ニーチェ『道徳の系譜』を超コンパクトに要約する

ニーチェの『道徳の系譜』をコンパクトにまとめました。

詳細解説はこちらで行いました → ニーチェ『道徳の系譜』を解読する

まえおき:「実証的でないから」と切り捨てるのはナンセンス

「負債から負い目が生まれてきた?そんなの実証されてないじゃんw」は、もう本当に何回も何回も飽きるほど繰り返されてきた典型的な批判です。

しかし率直に言って、そういう批判はナンセンスです。

原理レベルと事実レベルをきちんと分けて考えることが重要です。この例もよく使っていますが、そうした批判は地面に三角形の図を描いて内角の和が180度になることを示そうとしているひとに対して「この三角形ちょっとココ曲がってません?」とツッコむのと本質的に同じことです。暗黙のうちに原理の完全性を仮定しておき、事実の偶然性でもって原理を相対化しようとする手法です。

以下、本文に沿って見ていきます。

目的

善悪の判断が生まれてきた理由、善悪の判断そのものの価値を明らかにするために、道徳の価値をさかのぼって仮説的に(=系譜学的に)考察すること。

貴族道徳

自然な道徳の起こりは、「よい」人が自分を「よい」と評価すること、つまり自己肯定にあった。そこでは、「わるい」schlechtは、素朴に・率直にschlectweg (simply)という意味でしかなかった。

この段階における道徳を「貴族道徳」と呼んでみたい。

「強いのが悪く、弱いのがよい」へ

この段階における「わるい」が、次第に、善に対置される意味での悪das Böse (evil)と見なされるようになった。

この過程で生じていたのが、ルサンチマンによる価値転換だ。ルサンチマンとは、怨恨、世界に対する不十全感、いわば「…ちぇっ!いい気になりやがって…」の感覚のことだ。

ルサンチマンは「よい」を「わるい」に、「わるい」を「よい」に置きかえる。ルサンチマンに侵されている「弱者」からすれば、強いことは悪であり、弱いことは善である。彼らからすれば、貴族道徳段階における「よい」ひと、つまり力強く自己肯定する「強者」こそ、まさしく「悪人」にほかならない。

すべての貴族道徳は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転—自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向—こそが、まさにルサンチマン特有のものである。

ここでニーチェのいう強弱は、腕力的な強さというよりも(そういう面も少しはありますが)、他人の評価にビクつかない心の強さのことを指しています。「みんながよくないっていうから」と、自分で判断する以前に他人の評価をアテにすること、これが「弱者」的な価値判断のあり方です。

約束できるひとに良心が宿る

ここでは強者を「主権者的な個人」と呼ぶことにする。

主権者的な個人は、自分の意志をもっている。それによって、彼は約束することができる。約束に対して責任をもち、自分をきちんとコントロールして、これを自分から進んで守ろうとする。

そのとき彼には、まさしく良心が生じている。

約束は外部から「さあ守れ」と言われて守るようなものではない。「はいはい分かりました」と答えておきながら平気でこれを破るようなひともいるからだ。最終的には約束を守るかどうかは自分にかかっている。

破ることができるにもかかわらず、自律的に約束を守ろうとする自己確信、これが良心だ。

「負い目」から疚しい(やましい)良心が現れてくる

一方、約束ではなく「負い目」から生まれてくる良心もある。それが疚しい(やましい)良心だ。

負い目Schuldの概念は、負債Schuldenに由来して生まれてきた。

その一方で、刑罰が報復から生まれてきた。

刑罰は負い目を呼び起こすものと見なされてきたが、実際はむしろそれを発達させないように抑制してきた。ここで私はひとつの仮説を置きたい。国家や社会は、人びとが自分たちで約束する力をアブナイものとみなした。そこで、刑罰を用意し、これによって人びとを馴致し、彼らの本能を内向化させた。こうすることで疚しい良心が生まれたのだ、と。

疚しい良心は、負債感や罪障感に支えられた良心のこと。たとえば、お歳暮を「もらってばかりで申し訳ないから」と贈ったり、年賀状を「こっちからも送らないと何か悪いから」と送ったりするのを思い浮かべると分かりやすい気がします。送りたいから送るというよりも、送らないと申し訳ないので送るときの感じ。「申し訳なさの良心」と言いかえると、さらに分かりやすいように思います。「お金持ちで申し訳ない」「五体満足で申し訳ない」「平穏に暮らしていて申し訳ない」…等々。

禁欲主義の理想で生を維持しようとする

ルサンチマンに侵されているひとは、「私が苦しいのは誰かのせいに違いない」と考える。ここで、彼らを従える「禁欲主義的僧侶」は次のように告げる。

「そのとおりだ、それは誰かのせいに違いない。しかし、その誰かとは、まさしく君たち自身なのだ。苦しいのは君たち自身のせいなのだ!」

一見すると、禁欲主義的僧侶は生を否定しているかのように思えるかもしれない。しかし実際には、彼は「そうではなく、こうありたい」という理想を示すことで、人びとにルサンチマンと闘う力を与えているのだ。言いかえると、禁欲主義的な理想は人びとが生きるために編み出したものなのだ。

禁欲主義的な理想から「虚無への意志」へ

では、彼らが禁欲主義的な理想を求める理由は何だろうか?

それは、私たちが本質的に生の意味を求める存在だからだ。苦悩それ自体が問題なのではない。苦悩に意味や目的が欠けていること、これが問題なのだ。

禁欲主義的な理想は、人びとに苦悩の意味と目的を与えた。それによって彼らは何かを意欲することができるようになった。意志は救われた。

人間、このもっとも勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩そのものを否みなどはしない。いな、苦悩の意味、苦悩の目的(Dazu)が示されたとなれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする。これまで人類の頭上に広がっていた呪いは、苦悩の無意味ということであって、苦悩そのものではなかった。—しかるに禁欲主義的理想は人類に一つの意味を供与したのだ!それがこれまで唯一の意味であった。何であれ一つの意味があるということは、何も意味がないよりはましである。

しかしそれは同時に、「虚無への意志」という新たな苦悩をもたらした。本能や官能に対する嫌悪、美に対する恐怖といったものが禁欲主義的な理想から生み出されたのだ。