アクィナス『神学大全』を解読する

トマス・アクィナス
トマス・アクィナス

『神学大全』は、中世のスコラ哲学を代表する神学者、哲学者のトマス・アクィナス(1225頃~1274)の主著だ。キリスト教初学者、とりわけドミニコ会の養成課程における初学者を導く書として書き始められたが、未完に終わった。

本書は三部構成になっている。各部は複数の項から構成されており、各項のうちには著者の立場、それに対する異論、この対立を統合する解答、異論に対する応答がそれぞれ含まれている。

アクィナスの功績をひとことでまとめると、アリストテレスの哲学と、アウグスティヌス以来のキリスト教哲学を統合した体系を打ち立てたことにある。

アリストテレスの哲学は、イブン・スィーナー(アヴィセンナ)やイブン・ルシュド(アヴェロエス)といったアラブの哲学者を通じて中世ヨーロッパに伝わっており、アクィナスは彼らの研究を通じてアリストテレスに親しんだようだ。ただ、哲学を信仰の領域に導入することに対する反感は大きく、「過激なアリストテレス学説」として断罪される憂き目にもあった(この断罪は、トマスがカトリック教会の聖人に列世された2年後の1325年、正式に撤回された)。

だが、そもそも、アクィナスはなぜアリストテレスの哲学をキリスト教に結びつけようとしたのだろうか。それはアクィナスに、信仰を共有するひとであれば誰でも受け入れられるような信仰の体系として、キリスト教を立て直そうとする意志があったからだ。

ドミニコ会紋章
ドミニコ会紋章

アクィナスも所属していたドミニコ会は、革新的な修道会として、当時急速に勢力を伸ばしていた。それまでの修道会は、人里離れた山に籠もって研究を行い、世俗的な権力と癒着するようになった。ドミニコ会は、こうした状態を信仰から離れたものと見なし、清貧と宣教活動を重視した。

宣教にあたっては、前提知識に訴えることはできない。もちろん最終的な根拠は聖書に求めなければいけないが、ごく普通の人びとは「聖書のどこそこにこう書かれているから」と説明されたところで、なかなか納得できない。なぜなら解釈は多義性にならざるをえないからだ。

解釈が多義的であることは、言いかえると、正統と異端が存在するということだ。キリスト教の内部における宗派対立が、信仰そのものを次第にむしばんでいくなかで、聖書の記述に完全に依存することは許されないという直観が、アクィナスに対し、アリストテレスの哲学を取り入れるよう促したのだ。

本書はやはり中世スコラ哲学の代表作だけあって、「どうせスコラ哲学にすぎない」と流してしまうのは、やはりもったいない。ここでは特に、動機をすくうよう読むのが大事だ。

神の存在証明

まず初めに、アクィナスによる神の存在証明について確認していこう。

アクィナスによれば、「神が存在する」という命題は、それ自体としては明らかだ。後に見るように、神は存在そのものであるからだ。

だが、その内実については、論証を必要とする。なぜ神が存在すると言えるのか。どのような根拠でそう言えるのか。神が存在するという前提を堅持しつつ、アクィナスはこの問いに対し答えを与えようとする。

アクィナスによる神の存在証明には、以下の5つの論点がある。

  1. 「第一の動者」が存在しなければならない
  2. 第一の作出因(=原因)が存在しなければならない
  3. 必然的に存在するものが最低一つ存在していなければならない
  4. 善なるものが存在する以上、基準となる最高善がなければならない
  5. 自然物を目的へと秩序づける知性認識者が存在しなければならない
アリストテレス
アリストテレス

これらについては、神という根本原因からスタートし、最高善へと向かって進んでいく因果の系列を考えると分かりやすい。

いま存在しているものは何らかの原因をもつ(原因から生み出される)。だがその原因にもまた原因がある。そしてその原因にも原因があり、その原因も同様である。こうして、原因の系列は、第一の原因である神を出発点とするものとして見出される。

この洞察については、アリストテレスによる因果についての推論が参考とされている。アリストテレスはの『形而上学』にて、因果の系列は純粋な「動」の根本原理に基づき成立していると論じていた。ここで言われている根本原理を、アクィナスはキリスト教における神に置き換えて論じているのだ。

神は純粋な現実態

さて、アクィナスによると、神は必然的かつ現実的に(=つねに絶対に)存在していなければならない。その理由は次の通りだ。

いまある世界の秩序が、因果関係の系列において最新の状態である。だから、因果の系列を支え、生み出している根本動因たる神が存在しないことがありうるなら、世界そのものが存在しないことがありえてしまう。だが、それは明らかに正しくない。それゆえ、神は純粋な現実態にある。

事物は存在したりしなかったりする。形あるものはいずれ壊れる。だが、被造物に対して、神は存在したりしなかったりすることはない。

神は、世界という存在の秩序を支える「動」の根本原理として、つねに存在しつづける。そうアクィナスは考えるのだ。

存在のアナロギア

次にアクィナスは、神と被造物の関係について論じる。

神は根本原因である。ただし、それは質料的な意味ではなく、最高の作出因であるという意味においてだ。神は最高の作出因、最高の現実態であり、それゆえ完全である。

被造物は、完全な存在である神に由来して存在する。この際、万物は、神の形相(=本質)を分有することで、神に類似する。

この類似関係を、アクィナスは存在のアナロギアと呼ぶ。アナロギアとは、英語でいうアナロジー(analogy)と同根の言葉だ。

存在するということが万物に共通であるように、何らかのアナロギアによって作用者の形相の類似性を分有するであろう。神によって存在するものは、それが存在するものであるかぎりにおいて、このような仕方で、全存在の第一の普遍的根原たる神に似るのである。

神の善性に類似する

ただ、アクィナスによれば、神は純粋な本質だ。それゆえ、神に似るといっても、外見が似るわけではない。存在のアナロギアとは、神と被造物が、その本質において類似するということだ。

だが、これはどういうことか。アクィナスのポイントをひとことで言うと、存在のアナロギアは「善」において類似するということだ。

アクィナスはここで、アリストテレスの議論を参考に、善とは「欲求されうるもの」であると規定したうえで、次のように論じる。

それぞれのものは自分自身の完成を欲求し、存在する度合いに応じて完成されている。したがって、完全性の程度と善の程度は比例する。

完全性は第一原因である神から由来する。それゆえ神は最高善である。被造物は、最高善である神の形相を「分有」して善性を手に入れる。言いかえると、一切の被造物は、第一の根源である神の善性を受け取って存在する。

存在そのものが悪であるような被造物はありえない。悪とされるものは、善を欠く限りでそう言われるにすぎないのだ。

神の本質を認識できないのは「不都合」

以上の神の規定は、神そのものに即して行われていた。次にアクィナスは、私たちにとって神がいかにして認識されるかという観点から議論を進めていく。

ポイントは、私たち人間が神の本質を認識できないのは「不都合」であるというものだ。

神の本質は認識されないという見方がある。一つは、被造物が創造主を認識できるはずがないからであり、もう一つは、無限なるものは認識できず、それゆえ無限なる神を知ることができないからだ。

だが、神の本質を認識できないとする説は不都合だ。というのも、もし神の本質が認識できなければ、人間が至福を得ることはできない。だがこれは信仰に外れている。

また、この説は理性にも外れている。人間は本性的に、結果から原因を知ろうとする熱望を抱いている。もし人間が神の本質を認識できなければ、この熱情は満たされず悶々とするだろう。それゆえに神の本質を認識することは認められなければならない。

神は「存在の絆」を与えるもの

こうしたアクィナスの主張は、ひとによってはかなり受け入れがたいかもしれない。

人間性との絶対的な隔絶のうちにこそ神の本質がある。人間が至福を得ようが得まいが、その点から神を規定するのはおこがましい。こうした観点からすると、アクィナスの言い方は、人間が原因を知りたいという熱望を満たすために、神をいわば「利用」しているように見えることだろう。

ただ、アクィナスにとって、神は雲の上から絶対的な命令を下すような冷酷な存在であるわけではない。それはむしろ、一切の被造物に「つながり」、いわば「存在の絆」を与えるものだ。

神は、被造物に存在を分有させることで、一切の被造物のうちに存在する。最高善である神を原理とした存在=善のネットワーク。これがアクィナスの観点から見た神と被造物の関係であり、世界そのものだ。

神は「恩恵」と「愛」によって認識できる

では、神はどうすれば認識できるのだろうか。アクィナスいわく、そこでは神から与えられる「恩恵」が必要になる。

人間の知性は、神との類似性(アナロギア)のもとにある。神は恩恵でもって、みずからを人間の知性に結合してくれる。それゆえ人間は神の本質を見ることができる。人間の知性は、神の能力から派生した「知的な光」である。

被造物は、神から受け取った栄光の光の大小に応じて、神を認識する。その光は無限ではありえない。それゆえ神を完全に認識することはできない。だが、完全でなくとも、より完全に近いという仕方でなら認識できる。

アウグスティヌス
アウグスティヌス

アクィナスいわく、そのためには、神への愛(=カリタス)が必要となる。

愛といっても、これは性愛というより、むしろ友愛というべきものだ。というのも、アクィナス的には、性愛では手段としての事物が求められるのに対して、友愛では完全な存在である神から、善すなわち至福が送り届けられるという仕方で、神と人間との間の相互交流が行われ、存在の絆が深められるからだ。

アクィナスに影響を与えたアウグスティヌスは、『告白』にて、人間の自由意志の不完全性を説き、人間は神からの恩恵によってのみ、善を意志することができると論じている。人間は無力であり、独力では善を目指すことさえできない。アウグスティヌスのこの確信が、アクィナスを含むローマ・カトリック全体に対し、決定的な影響を与えたのだ。

ただし現世では認識できない

ただし、アクィナスいわく、現世で神の本質を認識することはできない。というのも、認識の仕方は認識者のあり方に従うからだ。

人間は現世に生きる限り、身体的質料をもたざるをえない。それゆえ、純粋な本質である神を見ることはできない。たとえば夢など、いくらか身体にとらわれない状況では神の啓示を受けやすくなるが、現世に生きる限り、神の本質を知ることはできない。

だが、神が存在するということ、また、神と被造物との間に存在の絆が成立しているということについては、現世でも認識することができる。

ただ、このあたりについても、経験的な事実としてではなく、神を根本原理とする推論として示されている点に注意する必要がある。

本書でアクィナスが試みているのは、信仰の基礎づけ作業だ。なので、信仰の前提を崩すような推論、たとえば「神が認識できないとすれば、存在しないのと等しいのではないだろうか?」というような問いについては、そもそも成立する余地がない。その点を考えると、方法的懐疑を打ち立てたデカルトの業績は、やはり哲学の新時代を切り拓く画期的なものだったと言える。

信仰を立てなおす試み

デカルト
デカルト

確かに、自然科学が発展する以前の中世に書かれた本書の議論をそのまま受け入れることにはかなりの無理がある。デカルトやガリレイ、ベーコンといった近代哲学、近代科学の創始者たちの業績を踏まえてなお、アクィナス的な世界観の妥当性を押し通そうとするのは強引だ。

神の存在証明についても、実質的には証明ではなく、理性による推論であり、「存在要請」であることは否めない。カントが『純粋理性批判』で行った理性のアンチノミー(二律背反)に関する議論が、こうした類の形而上学的推論に対し、原理的に決着をつけた点については、フェアに見る限り否定しがたい。

世界は存在するかしないかのいずれかである。アクィナスはこれを暗黙の前提とし、世界が存在しないことはありえないという実感に訴えることで、世界の存在を証明しようとする。これは帰謬論の典型的な手法であり、さほど説得力をもつものではない。デカルトやカントといった近代哲学者たちは、そうした論法の問題点を鋭く見て取り、世界認識についての洞察を、より普遍的なものへと押し進めたのだ。

だが、この点でアクィナスを批判するのは、アクィナスに対して辛すぎる。

近代哲学の出発点においては、人間の理性の「自由」についての意識が決定的な意義をもった。人間は、神に頼らず、自分の理性で、何が真であり善であるかを知り、かつそれを目指すことができる。こうした自覚が育ってきたとき、初めて、普遍的認識(=共通了解)の可能性と共生の可能性が問題となってきた。そういうわけなので、アクィナスが神を中心とする世界について論じているからといって批判するのは、高校生が中学生に対し「頭が悪い」とバカにするのとほとんど変わらないのだ。

では、アクィナスの議論にはどんな意義があるのだろうか。

ひとことで言えば、合理的な推論によって神を規定しなおし、世界を、神を根本原理とする善=存在の体系として描き出したことにある。

確かに、アクィナスはキリスト教の教義を前提にしており、それを揺るがしがたい真理と見なしている。そのことは間違いない。だが、アクィナスは本書で、聖書の記述をそのまま利用することなく、教義を推論の体系として再編成することで、教義に関するさまざまな解釈を一本化しようと試みている。本書には、各宗派に分裂した教えを再統合することで、教義に関する争いを調停し、キリスト教を真に人びとを救う信仰として復活させようとするアクィナスの意気込みが感じられる。

16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパでは宗教戦争が起こり、アクィナスの努力は結果的には実らなかったし、宗派の対立を調停する原理を置くこともできなかった。だが、それをひとつの問題として取り出し、解を与えようと試みたことについては、一定の評価に値すると言っていいだろう。

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