ロック『市民政府論』を超コンパクトに要約する

ロックの『市民政府論』(『統治二論』)をコンパクトにまとめました。

詳細解説はこちらで行いました → ロック『市民政府論』を解読する

キリスト教の世界観が前提

なので他の近代哲学者(ホッブズ、ルソー、ヘーゲルなど)と比べると、社会論としてはかなり甘い仕上がりとなっています。キリスト教が信仰されていない文化ではまったく通用しません。

自然状態について

まとめると以下のような感じです。

  • ロックの自然状態=神の意志のもとで万人が完全に自由かつ互いに平等
  • ホッブズの自然状態=普遍闘争状態
  • ルソーの自然状態=相互配慮状態

3人の自然状態に関しては、それぞれこちらで詳しく解説しました → [Q&A]「自然状態」って何ですか?

本書でのロックの議論は、「自由で平等な個人が契約を結んで市民社会を設立する」とする社会契約説の一般的なイメージの基礎になっていますが、社会契約の根本理念からすると、ロック的な社会契約は非本質的なものです。ホッブズ、ルソーはロックのようにキリスト教の物語を恣意的に前提とすることなく、人間の本質規定から社会契約の条件を導いているため、本質的です。

では見ていきます。

本文

自然状態は万人が自然法(=神の意志)に従っている状態

自然状態は、完全に自由で、かつ互いに平等な状態。

ただし、自由といっても、それは自然法の範囲内でのこと。

自然法は造物主(神)の意志のこと。自然法は万人に、各人は平等なので、互いに傷つけあうことがあってはならないと教える。

万人は自然法に従わなければならない。なぜなら万人は神によって、神の事業を成し遂げるために、この世へと送られた存在だからだ。それゆえ支配服従関係はあってはならないし、自らの生命と同様に他人の生命も維持すべきなのだ。

自然状態には、これを支配する一つの自然法があり、何人もそれに従わねばならぬ。この法たる理性は、それに聞こうとしさえするならば、すべての人類に、一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、ということを教えるのである。

所有権は労働による(ただし重要な前提あり)

自分の身体については、誰でも所有権をもっている。

身体を使い、労働によって自然から取り出したものは、そのひとの所有となる。

ただし、ここにはひとつの重要な前提がある。それは、自然は神によって人びとに共有として与えられたという前提だ。自然は万人にひとしく共有として与えられているので、労働が所有権の根拠になるというわけだ。

世界はまさに人の子たちに共有として与えられたのである、という前提を立てればよい。そうすれば、土地のそれぞれの部分について、それを個人的に使用する明確な権原を人々が労働によって得ることができたことを知るのである。

労働が所有権の根拠という言い方は「なぜ私が汗水たらして稼いだお金が税金として徴収されなければならないのか?」という素朴な感覚に見事にフィットするので、ロックの議論が権威として持ち出されるのも分からなくはありません。しかし、自然が神によって共有として与えられたという前提それ自体がキリスト教的であり、ひとつのローカルな物語にすぎません。

市民社会

社会には3つの種類がある。

  1. 夫婦の社会
  2. 家族
  3. 市民社会

なぜ人びとは社会を作るのか。それは、神が人間をそのようなものとして造ったから。以下で述べるように、市民社会は同意によって成立するが、それもすべて神が人間にその素質を与えたから。神のおかげで人間は社会を作ることができる。

さて、自然状態では、各人が平和を乱す輩を排除する権力をもつ。一方、夫婦の社会と家族では、権力は父親に集中する。その理由は、子供に対しては、両親は養育するための権力をもつからであり、夫婦間では、支配権はより有能で強い男性に置かれるから。

最後の決定権すなわち支配権というものはどこかに置かれていなければならないので、自然それは、より有能で、より強い、男の方の手に置かれるのである。

これは現代的には根拠のない言い方です。というより、当時でも別に根拠があったわけではありません。ロックに先立ってホッブズは『リヴァイアサン』で、男女は精神的な側面でほとんど同じ能力をもつと論じていました。ロックの見方は古すぎます。

それに対して、市民社会では、各人が権力を公共の共同体に委ねることで成立する。

市民社会は、各個人の同意によって作られる。多数決をすることのできる個人が共同体を作ることに同意すること、これによって合法的な政府は設立されてきた。

このようにして、政治社会を開始し実際に構成するものは、多数決をすることのできる自由人が、このような社会を結成するのに同意することに他ならない。そうしてこれが、またこれだけが、世界のあらゆる合法的な政府を開始させた、あるいはさせることのできたものなのである。

当然ながら、市民社会は絶対君主制とは相容れない。

ロックはその理由をグダグダ書いていますが、各人は現世において平等でなければならないという最初の前提からすると、これは言うまでもないことです。

では、何のために市民社会を作るのか。それは、所有が侵害されることに対する不安と危険を回避するためだ。

人々が国家として結合し、政府のもとに服する大きなまた主たる目的は、その所有の維持にある。

所有を維持するための制度

市民社会は具体的な制度として、法、裁判官、執行権力を必要とする。法は立法権に対応し、裁判官は司法権に対応する。

立法権に関して

立法権は、

  • 公共の福祉を超えたところまでは及ばない
    • というか、自然法、つまり神の意志を超えてはならない
  • 特定の個人に集中させるのではなく、分散しなければならない
  • 最高権力
    • ただし人びとにはこれを変更する権利がある

立法権は、ある特定の目的のために行動する信託的権力に過ぎない。立法権がその与えられた信任に違背して行為したと人民が考えた場合には、立法権を排除または変更し得る最高権が依然としてなお人民の手に残されているのである。

立法権の信託期間を定める

立法権は、社会があり続ける限りは個人の手に戻ることはない。しかしこれを政府に信託する期間を定めておけば、立法権は定期的に社会の手に戻る。そのとき人びとは新たに議会を招集するなどの仕方で、改めて立法権を政府に信託することができる。

この立法府の存続期間に限度を設け、個人もしくは会議体のもっているこの最高権を一時的に過ぎないものとしたとすれば、もしくは、権威の地位にあるものの失敗でそれが没収された場合には、その没収なり、定められた期限の到来によって、それは社会の手に戻り、人民は最高のものとして行為する権利をもち、立法権を自分たちのうちに継続させるか、あるいは、そのよいと信ずるところにしたがって、新しい形態を定めるなり、古い形態のままでこれを新しいものの手に与えるなりするのである。