善、すなわち何らか類似的な意味での善が存在する、という意味においてのみ友たるのだからである。快もやはり快を好むひとびとにとっての善なのであるから—。

自分を最も愛するべき、それが他者を真に愛するための条件だ

アリストテレスいわく、私たちは自分を最も愛するべきだ。なぜなら自愛によって私たちは自分だけでなく、他人をも利することができるからだ。

万人が善いことを目指して競い合い、それを実現すべく懸命になれば、公共においては一切の実現されるべきものが実現され、また各人においては到達されるべき善に到達するはずだ。ここに徳の本質がある。

愛と聞くと私たちはまず他人に対する愛を思い浮かべるが、アリストテレスはここで、まず自分をこそ愛せ、それが公共を通じて他人の善を願うこと、すなわち真の愛に達するための条件なのだ、と論じている。

他人を真に愛するためには、まず自分を愛さなければならない。このアリストテレスの直観は確かに納得できるものだ。

幸福な生=卓越性のもとでの生

ここでアリストテレスは、再度、幸福(エウダイモニア)について論じる。

上で見たように、アリストテレスいわく、私たちにとって幸福な生とは卓越性のもとで営まれる生である。究極の幸福は最高の卓越性に即した活動のうちにある。こうした活動こそが哲学であるのだ。そうアリストテレスは主張する。

幸福とは卓越性に即しての活動であるとするならば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動たるべきであろう。最高の卓越性とは、しかるに、「われわれのうちなる最善なるもの」の卓越性でなくてはならない。

それぞれのものに本性的に固有なものが、それぞれのものにとって最も善きもの、また最も快適なものなのである。ところで人間に固有なのは、知性に即しての生活にほかならない。まことに、人間は、彼のうちにおける他のいかなるものよりも、このものであるわけなのだから—。したがって、こうした生活が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない。

そのなかでも最も快適な活動は、智慧(ソフィア)のもとでの活動にほかならない。

さまざまな卓越性、たとえば政治的・軍事的な卓越性のもとでの活動は、ある目的のために行われ、それ自体として望ましいわけではない。それに対して、知性の活動は、それ自身が目的であり、それ自身の快楽がある。ゆえに知性の活動、観照的な活動が究極の幸福なのだ。

そうした活動は、人間的な生活というより、むしろ神的なものだ。というのも、神から「行為する」ということを取り除けば、残るのはただ観照の働きだけだからだ。したがって、人間の活動のうちで最も幸福なのは、これに最も近いものだということになる。動物が幸福であるとかないとか言うことがない理由はここにある。動物は一切観照的な活動を行うことができないからだ。

ポリスの法律によって徳へと導く

以上の議論を踏まえて、最後にアリストテレスは、徳はそれについての知識を持つだけではなく、何よりも実践するのが大事だとする。

徳に関しても、だから、単にそれを知っている・だけでは充分ではなく、われわれは徳をみすから所有してそれをはたらかせることに努め、ないしはまた、もし何らか他にわれわれが善きひとになる途があるならば、そういったことにも努めるのでなくてはならぬ。

そのための方法として、アリストテレスは「言説」(=言い聞かせること)を挙げている。ただし、アリストテレスによれば、ただ言って聞かせるだけでは足りない。若者は感情で動き、ひとの話に耳を貸すように育っていないからだ、と。

ではどうすればいいか。ここでアリストテレスが提案するのは、ポリスの法律によって徳へと強制的に誘導することだ。

そういう気質をもっていないかぎり、自発的に言説に耳を貸すようなひとはいない。まったく感情に流されているひとを説得することはできないだろう。

感情を抑えることができるのは、言説よりも、むしろ強要だ。そこで、われわれがが善きひとになるためには、若年のころから、ポリスの法律によって徳へと誘導させられなければならない。しかも若年のころだけで十分なのではなく、大人になってからも誘導させられ、これを習慣づけさせることが必要だ。

そうした力をもつのは、ポリスの法律にほかならない。

若年の頃から徳へのただしい誘導を受けるということは、やはりそういった趣旨の法律の下に育成されているのでないかぎり行なわれがたい。というのは、節制的に我慢強く生きてゆくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろの営みが規制されてあることを要する。

大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。

アリストテレスの師プラトンは『メノン』や『国家』で、徳を教育することの可能性について論じていた。アリストテレスはここで、この問いに対して自分なりの仕方で答えを出しているのだ。

カント以前の構図

本書でアリストテレスは、最高善を幸福として、これに達するためには中庸の徳(=卓越性=アレテー)を身につけなければならないと主張していた。

徳を身につけることが幸福に達するための条件である。これは言いかえると「徳福一致」が保証されているということだ。

確かに、快楽それ自体を悪とみなしたり、愛することは徳に反するとしたりしていない点で、アリストテレスはバランスの取れた哲学者だと言える。バランスの取れた快楽は私たちの生を豊かにしてくれるという直観はなるほどと思わせるものだ。

しかし本書の議論は、本質的に見て、やはりカントの道徳論以前のものだと言わなければならない(もちろんそのことをもって本書を批判するべきではない)。ここで見ておきたいのは以下の2つだ。

  • 最高善
  • 徳福一致

アリストテレスは、目的の系列は終着点をもち、それが最高善であるとする。ポリスが最終かつ最後の共同体なので、最高善はポリスに属する。そうアリストテレスは言っていた。

しかし、カントが『純粋理性批判』で証明したように、私たちは系列の全体を認識することはできない。なぜなら系列に始点と終点があるとすれば、その系列は「空虚」によって限界づけられなければならないが、そもそも「空虚」が何かを限界づけることはできないからだ。

実際、アリストテレスはポリスを最終の共同体としていたが、決してそんなことはない。それは現代のグローバル社会を見れば分かるだろう。観点の取りようで共同体の規模は無限に変わる(家族から運命共同体としての地球に至るまで)。ポリスに最高善が属するという言い方は、認識論的な構図から見て、妥当性をもたないのだ。

また、徳福一致についても、絶対的な保証があるとはいえない。幸福は現実的な条件によって規定されているからだ。知性の活動に究極の幸福があるとアリストテレスは考えたが、それはやはり言い過ぎだ。言い過ぎという点ではカントも同じだが(カントは徳福一致は現実世界では不可能だと言い切っているが、必ずしもそうであるとは限らない)

時代性を考慮に入れること

ともあれ、ここで大事なのは、アリストテレスの議論の時代性をつねに考慮に入れることだ。アリストテレスがカント以前、ましてやヘーゲル以前だからといって、それゆえに批判されるべきではない。アリストテレスはその時代のうちで、その時代固有の問題に取り組んでいたのであって、現代の学的な水準から見て妥当でないからといって批判するのはアンフェアだ。

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