ヴェーバー『プロ倫』を超コンパクトに要約する

ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の解説の需要が高いようなので、できるだけコンパクトにまとめてみました。大体の感じはつかめるはずです。

プロテスタント(特にカルヴァン派)が資本主義企業にマッチしている理由について考えてみる

統計的に比較してみると、カトリック信徒は手工業にとどまる一方、プロテスタントは工場労働に流入する傾向にあることが分かる。これはプロテスタント、特にカルヴァン派(カルヴィニズム)信徒が資本主義的な企業にうまく適合していることを示唆している。

その理由は合理的禁欲にある。禁欲と資本主義は対置されがちだが、決してそうではない。

ちなみに理由と言ったが、それが決定的な原因であると言うつもりはない。あくまでひとつの要因にすぎない。プロテスタンティズムを資本主義の原因と考えるのはバカバカしいにもほどがある。

予定説 → 救われているかものすごく不安 → 天職で救いを確信

合理的禁欲がなぜ必要だったのか。これはカルヴィニズムの特徴的な教えである予定説と密接に関わっている。

予定説は、現世に生を受ける以前にすでに神によって誰が救われ、誰が救われないかがあらかじめ定められているとするものだ。これは教会によっても、祈りによっても変えることはできない事実とみなされた。

ただ、よっぽどの狂信者でない限り、こんな教説を「神が望むなら喜んで!」と真に受けるようなひとはいない。普通の信徒であれば、「自分は本当に救われているのだろうか?」とものすごい不安に襲われたに違いない。

そこでどうしたか?純粋な信仰ではなく、天職(職業労働)を通じて救いの確信を求めたのだ。

天職の合理性が資本主義のあり方にフィットした

なぜ労働だったのかというと、人間は神によって自らの意志を実現せんと地上へ送られた存在であり、労働は神の栄光を増すために最適な営みだと考えられたからだ。つまり信徒にとって、天職による労働は神の意志を実現するための手段にほかならなかったわけだ。

カルヴァン派信徒は自ら生活に計画性と組織性を取り入れ、生活を禁欲的なものとして、これを徹底的に合理化した。天職の観念からもたらされた合理性が資本主義の企業の形態にうまくマッチしたのだ。

得られた財産を投資につぎ込んだ → 投下資本が形成された

で、これと資本主義経済にどんな関係があるのか?それは労働から得られる財産に対する彼らの態度を見ると分かる。

彼らが労働を行ったのは、豊かな生活を送るためではなく、あくまで神の意志を実現するためだ。そのため彼らは、財産の利用をできるだけ節約すると同時に、「財産を得ることは悪いことだ」とする慣習を打ち破り、財産の獲得を新たな観点から積極的に肯定したのだ。

財産が貯まるとどうなるか?答えは明らかだ。神の意志を一層実現させようと、財産を資本として投下するように促されるほかなかった。これが原初的な資本形成のプロセスにおいて天職と合理的禁欲の観点が果たした役割なのだ。

でも私たちは「鉄の檻」に入るだけ

すでに資本主義経済システムが出来上がってしまった今日、私たちの生活スタイルはそれによって決定されており、もはや天職や禁欲の観念は何の役割も果たしていない。だからプロテスタンティズムが今日の資本主義の中心にあると考えるのは間違っている。

将来、思想と精神が再び息を吹き返すのか、それとも、精神を失った専門人や享楽人が「文化の頂点に立ったのはこの俺達だ」と自惚れるにすぎないのか、それはまだ誰にも分からない。

「未来の行方は誰にも分からない。ただ運命だけがこれを明らかにする」みたいな決めゼリフを残すのがヴェーバーの特徴です。

色々な角度から考えること

事実の認識は関心に相関している。関心が異なれば事実の見え方は変わってくるので、社会は一面的にしか分析できない(それが認識の本質構造だ)。なのでマルクス主義的な「唯物史観」はやりすぎだ。

しかし、だからといって私は内面的な要素だけが資本主義経済を成立させるのに十分だったと言いたいわけではない。それだと元の木阿弥だ。確かに天職や合理的禁欲の観念は原動力としての役割を果たしたと思う。しかし他にも様々な条件があったはずだ。この点については今後の研究も踏まえて明らかにしていきたい。

ヴェーバーは『経済と社会』という著作で、資本主義経済の成立には合理的国家・合理的法律も本質的な役割を果たした、というように論じました。該当箇所についてはこちらで解説しました → ヴェーバー『国家社会学』を解読する

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