ミル『功利主義論』を超コンパクトに要約する

ミルの『功利主義論』をコンパクトにまとめました。

詳細解説はこちらで行いました → ミル『功利主義論』を解読する

目的

功利主義を原理的に論じて、道徳と正義の根拠を置くこと。

結論

功利主義の原理は「最大幸福の原理」。これが道徳と正義の根拠。カントの普遍的立法は道徳の根拠とならない。なぜなら私たちの行為は幸福を目的としたものだから。

正義は一般的功利。正義と功利は相容れない?もしそうなら正義は誰にも役立たないものということになる。

以下、本文に沿って見ていきます。

本文

カントの普遍的立法は議論として苦しい

どのような行為も何らかの目的を目指している。なので行為の規則は目的によって特徴づけられる。

倫理学には直覚派(道徳原理は最初から明らか派)と帰納派(経験と観察によって分かる派)がある。ともに一般法則が必要と考えている点で共通しているが、それが何かを明らかにしていない。これは問題。

私ミルは、ベンサムのいう功利の原理(最大幸福原理)を弁護したい。この原理を俗的とけなすひともいるが、そういうひとが道徳について論じる際にも、この原理が強く影響しているのだ。

道徳論で歴史に残るであろう考え方のひとつに、カントが『実践理性批判』で展開した定言命法がある。これは「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というものだが、カントの議論はかなり苦しい。

カントはただ、万人が不道徳な法則に従えば、万人が望まないような結果になると言っているにすぎない。言いかえると、万人が定言命法に従うことを証明しているわけではない。定言命法は行為の普遍的法則とは言いがたいのだ。

定言命法については、こちらで説明しました → 「定言命法」とは?

功利主義が受け入れられないのは、それがひどく誤解されているからだ。そこで私は以下、功利主義とは何かについて簡単に説明してみたい。

功利主義の原理

功利主義の観点からすれば、行為は幸福つまり快楽を生む程度に応じて正しく、不幸つまり苦痛を生む程度に応じて誤っている。

快楽を道徳の根拠とすることに嫌悪感をもつひとは少なくないだろう。しかし忘れてはいけないのは、人間の快楽は動物の快楽とは質的に異なるということだ。

人間は快楽を選択できる

私たち人間の快楽にとっては、尊厳が本質的な部分をなしている。これは低級な快楽におぼれることをためらい、より望ましい快楽を選ぼうとする感覚のことだ。

人間は快楽に流される代わりに、どの快楽がよいかを吟味し、選び取ることができる。動物はそうすることができない。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの間題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

道徳の基準=行為が豊かな生を可能にするかどうか

行為の目的は幸福にある。なので最大幸福原理が道徳の基準でなければならない。この基準は、それに従うことで、可能な限り豊かな生が誰にとっても可能となるものだ。言いかえると、豊かな生を可能にするかどうかが道徳の判断基準だ。

エゴイズムではない

功利主義は自己中心主義(エゴイズム)と同一視されることがある。「功利主義は自分が幸福であればそれでいいとする考え方でしかない」、と。しかしそれは端的に誤りだ。なぜなら功利主義は幸福の総量を増やす、もしくは増やす傾向にあるような自己犠牲にも価値を置いているからだ。

どういうことかというと、

功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである。

そういうわけなので、幸福の総量を減らすように働く自己中心主義は、むしろ功利主義の理念に反するのだ。

「みんなのために」を強制しているわけでもない

かといって功利主義は、万人に自己犠牲を強制しているわけでもない。

道徳の基準に反さないかぎり、私たちは自分の幸福を追求することができる。世界の幸福のために行為せよ、と言うつもりはない。そうしたいひとがそうすればいいだけのことだ。

良心が強制力

功利主義の原理には2つの強制力がある。1つは外的強制力であり、もう1つは内的強制力だ。

外的強制力は仲間への共感、神への愛と畏敬の念だ。また、内的強制力は、義務に反したときの苦痛であり、これが義務の観念と結びつくと良心となる。

私たちが道徳的な行為を行うのは、この良心のためだ。良心が私たちを動かすのであって、私たちから離れたところに実在するような義務が何かを強制するわけではないのだ。

人間を本当に動かす力はその人自身の主観的感情であり、その力は正確に主観的感情の強さに比例するのである。

道徳感情は自然な心情による

道徳感情は後天的に得られる。しかし、そうだとしても、その根拠には社会的感情がある。

社会状態は私たちにとって自然なものであり、あえて疑おうとしない限り、私たちは自分を社会の一員とみなしている。

社会が健全に成長すると、私たちは他人にとっての善を自分にとっての善と同様に配慮するようになる。文明が発展して利害対立が無くなるにつれて、これはさらに推し進められる。その意味で、仲間との一体感こそ、道徳感情の究極的な強制力なのだ。

この一体感は、たいていの人の場合、利己的感情よりはるかに弱く、まったく欠けている人さえ珍しくない。けれどももっている人にとって、一体感は自然の感情がもつ性格を全部そなえている。彼らはそれを、教育が植えつけた迷信とも、社会の権力が強圧的に課した法律とも受けとらず、なくてはならない属性と考えるのである。この確信が、最大幸福道徳の究極的な強制力なのである。

功利主義的な正義

正義と功利は対置される傾向にある。しかし正義は「一般的功利」のひとつだ。正義は他の功利よりも重要であり、それゆえさらに絶対的・命令的な功利なのだ。

功利は不確実であり、恣意的なものだというひとがいるかもしれない。「正義はそれ自体が絶対的な基準であって、功利をもたらすかどうかは関係ない」と考えるひともいるだろう。しかしそうした正義は空想的なものであり、ひとによって様々に解釈されてしまわざるをえない。

功利を基礎とすることで、正義はより実質的なものとなるのだ。

功利を基礎としないような、空想的な正義の基準をたてようとする説の主張に私は疑問をもつ。功利を基礎とする正義がいっさいの道徳の主要部分であり、比較を絶したもっとも神聖で拘束力の強い部分だと私は考えている。

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