モース『贈与論』を超コンパクトに要約する

モースの『贈与論』をコンパクトにまとめました。

詳細解説はこちらで行いました → モース『贈与論』を解読する

前置き

参考になる部分もあると思いますが、全体として議論がぼんやりしており、着眼点の珍しさで何とかもっているような作品です。事例を一般化しすぎていて、議論には無理が目立ちます。甘ったるい古代ロマンの雰囲気がぬぐえません。

では見ていきます。

目的

贈与と給付の体系が人間社会の「岩盤」であること、現代の貨幣経済が「道徳的に」歪んだものであることを示して、貨幣経済から贈与経済への移行を提案すること。

原始社会(未開社会)で贈与は義務として行われていた

アメリカやポリネシア、メラネシアでは、義務としての贈与が社会的な規模で行われていた。その最も純粋な形がポトラッチ。ポトラッチは贈与の競争。ポリネシアのポトラッチはタオンガ(宝物)の交換、メラネシアのポトラッチはクラ経済として行われていた。などなど。

ポトラッチの本質

3つある。

  1. 贈与する義務
    • 贈らないことは礼儀に反し、部族のリーダーのメンツは丸つぶれに
  2. 受け取る義務
    • 「ありがた迷惑」でも拒否する権利はない
  3. 返礼する義務
    • お返しは絶対!

贈与を義務とするものは

贈与される物に込められている「魂」。ポトラッチで贈与されるタオンガは、それにお返しをしないと呪い殺されるように作られている。タオンガはただのモノではなく、魂をもった人格と考えられている。魂を受け取る。だから返礼の義務がある。

贈与(ギフト)と聞くとクリスマスプレゼントの交換を想像するかもしれませんが、ここでいう贈与はそれとは全く異なります。むしろ、映画『リング』の「呪いのビデオ」のようなものです。ダビングして見せないと自分が呪い殺される、と…。モースが取り上げている贈与の内実は、そうした不気味で強制的な循環のネットワークであって、決して自発的(=自由)な意志から成り立っているものではありません。

自発的な配慮であるからこそ、プレゼントすることは楽しく感じられるわけで、威圧的に促されたり強制されたりすれば全然楽しくありません。「お歳暮送らないと変なやつと思われるから」で送ることのうちに果たして楽しさがあると言えるでしょうか?言えないはずです。

ヨーロッパ文明にも贈与の観念があった

ローマ法にもゲルマン法にも、物は人格であるという観念があった。物の譲渡は贈与であり、贈与によって人びとは互いに助けあっていた。ゲルマンに至っては、物の価格という観念も最近になってようやく現われたんじゃないかな。多分。

ゲルマン文明は本質的に封建制と農耕にとどまっており、売買の価格という観念や言葉も最近生まれたように思われる。

貨幣経済は道徳的にケシカラン

こうした贈与と給付の体系(全体的給付体系)は、貨幣経済以前、全人類の大半において存在していたような気がする。現にほら、招待には応じなければならず、お返しをしなければならないという慣習が残っているじゃないか。

これに比べると、貨幣経済を支える産業法や商法の反道徳さは目に余るものがある。人間社会にとっての基礎は貨幣経済ではなく贈与経済だ。贈与こそ人間社会の「岩盤」なのだ。財を卑しく追求することは、個人にとっても社会にとっても有害なのだ。

でも共産主義じゃないよ

誤解されたくないので一応言っておくと、贈与経済は共産主義ではない。ポトラッチに参加している部族が目指しているのは、贈与を通じて強い部族と関係を作ることにある。贈与経済は個人の利益も大切にする。共産主義は行き過ぎだ。

寛大さの過剰と共産主義は、現代人の利己主義やわれわれの法における個人主義と同じく、個人にとっても社会にとっても有害である。

共産主義は行き過ぎと言っていますが、別に何か具体的な論拠があるわけではありません。

さあ武器を捨てよ、そして交換関係を作ろう!

武器を捨てよ!一緒に手を取り合い、贈与の世界を実現させよう。互いに与え合い、虐殺のない世界を作り上げよう。原始社会で出来たのに文明社会で出来ないわけがない。いや出来るようにならなければならないのだ。

諸社会は、社会やその従属集団や成員が、どれだけ互いの関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した。交際するためには、まず槍から手を離さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人との交換に成功したのである。その後になってようやく、人々は互いに利益を生み出し、共に満足し、武器に頼らなくてもそれらを守ることができるようになった。こうして、クランや部族や民族は―だから、文明化されていると言われているわれわれの社会においても、近い将来、諸階級や諸国民や諸個人は同じようにできるようにならなければならない―虐殺し合うことなく対抗し、互いに犠牲になることなく与え合うことができたのである。これこそが彼らの知恵と連帯の永遠の秘密の一つである。

終わり。

自由な社会で義務としての贈与は不当な要求

モースの議論で最大の問題は、贈与を義務として規定していることにあります。贈与は義務であり、この義務に反することは許されない。反すれば制裁という名のリンチが待っている。これは贈与という言葉からは想像もつかないほど窮屈で抑圧的な世界です。

例えば、こんなことになるかもしれません。

  • 「ねえねえちょっと、お隣さん町会に贈与しなかったんですよ」
  • 「あらやだ、私たちはみんなちゃんと贈与してるのにねえ」
  • 「モラルの低下を防ぐためにも、あのお宅は制裁する必要がありますわね」
  • 「とりあえず家でも燃やしちゃいましょうか」
  • 「いいわね、燃えないように外に出したものを見ればどれだけ隠し持っているか分かりますしね」
  • 「ホント、利己主義は町会にとっての害ですわ」

大事なのは自由と平等をいかに両立させるかについての原理を示すことです。どうすれば自由を否定することなく、贈与を、私たちの生を豊かにするために活用しうるのか。考える方向性はこれしかありません。非人間性という恣意的な基準によって義務としての贈与を導入するのは本末転倒です。