ホッブズ『リヴァイアサン』を超コンパクトに要約する

ホッブズの『リヴァイアサン』を出来るだけシンプルにまとめてみました。

詳細解説はこちらで行いました → ホッブズ『リヴァイアサン』を解読する

前提

本書でホッブズは、以下の2つの前提に基づいて議論を行っています。

  1. 人間について
    • 各人は構造的・能力的に平等
  2. 世界について
    • 富が稀少(限られている)

男性から女性が造られたとするキリスト教的な見方のかわりに、人間は神ではなく「自然」から生まれたという前提に立つ。そうすると、確かに男女で身体的な強さの違いはあるが、精神的な能力(たとえば感覚や推論、言語)に関してはむしろ平等と言える。そうホッブズは直観していました。

2つ目の稀少性の問題については、ホッブズが直接そう言っているわけではありませんが、ジョン・ロックの世界観と比較すると分かりやすくなります。ロックが労働によって富を増やすことができると考えていた一方、ホッブズは、基本的に富の総量は限定されており、多少増やすことができるとしてもわずかでしかない、と考えていました。これは現代で言うところの化石エネルギー(石油など)をイメージするといいかもしれません。

史実ではなく原理的構想として読む

なお、本書を含め、ルソーやヘーゲルなどの近代哲学の社会論を読む際には、史実の記述ではなく、原理的構想として把握することが重要です。どのような原理が、国家、政治権力、社会の正当性の原理となりうるか。近代哲学者にはこのような問題意識がありました。なので「社会契約は現実には成立しない」という批判は、彼らの問題意識(どのような原理が正当性の原理となるか?)を根本的に見誤ったものです。

では見ていきます。

本文

目的

どのような国家が正当なのか、また、どのような権力が正当なのか、について答えること。

答え

社会契約に基づく市民国家がその答え。

「万人の万人に対する闘争」になるまで

  • 人間は構造的にだいたい平等
  • 能力が平等
  • 希望が平等
  • 望む対象が限られている(稀少)
  • 「アイツに取られちまうんじゃねえか」と相互不信
  • 「アイツに負けないはずだ」という自負心があれば、打って出ようとする

これが「万人の万人に対する闘争」。これは相互不信状態のことであり、必ずしも実際の戦闘状態だけを指すわけではない。

平和条項を考える

人間は「万人の万人に対する闘争」を望まない。そこで、理性の示唆により、各人が合意できる条項を考え出す。これを私は自然法と呼ぶ。

自然法は2つある。

  1. 各人は平和を目指すよう努力すべき。戦争はこれが不可能な場合にしか許容されない。
  2. 平和を目指すために、万物に対する権利を主張することを放棄しなければならない。

公共、共有の権力(コモン・パワー)を設立する

しかし、ただ「条項をみんなで守ろう」というだけでは効果は期待できない。それは各人の良心に働きかけはするが、彼らを拘束するものではないから。ズルをするひとが必ず出てくる。

そこで、公共的な権力(コモン・パワー)を設立する必要がある。そうすることで自然法に効力をもたせ、自然法の前提にある合意と契約を互いに守るようにすることができる。

コモン・パワーを設立するためには、一切の権力を個人(国王)もしくは議会に譲り渡す必要がある。そうすることで人びとは、自分たちの行為を彼らに代理する一個の人格として結合する。この人格がコモンウェルスとかキウィタス(社会)と呼ばれるもの。

ホッブズはここで、社会をただの集合体ではなく、相互に安全保障を行おうとする意志に基づいて成立するものと捉えました。社会は不変的でスタティックなものではなく、安全保障のために私たちが編み変えることができる。この編み変えの可能性を示したことに、ホッブズを含む市民社会論の功績があります。

国王と議会は代理人

国王と議会は元からエラいわけではない。彼らは人びとの総意を代表するために選出された代理人でしかない。彼らは権力を最初からもっているわけではない。権力はコモンウェルスの設立とともに与えられる。言いかえると、相互契約と同意に基づいてのみ与えられる。

正義や犯罪は相互契約があって初めて存在する

何が正しいとか正しくないとかは、相互契約に基づいてのみ決まってくる。

コモン・パワーが存在しない状態は「万人の万人に対する闘争」であり、相互契約が存在しない状態。他の人の権利を侵害したところで、正しさの基準が存在しないから、判断のしようがない。ここでは「神がいるから」は通用しないのだ。

ポイント

神が国王の権利を保証するという王権神授説を否定し、政治権力の正当性の根拠はただ市民間の合意のみに求められねばならないとする社会契約説を打ち出したこと。

本質的に能力の平等は、相互不信として規定される「万人の万人に対する闘争」(普遍闘争状態)へと行き着く構造となっており、普遍闘争状態を解決する正当性の原理は、神のような超越項ではなく、ただ市民間の合意にしか求められない。この直観は、ホッブズ以前のオーソドックスだった王権神授説を、根本的に置きかえる強力なものだったと言えます。