ニーチェの『悲劇の誕生』をできるだけコンパクトにまとめました。
詳細解説はこちらで行いました → ニーチェ『悲劇の誕生』を解読する
まえおき
ニーチェが本書を出版した当時でさえ本書は「非実証的」と評価されていました。ニーチェ自身も後年、本書を振り返って、「論証を飛び越えている」と評しています。
なので本書の議論をそのまま真に受けて「そうかギリシア悲劇はアポロンとディオニュソスの融合から生まれたのか」みたいな受け止め方はしないほうがいいでしょう。
本書のポイントをざっくりまとめると、
- ギリシア悲劇は苦悩をも含む「生」それ自体を肯定していた
- ソフォクレス、アイスキュロス
- しかしエウリピデスから様子が変わる
- 「美的ソクラテス主義」
- 劇の最後に「主人公たちは~な未来を迎えるだろう」と神に言わせてしまう
- 不条理が苦悩させることはなくなる
- 近代文化はこの「美的ソクラテス主義」に侵されている
- でもワーグナーがディオニュソス的な精神を復活させようとしている
- バッハ、ベートーベン、ワーグナーの流れがスゴイ!
では見ていきます。
アポロンとディオニュソス
芸術は、アポロン的な造形芸術と、ディオニュソス的な音楽芸術の並行と対立によって発展してきた。ここにギリシア的な意志が加わることによって、アッティカ悲劇が誕生した。これが「悲劇の誕生」だ。
ここでいうアポロン的なものは「夢の世界」、ディオニュソス的なものは「陶酔の世界」と考えることができる。
最も有名な悲劇詩人は、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス。三大悲劇詩人として知られています。
初めギリシア人は、性的にだらしないという理由でディオニュソスを拒否していた。そこからドーリス式芸術が生まれてきた。ドーリス式芸術はアポロン的なもの。
アポロン的文化の基礎には、オリンポス十二神がある。オリンポス神は「勝ち誇った生存」を象徴している。ギリシア人がアポロン的芸術を生み出したのは、自分たちの「生」を肯定するためだった。
アポロン的な世界は「夢の世界」だと言った。普段私たちは夢から覚めていることが生きることだと考えている。しかしここで私は、ギリシア人が仮象の世界を必要としたのは自分を救済するためだったという仮説を立ててみたい。つまり、ギリシア人は苦悩の上にアポロン的世界を作り上げたのだ、と。
ただし、アポロンの根拠はディオニュソスだった。なぜなら苦悩を覆い隠しているアポロンをあばいたものこそ、まさしくディオニュソス的なものだったからだ。
以下、芸術がアポロン的なものとディオニュソス的なものの対立のうちで、どのような過程で展開していったのかについて見ていく。
合唱団から悲劇へ
音楽、メロディーが最も根源的なもの。メロディーが詩を生みだし、意志として現象する。
民謡はわれわれには真先に、世界を写す音楽の鏡、根源のメロディーだと考えられる。このメロディーが今や対応する夢の現象を求め、歌詞という詩のうちにこれを表現すると考えられるのである。だからメロディーこそ最初の、そして普遍的なものなのだ。
そういうわけなので、悲劇の起源は合唱団にある。というよりも、ギリシア悲劇それ自体の核が合唱にあるというべきだ。言いかえると、ギリシア悲劇とは、アポロン的な世界において爆発するディオニュソス的合唱なのだ。
以上のような認識にしたがって、われわれはギリシア悲劇を、たえず新たにアポロ的形象世界において爆発するディオニュソス的合唱として理解しなければならない。だから、悲劇にいくつもに分けられて編みこまれている合唱の部分こそ、いわゆる対話全体のいわば母胎なのだ。ということは、合唱部こそ、舞台の世界全体の母胎であり、本来の劇の母胎なのだ。
ソフォクレスとアイスキュロスを評価したい
ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』は、ディオニュソス的な知恵が「自然に逆らう悪逆」であることを示している。この作品には受動性の栄光が認められる。
一方、アイスキュロスの悲劇『プロメテウス』には、向上しようと努力する人類は神から与えられる苦悩を受け止めなければならないという前提がある。
このようにギリシア悲劇は、罪を積極的に受け入れ、罪によって引き起こされる苦悩をも肯定した。
エウリピデスによって悲劇は死んだ
しかし、エウリピデスによって事態は一変する。
エウリピデスはディオニュソス的な要素をギリシア悲劇から取り除き、これを理知的なものへと変えてしまった。
たとえば、プロローグでは信頼できる人物もしくは神に「この劇はこういう風に進んでいく」と言わせ、エピローグでは機械仕掛けの神に「主人公たちはこれからこうなる」と言わせている。
このように未来を保証させることで、悲劇の不条理な苦悩という観念を否定したのだ。
こうした「美的ソクラテス主義」は、本能から現れる道徳や芸術を否定する。創造的なひとにおいては本能が肯定するが、ソクラテス主義においては意識が肯定する。これは恐るべきことだ。
すべての生産的な人たちの場合には、本能はきまって創造的・肯定的な力であり、意識こそ批判的・警告的役割をもつものなのに、ソクラテスにおいては、本能が批判者となり、意識が創造者となっているのだ。―これこそまったく欠陥から生まれた真の怪物ではないか!
美的ソクラテス主義は楽天主義
プラトンの著作でソクラテスが導入した弁証法(ディアレクティケー)は本質的に楽天主義だ。
しかしこの弁証法が悲劇のうちに入り込むと、音楽がそこから追い出され、悲劇の本質が破壊されてしまう。
ソクラテスによって「思考が存在を認識できる」という妄想が生まれた。しかし、カントとショーペンハウアーが示したように、私たちの認識は制約されている。これによって科学の「一切を法則として捉えることができる」という要求は否定される。認識の限界を知ることで、楽天主義を脱却し、悲劇を再生させることができるのだ。
楽天主義から「悲劇の再生」へ
以上のような楽天主義がオペラ文化の核にある。
オペラには牧歌的な傾向がある。そこには「たとえいまは自分を見失っていても、いつか本当の自分に出会えるはずさラララ」な甘ったるい自信がある。これはまさしく楽天主義の帰結にほかならない。
しかしワーグナーとともに、現代ドイツにてディオニュソス的な精神が目覚めつつある。悲劇の再生とは、まさしくドイツ精神が、ローマ的な文化を切り捨てて、ドイツ性を自覚することによって起こる。いまこそギリシア人を教師として、このことの意味を学び取るべきだ。
ドイツ精神のディオニュソス的根底から、一つの勢力が立ちあらわれてきたのだ。それはソクラテス的文化の根本条件とはなんの共通点もない勢力だ。そういう根本条件からは説明もできなければ弁護もできない勢力、むしろソクラテス的文化からは、恐ろしいくらい不可解なもの、威たけだかに敵意を持ったものと感ぜられるような勢力が頭をもたげてきている。つまりドイツ音楽、とりわけバッハからベートーベンへ、ベートーベンからワーグナーへの太陽の歩みにも似た力強い動きをいうのである。