ディベートは哲学的ではない

中学校や高校の授業で行われる「ディベート」は、一見すると生徒たちに物事を深く考えさせることに役立っていると思えるかもしれません。また、物事を深く考えるという点で、ディベートは哲学と共通していると思うひともいるかもしれません。確かに、両方とも何らかの問題をめぐって行われるという点においては共通しています。しかしディベートと哲学は本質的に異なるものです。以下ではその違いについて見ていきたいと思います。

ディベートは対立構造を作る

学校の授業の一環として行われるディベートの定番論題には、たとえば以下のようなものがあります。

  • 「日本は死刑制度を廃止すべきである」
  • 「日本は選挙権を18歳に引き下げるべきである」
  • 「日本は外国人労働者を積極的に受け入れるべきである」

こうした論題は、対立構造を容易に作り出すことができるという点で共通しています。構図が分かりやすいので(ある程度の前提知識は必要ですが)議論としてはそれなりの形になるでしょう。先生にとっても、大人としての教養があれば、簡単に採点できるはずです。

たとえば死刑制度のディベートでは、廃止賛成側の答えとして、「先進国で死刑制度を導入しているのはアメリカと日本くらいで、EUは完全に撤廃しているから」はランクA、「犯罪の抑制効果があるとはいえないから」「人間が人間を殺すのは道徳的に問題があるから」はランクB、一切発言しないのはランクC、というように成績をつけることができるでしょう。

全ての問いに「正解」があるとは限らない

ただ、ここで忘れてはいけないのは、すべての問いに「正解」があるとは限らない、ということです。

なぜEUが死刑制度を廃止しているからといって日本も廃止しなければならないのでしょうか。これは決定的な理由ではありません。死刑を無くすことが先進国の条件なのでしょうか。それはあくまで先進国の一側面にすぎず、本質ではありません(死刑制度のない発展途上国もあるので)。

一方、死刑制度の廃止賛成については、哲学者の学説を利用して次のように言うこともできます。たとえば、ルソーは『人間不平等起原論』で、自然状態における人間には「憐憫(憐れみ)の情」が備わっており、同胞が傷つくことを望まないと論じていました。また、『国富論』で知られるアダム・スミスも『道徳感情論』で、私たちには同情compassionが備わっているので、他者を傷つけようとは望むことはないと論じていました。この2人を使えば、死刑制度の廃止反対の立場に対して、「ルソーとスミスのいうように人間には本性的に同情が備わっているので、死刑制度は私たちの自然なあり方に反する」と“立派に”反論できます。

選挙権の話も同様です。しかし、これは選挙権が歴史的により多くの人びとに与えられてきたという事実とは区別する必要があります。なぜかというと、「日本は選挙権を18歳に引き下げるべきである」という主張と、「日本は選挙権を男性(または女性)に制限すべきである」という主張は本質的に異なるものだからです。

後者に関していえば、選挙権を性別によって制限することは近代社会の理念からして許容できません。近代社会は、ホッブズルソーヘーゲルが論じたように、各人が人格として相互に承認しあうことを前提として成立しています。性別に関係なく各人が一個の人格として平等であること、これが近代社会の根本理念です。

一方、前者についていえば、選挙権が18歳でなければならない理由はどこにもありません。20歳でなければならない絶対的な理由もありません。選挙権の年齢は国によって多少の差があって、それを画一的に決めることは原理的に不可能です。理由を後付けしようとすると、必ず無理が生じます。他国の状況や日本の歴史と比較して、無理矢理答えを作り出さざるをえなくなります。

また、そういう問い方は、問題を解決するというよりも、むしろ分散させます。例えばこんな意見が出てくるかもしれません。「というか選挙権を人間に限定することに問題があるんじゃない?動物の選挙権も認めてもいい気がするけど。」

先生にとってはイラつく返し方ですね。ただここで、「それは議題から外れています。議題に集中しましょう」と言ってしまうと、せっかくの意欲をそいでしまうかもしれません。なんだよ結局ごっこ遊びかよ、と…。

「話し合うことが大事」は禁句

絶対的な答えが存在しないことを理由に「生徒たちが話し合うことこそが大事だ」とするのは、率直に言って論外です。それは生徒たちに話し合わせてなんとかディベートの体を作ることができた先生の自己満足でしかありません。

哲学的思考は対立を解消し、共通了解を作ろうとする

一方、哲学的思考は「共通了解」を作ることを目的とします。ディベートは「どうすれば相手の議論を打ち負かすことができるか」を目指しますが、哲学的思考は「どうすれば相手も私も納得出来る一般的な解、つまり共通了解を導くことができるか」を目指します。

共通了解と聞くと、響きはいいが空想的だ、と思うかもしれません。しかしその本質は、どこまでであれば私たちがともに受け入れることができる(受け入れざるをえない)領域であり、どこからは各人の趣味や偶然性にまかせるほかない領域なのかについての線引きを行うことにあります。

共通了解を作る方向性で考えると、問題を設定する仕方そのものから変わります。たとえば次のような具合になるでしょう。

「確かに各国で選挙権の年齢差はあります。それは政治的な勢力関係によって決まるものなので、違いが生まれるのは仕方ありません。でも、選挙権は大人に与えられるものであり、子供に与えられていないという点では、ほとんどの国家で共通しています。一般に選挙権が大人に与えられ、子供に与えられていない理由について考えてみましょう。」

ディベートのように相手の誤謬を突いたり、相手に勝るように様々な知識で自説を補強したりすることによって競うのではなく、できるだけ多くの生徒が「なるほどそうだね!」と納得できるようなものを示せるかどうかを競うようにするのはどうでしょうか。

相手を論理で打ち負かすことよりも、合意を作るほうが実社会で役立ちますよね

先生方も分かっておられると思いますが、相手の主張を論理的にやりこめることよりも、様々な利害対立を調停し、皆が納得できるプランを示すことのほうが、実社会では役立ちますよね。

生徒が学校を卒業して、様々な人間関係を営んでいる場面を想像してみてください。その際に大事なのは、ある目的を達成するに当たって、どのような方法を選ぶのが最も妥当なのかについての合意を作ることであって、ディベートのように相手をやりこめたり、知識を総動員して自説の優位を証明することではないはずです。

これについては、ディベート教育を受けたことがその後のキャリア形成にどのような影響を与えたのかに関する追跡調査を行ったわけではないので、具体的には分かりません。ただ、実際にそうした追跡調査が行われていないのであれば、ディベートが本当に教育的な効果をもつのかどうかについては証明されていないことになります。いい影響を与えているのもしれませんし、悪い影響を与えているのかもしれません。実のところはよく分かっていないのが本当なのではないでしょうか?

先生もご自身でディベートを行うかどうか決めているわけではないでしょうから、仕方がないところもあるとは思います。ただ、その場合でもできる限り、対立ではなく共通了解を作る方向のディベートを考えてみていただければ、と思います。