ヘーゲル『法の哲学』を超コンパクトに要約する

ヘーゲルの『法の哲学』をできるだけコンパクトにまとめました。文字色が灰色の部分は私のコメントです。

詳細解説はこちらで行いました → ヘーゲル『法の哲学』を解読する

前置き

きちんと順番通りに読むのが大事です。

本書でヘーゲルは最初に自由に関する抽象的な原理論を行い、それに基づいて具体的な制度について論じています。全体の流れとしては以下のような感じです。

  1. 緒論
    • 自由の原理論
  2. 抽象的な法権利
    • 「人格」の相互承認が自由の基礎
    • 自由は「所有」という形を取る
  3. 「道徳」Moralität
    • 意志が普遍的な正しさ(自由)を求める段階
    • しかしこれは偽善とイロニー(主観性の絶対化)に行き着く
  4. 「倫理」Sittlichkeit
    • 自由が制度として実質化する段階
    • 具体的な制度として、家族、市民社会、国家がある

なので、いきなり「家族 → 市民社会 → 国家」の図式から入っても、その意義を理解することはできません。順序的に。具体的なのでどうしてもそこから読んでしまいたくなりますが、それだけだと片手落ちです。というか半分落ち、いや3分の2落ちです。

では見ていきます。コンパクトと言っておきながら長いですが、これ以上削れませんでした。釣りタイトルになっているかもしれません。すみません…。

緒論

法(Recht)=正しさ=自由

  • 法の理念、つまり本質について論じる
  • 法は「正しさ」
  • 「正しさ」の内実は「自由」
  • なので法の哲学は自由の哲学
    • 法律Gesetzについての哲学ではない
    • 法律は法を具体化して置かれたgesetztもの
  • 本書で私ヘーゲルは自由な社会を構想しようと思う
    • 法の体系は「精神の世界」であり、「自由の王国」

自由の本質論

  • 初めの自由は単なる衝動、恣意
    • 良し悪しがまだ分からない
  • 自由は欲求と「教養」との相関関係のうちで現れる
    • 「教養」は思考を普遍的なものとし、衝動を普遍的なものとする
    • 様々な欲求を吟味し、どんな欲求が自分にとって「幸福」(よい)か考えられるようになる
    • それを可能にするものを教養と呼ぶ(ので学校教育に限らない)
  • 自由は社会的に展開していく

カントは欲求を克己し道徳的なことをすることが自由だと論じていました。ヘーゲルは欲求を否定せず、これを教養によって高め、上手に生かすことが自由につながると論じた点でカントと異なります。

抽象的な法権利

  • 人格Personが法の基礎
    • ここでいう人格は「法的人格」のニュアンス
  • なので人格は相互に尊敬し合わなければならない
    • 人格の相互承認

人格性は、抽象的な、それゆえに形式的な権利ないし法の、概念およびそれみずから抽象的な基礎をなしている。それゆえ権利ないし法の命合はこうである—一個の人格であれ、そして他のひとびとをもろもろの人格として尊敬せよ。

教養によって陶冶(とうや)されることで、個々人はキリスト教徒やドイツ人としてではなく、一個の人格として(=同じ人間として)理解されるようになる。

普遍的人格という点においては、すべての人が同一であるが、私がこうした普遍的人格として理解されるのは、陶冶としての教養のたまものである。すなわち個々人を普遍性の形式において意識するものとしての思惟のたまものである。人間が人間とみなされるのは、彼が人間であるからであり、彼がユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタント、ドイツ人、イタリア人等々であるからではない。

占有と所有

  • 人格は外的な対象(=物件)を「占有」することで自由になろうとする
    • 精神にとっての対象は肉体
    • 対象を使用することで欲求を実現する
  • しかし占有には偶然性がある(=早い者勝ち)

自由の基礎としては、占有ではなく所有がふさわしい。なぜなら

  • 占有は欲求に基づく
  • 所有は意志に基づく

から。

占有と所有の違い

  • 他の人から「それはあなたのものです」と認められる可能性があるかどうか
    • 占有にその可能性はなく、所有にはある
  • 私たちは自分を「所有」する
    • 教養を通じて肉体と精神を作り上げる(自己を所有する)ことで、他の人と違う人になる
    • 自分の可能性や素質を実現していく

人間は、彼自身の肉体と精神をつくりあげることによって、すなわち本質的には、彼の自己意識が自分を自由なものと捉えることによってはじめて、自分を占有取得し、彼自身の所有となり、他の人たちにたいして自分のものとなる。

この占有取得は、人間がその概念からいって〔一つの可能性、能力、素質として〕そうであるところのものを、現実性のなかへ定立し入れるということでもある。このことによってはじめて、人間がその概念からいって〔一つの可能性、能力、素質として〕そうであるところのものを、現実性のなかへ定立し入れるということでもある。

犯罪から復讐へ、復讐から復讐の連鎖へ

  • 所有を否定し、権利を侵害することは「犯罪」
    • モノを傷つけるだけの「損害」とは違う
  • 犯罪には、これを回復するに相当する「刑罰」が要求される
    • ここでヘーゲルはいわゆる「正・反・合」の図式を使っていますが、結構無理矢理な感があります。大目に見てあげましょう。
  • 初め、犯罪の否定は報復と復讐という形を取る
    • しかし復讐は主観的なもの(社会的に承認されていないというニュアンス)
    • 復讐は、復讐の連鎖に行き着く
    • これはひとつの矛盾
  • この矛盾を解決する過程で、法の運動(ダイナミズム)から「道徳」Moralitätが現れてくる

道徳

ここでヘーゲルがいう道徳は、普段私たちがいう道徳とはかなり異なる意味なので要注意です。

  • ここでいう「道徳」は、普遍的な正しさ(自由)を求める意志のあり方のこと
    • 自分自身を対象的に捉えている点で以前のあり方と違っている
  • しかしそれはまだ主観的で抽象的
    • 自分の正しさを、他の人との関係において、行為を通じて証明しようとする
    • そこで「道徳」的な意志は「万人の福祉」を持ち出してくる
    • しかし本当の意味での「万人の福祉」は実現不可能
    • なぜなら危急権(正当防衛の権利)があるので
    • 正当防衛は、権利と福祉が限定されたものであることを示している

「善」

  • 実現された正しさを「善」と呼ぶ
  • 善は理念(本質)であり、自由が実現された状態のこと

全知でないことを知る

  • 「道徳」的な意志にとっての正しさは独善的
    • 私にとっての「善」が万人にとっても善でなければならないとする
    • 善は内実をもっておらず(万人にとっての正しさとしか言えない)、空疎
  • しかし真の善がどこかに存在しているわけではない
  • 「本当の善が何であるかは、ただ主観の側から決めることしかできない」と自覚
    • 神が決めてくれるわけではないことを知る
    • この段階で、意志は「良心」に達する

良心は偽善、もしくはイロニーとなりうる

  • 良心は、自分の思い込みに基づいて善を決め、これを目指そうとするかもしれない
    • 「悪」となりうる
  • 良心と悪は、ともに自己確信のひとつのあり方
  • 自己確信であるため、偽善と「イロニー」が現れてくる
    • 偽善は自分を「善」と言い張る「悪」
    • イロニーは「善悪は自分次第で決まるのだ」と主観性を極限化すること

「道徳」から「倫理」へ

問題は「道徳」が目指す善が抽象的で形式的だったことにある。この「善」が具体化すると「倫理」Sittlichkeitになる。

倫理

ここでいう「倫理」は、

  • 自由が現実的に(制度的に)存在している状態のこと
    • 道徳と同様、普段私たちが使っている意味とかなり異なるので要注意
  • 2つの側面がある
    1. 掟(ルール)
    2. 機構(制度)
  • 客観的
    • 主観の恣意によって現れたり消えたりするわけではない
  • 次の過程で展開する
    1. 家族:自然な一体性
    2. 市民社会:法的体制に基づく、欲求を通じた個々人同士の関係
    3. 国家:公的な生活であり、真の自由が実現された状態

これまでヘーゲルは、国家で真の自由が達成されるとする主張から国家主義者と解釈されることが多かったですが、近年では、国家を最終項に置いたのは当時の政府から危険人物と見なされていたためとする解釈が日本のヘーゲル研究者を中心に出されています。

家族

  • 家族は「愛」によって規定される
  • 個人はひとつの人格としてではなく、家族の一員として存在する

家族には3つの本質がある。

  1. 結婚によって成り立つ
  2. 共同の財産をもつ
  3. 子供を教育し、子供が成年になると解体する

結婚

  • 結婚では、自然な一体性は意識的な愛へと変えられる
    • 一緒に住もうと確認すること
  • 実質的な出発点はカップルの相互の同意にある
    • 両親の配慮(いいなずけなど)がきっかけになる場合はあるが
  • 一時の情熱を超えて、精神的な絆が現れてくる
    • 「ケンカ別れ」はできない
  • 結婚には制限がある
    1. 一夫一婦制
    2. 近親間での結婚は不当(結婚は自由な個人間でなされなければならないから)
  • 離婚もありえる(結婚は強制ではないから)

結婚相手は両親の配慮ではなく(形式上はそうだとしても)、男女間の自由恋愛によって決まるのでなければならない。現代でこそ当然の考え方ですが(異性間に限定している点で多少の古さはあるかもしれませんが)、当時の水準からすると、かなり先進的なものだったといえます。

共同の財産

  • 家族は共同の財産を必要とする
  • 恋愛によって成立した家族は、それまで当人たちが属していた家族(家系)とは切り離されている
    • なので個人の所有は、家系よりも、新たに成立した家族に属している

子供と、家族の解体

子供は、

  • 両親の愛の対象
  • 家族の財産で養育される権利をもつ
    • ただし両親は見返りを期待することはできない(そうするのは不当)
  • そのままで自由
    • 誰にもモノや道具として属することはない

家庭では、子供は次の2つに関して教育される必要がある。

  1. しつけ(倫理的な感情を身につけさせる)
  2. 家族の外できちんと活動するための能力をつけること
    • 友達やクラスメートを配慮できるようにすることなど

子供が成長し、成年になって法的人格として認められると、家族は解体する。解体するとそれまでの家族は背景に退き、子供たちは自分の家族をもつようになる。

市民社会

市民社会には2つの原理がある。

  1. 目的としての「私」自身
    • 自己中心性(≠ 自己中心主義)
  2. 人格と人格の相互連関性
    • 「メンバーシップ」

家族では成員間の配慮を基礎としているが、市民社会では、各人は人格として、自分自身の欲求を実現することができる。「人格の相互承認」の原則に反さない限り、それがとがめられる理由はない。

市民社会には3つの本質がある。

  1. 欲求の体系(市場経済システム)
    • 市民社会は経済社会
  2. 司法活動
    • 欲求の体系での自由と所有権を保護する
  3. 福祉行政と職業団体
    • 貧富の格差に対する社会的なセーフティネット

1.欲求の体系(=分業体制)

市民社会では欲求は様々な形を取る。これに応じて労働が欲求を満たすための多様な手段(商品)を生産する。

こうして労働は分業体制を生み出し、私たちの依存関係と相互関係を必然的なものとする。私たちは他の人たちの労働なしには生きていけなくなる。

労働における普遍的で客観的な面は、それが抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求との種別化をひきおこすとともに、生産をも同じく種別化して、労働の分割(分業)を生み出す。個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり、単純になることによって個々人の抽象的労働における技能も、彼の生産量も、いっそう増大する。

同時に技能と手段とのこの抽象化は、他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し、これらの関係をまったくの必然性にする。

  • 相互の依存関係は「普遍的で持続的な資産」(市場経済システムそのもの)を生み出す
    • 労働によって手に入れた財を、他の人の財と交換し、自由を享受できるようになる
  • 自分のための労働が、結果として公共の利益を増やすことになる
    • 普遍資産を保つという意味で

私たち人間の欲求の特徴

動物の欲求は制限されている。これに対して人間の欲求は制限を超えることができる。そのため人間の欲求と、それを満たすための手段は多様化する。

欲求の無限性と言われると量的な印象を受けるかもしれませんが、ここでいうのは質的な意味での無限性です。動物では欲求は本能と結びついていて固定的ですが、人間の場合はこれを編み変えることができる。子供のときの欲求は、成長するにつれて別のものへと変わっていくのが普通です。こうした可塑性が人間の欲求の特徴だとヘーゲルは言うわけです。

ただ、欲求が多様化するといっても、好き勝手な形を取るわけではない。私たちは欲求を他の人たちから社会的に認められるように変えていく(普遍化する)。その際に基準となるのは、

  1. 他の人と同等となること(一人前になること)
  2. 他の人と異なる人間になり、目立つこと

の2つ。これらが欲求を多様化する動因。

極端な貧富の格差へ

欲求は様々な形を取る。しかし欲求をどの程度満たすことができるかは場合によりけり。そのため、欲求を最大限満たすことができる人と、ほとんど満たすことができない人が出てくる。こうして社会のモラルは崩壊する。

市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埒な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。

欲求の体系においては必然的に財産や能力の不平等が生み出される。なので「万人は平等であるべき」は何も言っていないのと同じ。

2.司法活動

  • 司法活動は所有を保護するもの
  • 抽象的な法権利が客観化すると「法律」(実定法)になる

法律は、

  • 必ずしも法(正しさ)と合致するわけではない
  • 個人の内面に関わることはできない
    • 「…せよ」と命じるのは主体的な意志だから
  • 個別のケースに適用されるので、どこかで線引きをしなければならない
  • 公示される必要がある
  • 新しく作られた場合、法典に追加される

成年が18歳であろうと20歳であろうと、それは必然的ではない。大事なのは現実のケースに適用できるように、どこかで線引きをしなければならないこと。ヘーゲルが言うのはそういうことです。

3.福祉行政と職業団体

司法活動は権利の侵害と回復に関わる。しかしそれだけでは不十分。現実の権利としては、生計と福祉の保証も必要。

ここで要求されるのが、

  • 福祉行政
  • 職業団体

まずは福祉行政について。

欲求の体系(経済社会)としての市民社会では、個人が裕福だったり貧乏だったりするのは偶然性のもとにある。能力があるひとは裕福になれるし、そうでないひとはなれない。

そうした状況に対応するのは、まずは家族。しかし家族の存在自体が市民社会のもとにあるから、個人は市民社会から配慮される権利をもち、これと同じ程度に、市民社会も個人に対して要求をもつ。

福祉政策と、それを運営するための租税の必要性について。

ただし、

  • 市民社会は過剰な貧困や、賤民(労働する感情も権利感情も失われた人たち)を生まないようにするほど十分な資産をもっていない。
  • なので、貧困は国家によって救済するしかない。
  • しかしお金を与えるだけでは不十分。
    • なぜなら市民社会では、個人は自主独立し、それについて誇りをもつことを原理としているので

職業訓練などの形で、彼らが自立した生活を送ることができるよう補助するのが、市民社会の原理にかなった支援のあり方、ということ。

このほか、教育政策(公教育)を行う必要もある。家庭で行われる私教育は両親の恣意が入り込む可能性があるので、これを排除する必要がある。

次に職業団体について。福祉行政との違いは、

  • 福祉行政:政府の「上」からの配慮(外在的な配慮)
  • 職業団体:自営業者間の相互配慮(内在的な配慮)

職業団体は、商工業身分に特有。他の身分には農業身分と「普遍的身分」(政治家や軍人、官僚など)がある。なぜ商工業身分に特有かというと、農業身分では自然との関わりが重要で、普遍的身分ではそもそも公益を目指しているから。

ここでいう身分は職業のこと。

  • 職業団体の意義は、メンバーの能力育成に配慮すること
    • その意味で職業団体は第二の家族
  • 職業団体に奉仕することで、自分の職業の意義が社会的に認められる

職業団体は共同体のために働きたいという欲求に応えるもの。そうした共同体がないと欲求がつのり、国家にいろいろ要求を突きつけることになる。外から押しつけられて活動するのではなく、団体のために自発的に活動することが、職業団体の特徴。

国家

国家は、

  • 「倫理」の本質が実現された状態
    • 真の自由が実現される
  • 個々人の本質
    • 国家で客観的自由と主観的自由が一体となる

国家には次の3つの本質がある。

  1. 国家はひとつの体制(国内体制)
    • 憲法、国内法
  2. 他の国家との関係にある(対外主権)
    • 国際法
  3. 世界史のなかで「精神」として実現されていく

家族と市民社会における制度(結婚制度、司法制度、福祉行政など)は、国家の土台であると同時に、公共の自由の基礎でもある。

1.国内体制

国家は主体的には政治的心情(いわゆる愛国心)であり、客観的には有機的組織。有機的組織は、立法権、統治権、君主権からなる。まずは君主権から見ていく。

君主権

国家の総体性には3つの要素がある。

  1. 普遍性(憲法や法律)
  2. 審議(個人の利害を全体の利害と調停する)
  3. 統一性(主体として決定すること)

この3つの要素は、一人格としての「君主」によって統合される。君主権は全体つまり立憲君主制の頂点に位置する。

統治権

統治権は、

  • 司法活動の権利
  • 福祉行政の権利

からなる。

欲求の体系(分業体制)としての市民社会においては、各人は原則的に好きな経済活動で利益を求めてよい。しかしそれが公共の利益に反することのないように、官吏・上級官庁は適切に管理する必要がある。

今でいう公正取引委員会のような機関をイメージすると分かりやすいと思います。

立法権

立法権には次の3つの要素がある。

  1. 最高決定者としての君主
  2. 統治権
  3. 議会

前者2つについてはすでに確認したので、ここでは議会について見ていく。

議会は、

  • 国家が行うべきことを意識させ、色々な人びとの見解を公衆の意識として表現する
  • 政府と国民をつなぐ
  • 上院と下院からなる
    • 上院は「自然的倫理の身分」(土地貴族)からなる
    • 下院は商工業身分からなる

上院議員は商工業の不安定さから逃れており、資産は国家から独立しているので、君主権と市民権を調停し、王座と社会の支えとなることができる。

一方、下院議員は選挙によって選ばれ、地方自治体や職業団体の利益を代表する。ただし彼らはあくまで社会全体の問題を審議するために選出されるのであって、自分の団体の利益を代弁するためではない。

2.対外主権

国家の独立は国民の第一の自由であり、最高の名誉。

他国との対外的な関係によって、人びとは国家の威力が個人の生命や所有権に優位することを意識。

  • これは個々人の存在が国家の統一性と普遍性に結びつけられていることを積極的に肯定
  • なのでこの関係を承認すること、つまり国家の自立と主権を維持するために自分の所有や生命を放棄することが個々人の義務となる

戦争は絶対悪ではないし、ただの偶然、つまり政府や国民の一時的な感情やその他の事情で生じるものでもない。国家において戦争は、有限な各人が「自由による死」を遂げる可能性として現れる。

国家においては、この暴力は自然から取り上げられ、必然性は自由の業という倫理的なものへ高められる。—つまり、右の滅ぶべく定められているということが、みずから欲して消え去ってゆくことになり、そして有限なものの根拠にある否定性が、倫理的実在自身の実体的個体性になるのである。

国際法

国家は国内法より上の法によっては規定されていない。国際法は国家間の関係に基づくので、国家に対して単に「~すべし」と命じることしかできない。実際は条約が破棄されることもある。

なので国家間の争いは、合意に達することができないかぎり、戦争によってしか解決することはできない。

また、国家は自国の意志に基づき、自国の利益のために、条約を結んだり破棄したりする。外交の原理はあくまで国益であって、それを超えた「摂理」のためではない。

こうした各国の「民族精神」が自国の利益のために他国の「民族精神」と関係しあうことを通じて、「世界精神」が現れてくる。世界精神は世界史において活動する。

最後に世界史について見ていく。

3.世界史

世界史とは、自由が個人における恣意の段階から、所有、普遍性を求める道徳、制度としての家族、市民社会、国家へと社会的に展開していくプロセスのこと。

世界史はむしろ、もっぱら精神の自由の概念からする理性の諸契機の必然的発展、したがって精神の自己意識と精神の自由との必然的発展であり、—普遍的精神の展開であり現実化である。

世界史では、

  • さまざまな民族がそれぞれ固有の役割を担う
  • 民族は一度だけ新たな時代を画することができる
    • 一度世界史をリードした国家は、もう二度とそうすることはできない
  • 民族を代表する個人が現れてくる
    • たとえばナポレオン

世界精神の運動は、自然的で直接的なあり方から離れ、自分に再び帰ってくるもの。そこでは4つの段階があり、それに応じて以下のような治世がある。

  1. 東洋的治世
    • 最も素朴
  2. ギリシア的治世
    • 個人は美しい個体性としてある
  3. ローマ的治世
    • 市民の概念があるが、理想と現実が対立している
  4. ゲルマン的治世
    • 理想と現実の対立が「宗教」的に宥和されている

世界史が自由が実現されていくプロセスだというのは確かに的を射た言い方ですが、東洋~ゲルマン的治世は、いかにも図式的であって、あまり本質的とは言えません。

まとめ

本書は自由の本質論です。ホッブズ、ルソーの社会契約説と並んで、近代哲学史上最高の仕上がりになっていると言っても過言ではありません。

ただ、国家論は緒論~市民社会論までの議論と比べて、急に独断的になっている感は否めません。ヘーゲルはあたかも国家は立憲君主制でなければならないという体で書いていますが、民主制や共和制でもいいはずです。国家を自由の展開プロセス(世界史)の頂点に置いているのも、別に必然的ではありません。

それでも…

国家の独立が第一の自由というのは、確かにその通りです。いまでこそ国連の安全保障理事会のような機関が侵略戦争にある程度の歯止めを掛けていますが、当時は、それまで国際均衡を維持していたウェストファリア体制がナポレオンによって崩壊させられて間もない時代であり、まさに弱肉強食の世界だったことを考える必要があります。

第二次世界大戦後の視点からヘーゲルの議論を国家主義的と批判するのは、悪しき事後的な批判の典型です。

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