カント『実践理性批判』を超コンパクトに要約する

カントの『実践理性批判』をコンパクトにまとめてみました。

詳細解説はこちらで行いました → カント『実践理性批判』を解読する

目的

道徳の根拠を規定すること。

結論

習俗や文化ではなく、理性による定言命法が道徳の根拠。ローカルな根拠ではなく、誰でも納得できる(し、そうするほかない)普遍的な地点に根拠を置くことが必要。

カントの議論を図式的にまとめるとこう。

  • 傾向性(欲求)→ 格率 → 仮言命法
    • 仮言命法は「…を望むなら、こうしなければならない」
    • 何を求めるかはひとそれぞれなので、仮言命法を道徳の根拠にすることはできない
  • 理性 → 普遍的な道徳法則 → 定言命法
    • 定言命法は「…を望むかどうかに関わらず、こうしなければならない」
    • 理性で考えれば何が正しいかは誰でも分かるので、定言命法が道徳の根拠となる

以下、本文の流れに沿ってみていきます。


格率と普遍的立法

欲求に基づく行為の原則(格率)は道徳の根拠とならない

道徳の根拠を快や欲求に置くことはできない。なぜならそれらは結局のところ自分の幸福を求めているから。

自分の幸福を求める行為の原則を、ここでは格率(maxim、マキシム)と呼ぶことにする。

格率は主観的なものであり、普遍性がない。なので道徳法則と見なすことはできない。

格率を抽象化した普遍的立法(定言命法)が道徳の根拠

格率は幸福を目的とする。そこで、格率から目的と取り除くとどうなるか。純粋な法則の形式だけが残る。この形式を普遍的立法と呼ぶ。

普遍的立法は、理性の働きによって、普遍的な道徳法則を自らに与えることができる(意志することができる)。基本的に理性は人間であれば誰でも備えているので、理性をきちんと働かせれば、誰でも道徳法則を自分自身に課すことができる。

自分の行為の法則を、つねに普遍的立法にかなうように整え、これを自分に課して行為すること。こうした自律的な行為だけが、ただ道徳的といえる。

君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

[注]純粋理性は、それ自体だけで実践的であり、我々が道徳的法則と名づけるような普遍的法則を(人間に)与える。

厳密に道徳的な行為をすることはできない…人間だもの

カンの鋭い方なら気づいていると思うが、私はこれまで道徳法則と言っておきながら、それを命令形(命法)で表現してきた。「もしそれが普遍的なら、わざわざ命令形にする必要なんてないんじゃないか?」と思うはずだ。

ただ、私たちは人間である以上、欲求を完全に克服することはできない。それができるのは神のような存在だけだ。

実際には自分の行為の法則である格率を普遍的な道徳法則と一致させることはできない。しかしそれは行為が道徳的かどうかを判断するための基準として、また、行為のよりどころとしての意義をもっている。

道徳法則に従わないって?そんなことない

次のように思うひともいるはずだ。定言命法だか何だか知らんが、そんなのは関係ない。私は自分のやりたいことをする。同じようなひともいるはずだ。なのにどうして皆が道徳法則に従うというような風に言えるのか、と。

それは簡単だ。私たちは道徳法則を尊敬している。このことは明らかで、疑うことはできない。この尊敬が動機となって、私たちは自分たちの行為を道徳法則にかなうようにするのだ。

徳福一致のアポリア(難題)

道徳法則は格率とは異なり、幸福を目的とするものではない。というよりも、道徳的に生きることは幸福となることに反する。道徳と幸福の両方を達成すること(徳福一致)は、現実世界では成立することはない。現実世界は正直者がバカを見る世界なのだ。

このことは、道徳法則にとって大きな危機だ。いくら道徳法則を尊敬しているからといって、幸福が同時に達成されないようでは、理性が道徳を追求する理由がなくなってしまう。なぜなら理性は徳福一致を最も善いこと(最高善)とみなすからだ。

しかし徳福不一致は見かけ上の矛盾でしかない。この矛盾は徳福一致を現実世界の法則と考えることから生まれるのであって、そうやって考えること自体が間違っているのだ。徳福一致は悟性世界(理念的な世界)の法則であり、そう見なすからこそ意義があるのだ。

3つの「要請」

以上のこともあるので、ここで私は3つの「要請」を置いておきたい。これは私の道徳論を支える重要な考え方なので、よく聞いてほしい。

  1. 自由
  2. 魂の不死
  3. 神(イエスではなく、悟性世界の原因としての)

自由

さっき私は、人間は傾向性に規定されており、それを完全に克服することはできないと言った。それは確かにそうだ。矛盾しているじゃないかと思うひともいるかもしれない。しかしそういうことではない。ここでは次のように考える。私たちが道徳的に行為できるとすれば、そのためにはどのような条件が必要か、と。この順序が大事だ。

ひとつは、自分に道徳法則を課すことがある。道徳法則を自律的に課すことができなければ、道徳も何もあったものじゃないからだ。

確かに私たちは、自分の意志が欲求によって左右されることを知っている。しかし同時に、自分の意志が自然法則とは異なる条件によっても規定されており、自然世界の因果関係とは異なる秩序をもっていることもまた知っている。もしそうでなければ、道徳という概念そのものが意味をなさないはずだ。

私たちは、傾向性に完全に流されているわけではなく、自制心をもっており、自分で何が善いかを判断し、それを行うことができる。この条件を私は「自由」と呼びたい。世界が自由であるとは言えないが、意志が自由であるとは言えるはずだ。

カントの自由論を「一切は構造によって規定されているのに」的な言い方で批判するのはアンフェアです。なぜならカントは自由を現実世界の法則として考えるのではなく、私たちの意志を部分的に規定するものとして捉えていたからです。道徳を欲求と克己のバランスで論じるからこそ、カントの言い方にはなるほど感があるわけです。「脳・構造・社会が規定している」論は典型的な批判ですが、哲学のプロセスをブルドーザーで平地にする鈍感さを感じずにはいられません。

魂の不死

次に要請されるのは、魂の不死だ。

私たちの意志が普遍的な道徳法則を自分に課すことができれば、それは完全に道徳的なものになる。しかしこれは現実世界では不可能だ。私たちはどれだけ頑張っても傾向性を無くすことはできないので、意志が100%自律的になることはできないからだ。

しかし私たちの理性が徳福一致を目指すことも確かだ。さきに私は、徳福一致は現実世界についてではなく、悟性世界についてのみ当てはまることだと言った。つまり現実世界では徳福一致を目指すことしかできない。この「無限への進行」は理性にとって必然的だ。

しかし「無限への進行」は、私の人格が、その主体として無限に存続することを必要とする。人格が道半ばで消滅してしまえば、「無限への進行」はそこでストップしてしまうからだ。このことから私の人格が永久にあり続けること、言いかえれば魂の不死が要請される。

最後に、神の要請だ。

徳福一致はただ悟性世界においてのみ可能となる。これは自然世界とは異なるものであり、それとは異なる原因をもつ。この原因を私は神と呼びたい。なので神といっても主イエス・キリストのことではないし、ましては「神が自然世界を造った」というふうには考えない。

くどいかもしれないが、自由も魂の不死も神も、現実世界を規定する条件ではない。そうではなく、これらは、徳福一致を目がける理性がどうしても要請せざるをえないものだと考えなければいけないのだ。

道徳教育が大事

道徳法則を目指すことができるようになるためには、子供の頃に道徳教育を行うことが効果的だ。

とはいえ、子供に「さあ道徳法則を目指せ!!」と言ってもそれはムチャだ。まずは道徳法則を目指すことの利益や不利益を示して、関心を向けさせるのが効果的だ。

その後、子供に純粋な道徳的動因を教育する必要がある。そうすることで子供は自分の理性で何が正しいのかを吟味し、判断することが出来るようになるはずだ。

まとめ

本書でのカントの議論で大事なのは以下のポイントです。

  • 何が正しいかは理性で考えれば分かる
  • 道徳法則は理性が課す
  • 傾向性の克服(=克己)が必要
  • 完全には克服できないので100%道徳的な行為を行うことはできない
    • でも道徳法則は目がけるべき目標として役立つ
  • 道徳法則には3つの要請がある
    • 自由、魂の不死、神
    • これらは道徳法則を目がける理性が必要とする条件
    • なので「現実に人間は自由である」とか「神が存在する」ということではない
  • 道徳教育が必要
    • アメとムチ

意義

道徳の根拠を宗教や文化から、理性へと置き直したこと。前者は部分的な人びとにしか受け入れられないけれど、後者はキリスト教やヨーロッパの垣根を超えて共有されるはずだとカントは考えました。

論点

哲学的なコンテクストで考えると、以下のようなものが論点になってきました。

  • 理性で考えれば何が正しいのか分かるのか?
    • 一定程度までは言える
    • 問題は絶対的な解答があるのかどうか
  • 「要請」は本当に有効か?
    • 絶対的な解答を置くから問題になるだけでは?
    • 参考:ヘーゲルはこれを「ずらかし」(問題の引き延ばし、先送り)と呼びました(『精神現象学』)
  • 単にそうあってほしいだけでは?
    • 世界にうらみつらみがあるから「本当の世界」を空想するだけ
    • 参考:ニーチェのルサンチマン(『道徳の系譜』

など。

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