『経済学とは何だろうか』(青木泰樹著)に、経済学が展開してきたプロセスについての分かりやすい解説がありました。ここではその解説を参考に、経済学の歴史を確認してみたいと思います。
古典派~新古典派
- 古典派(アダム・スミス)
- 市場メカニズムの発見
- 道徳感情とのセットで
- しかし新古典派以来、この観点は取り去られた
- 近代経済学、マルクス主義
- J・S・ミル以降
- 限界革命
- 客観的価値説を転換=限界効用(効用の最終一単位)が価格を上回っている間、主観的価値は増大する
- 限界効用説の最大の意義は、経済学に数学の手法を導入したこと
- レオン・ワルラスの一般均衡論
- 静態理論の始まり
- 物々交換の延長(→貨幣の中立性)
- 新古典派経済学(ネオクラシカル・エコノミクス)
- レオン・ワルラスの方法に基づく
- 「同質的な方法論的個人主義」
- 合理的経済人、利己心、情報の完全性を前提。論理的厳密性の追求
- パレート最適=資源の最適配分が完了している状態 → 所得の再分配というピグーの問題は消えた
- 新古典派の三本柱=市場メカニズム(スミス)、一般均衡(ワルラス)、パレート最適
- レオン・ワルラスの方法に基づく
世界恐慌が発生!
- 新古典派「非自発的失業は存在しない」=賃金が高いので自発的に失業しているにすぎない(手元にお金があるので一斉にバカンスに出かけた)というように説明
- むろん誰も納得しない、というか、そもそも納得させるための論理ではない
- そのことに大衆はおろか、経済学者さえも気づかなかった
ケインズ革命
- 国家による民間経済への介入
- 現実的要素を導入し、新古典派から決別した
- 市場メカニズムでは資本主義経済の不安定性に対処できないと考えた
マネタリズム
オイルショックによるスタグフレーション!
- ケインズ政策は短期の需要管理なので、スタグフレーション(不況とインフレが同時に進行)に対処できない
- スタグフレーションは供給サイドの問題なので、技術革新で生産費用を下げるなどしか対処法がない
そこで、マネタリズム(ミルトン・フリードマン)がケインズを批判。
- 新貨幣数量説=貨幣量と一般物価水準は比例関係にある
- 貨幣数量説に、金融資産の選択肢に資産として貨幣を保有することの可能性を加えたもの
- これを踏まえたケインズ批判=自然失業率仮説
- 政府が貨幣を供給
- 一般物価水準が上昇
- 財貨に対する需要が強まったと早とちりする(情報ラグのせいで)
- 価格の上がった財貨をどんどん生産する
- 失業率が自然失業率よりも下がる
- だが早とちりに気づく(財貨の実質的価格が上がったわけではなく、一般物価水準に比例した値上がりにすぎないことに気づく)
- 減産する
- 失業率が上昇するが、貨幣量はそのままなので、物価水準は高止まりしたまま。つまりスタグフレーション
- なので、スタグフレーションは「情報ラグ」が無くなったときに解消する
- 失業率は情報ラグにともなう「自然」なものなので、それを強引に解決しようとするケインズ政策は無駄であり、誤っている、と批判したい
- では情報ラグはいつ無くなる?「いつか!」
- その「いつか」が来る前にみな死んでしまう、とケインズが反批判
結論の反証主義
- マネタリズムの「仮定の無関係テーゼ」(=出たとこ勝負)=仮定は、文字通り何でもいいという立場に立つ
- 政府の貨幣供給が実質的価格を上げずに、一般物価水準だけを上げることはどうやって説明できるか(=早とちりによるインフレをどう理屈づけられるか)という発想
- 上の3番目、6番目の箇所について
- そこでたとえ話をもってくる=ヘリコプターマネー
- 政府は民間経済にヘリコプターで貨幣をばらまき、民間の経済主体は、各々が有する貨幣保有量に応じて、他者と同じ比率で貨幣を拾うという話
- 実際は、貨幣は政府から民間金融機関を経て民間経済に向かうが、そういう議論をすっ飛ばして、ダイレクトに均等の割合で配分されるとする荒唐無稽な議論
- 「強引?いいの!仮定の無関係テーゼだから!」
- 政府の貨幣供給が実質的価格を上げずに、一般物価水準だけを上げることはどうやって説明できるか(=早とちりによるインフレをどう理屈づけられるか)という発想
ヘリコプターマネーのたとえは、決して些末なものではなく、マネタリズムの論理に本質的なもの。
マクロ合理的期待論
- フリードマンの立場をもっと押し進めたのが、マクロ合理的期待論。
- マクロラショナリストの代表=ロバート・ルーカス
- 「合理的期待仮説」という理論モデルを使って分析
- マネタリズムでは「いつか」均衡状態がやってくると考えるが、マクロラショナリストはすぐにやってくると考える
- 理論モデル=実物的景気循環(RBC)モデル
- 合理的期待仮説+新古典派の理論モデル
ルーカス批判以降
ルーカス批判(ルーカスによる批判)=ケインズのマクロ経済学に対する批判
現代経済学において重要な批判!
批判の要点1.ケインズ型マクロ経済モデルに対する批判
- 「構造モデル」の構造パラメーターの一定性を批判
- 技術革新、景気動向による消費性向の予測変化を反映できない
- 構造パラメーターは現時点の状態を反映しているにすぎないので、将来起きるべきプロセスを表現することは出来ない、という批判
- 技術革新、景気動向による消費性向の予測変化を反映できない
- ルーカス批判を踏まえたモデルが、RBCモデル
- 新古典派のモデルを確率モデルに拡張
- 確率過程に従う技術進歩によって規定される資本蓄積のプロセスについての予想に応じて、構造パラメーターが変化する(=確率過程が変化の大本にある)
- これを「ディープパラメーター」と呼ぶ
- しかし、ディープパラメーターは、統計データに基づいて調整されるものとして規定されている
- 統計データは、異質的な諸主体の活動の結果
- 代表的主体(主体の同一性)を前提するモデルのなかに、異質的な諸主体の存在が唐突に導入されている
- そもそも理解するのが難しい(高等数学を利用)ので、批判しにくい
- 新古典派のモデルを確率モデルに拡張
- RBCモデルから、DSGEモデル(動学的確率的一般均衡モデル)が出てきた
- DSGEモデル=ワルラスの一般均衡モデルの登場人物を一人にしたものであり、本質的には同一
RBCモデルとDSGEモデルの2つに基づく学派が、ニュークラシカルズ(新しい古典派)。
- 新古典派経済学 Neoclassical economics
- 新しい古典派 New Classicals
ただしDSGEモデルは経済予測ができない。というのも、ディープパラメーターが変わったかどうかは、統計データで事後的にしか判明しないから。現実とすりあわせているだけとも言える。
批判の要点2.マクロ経済学と整合的なミクロ的基礎付けの必要性
マクロ的経済状況と整合的なミクロ的主体を想定すること。
- ニュークラシカルズ
- 「代表的主体」=経済内に一人しかいない、という非現実的な想定を置く
- そのことの非現実性を、この概念を用いる経済学者は隠しがちだが、ニュークラシカルズにおける本質的な規定
- (例)5%の失業率
- × 100人中5人が非自発的失業にある
- ○ 完全雇用状態にあるが、希望する時間よりも5%働けていない
- ルーカスいわく、非自発的失業は存在しない(失業者はあるべき水準以上の賃金を求めて自発的に失業しているにすぎない)=失業はどれも摩擦的失業と考えるべき
- だが、現実には非自発的失業者が存在する
- そこで、非自発的失業の概念を取り去った → 「失業問題は存在しない」という結論に!
- 非自発的失業の存在を認めてしまうと経済学のメインストリームから外れてしまう、というような時代があった…
- ニューケインジアン
- 代表的主体を前提しており、「異質的な方法論的個人主義」を取るケインズとは正反対
- むしろニュークラシカルズと等しい
- 情報の不完全性・非対称性を前提
- 市場メカニズムの調整を妨げている要因を、ミクロ的に説明しようとする
- メニューコスト(情報コスト)
- 情報ラグ
- 市場メカニズムの調整を妨げている要因を、ミクロ的に説明しようとする
- 効率賃金仮説 → 賃金の下方硬直性
- ケインズの非自発的失業の定義を変えてしまう
- 賃金の高止まりが非自発的失業の原因=賃金が下がらないので働けない(?)
- ニューケインジアンは、非自発的失業が生じたそもそもの原因である有効需要不足を無視している
- 基本的には自由放任=賃金は企業の最適化行動によって決められるので、政府は口を出すべきではない、と
- 代表的主体を前提しており、「異質的な方法論的個人主義」を取るケインズとは正反対
供給側の経済学
- 米国においては1970年代後半以降、日本においても1990年代以降、供給側の経済学が主流派経済学となった
- 供給側の経済学=セイの法則に立脚する学説
- マネタリズム、ニュークラシカルズ、ニューケインジアンなど
- ルーカス批判に答えることができず、多数の経済学者は、ケインズ経済学を捨ててしまった
- 供給側の経済学=セイの法則に立脚する学説
供給側の経済学に基づく経済政策は、経済論理の濫用である。なぜか?合理的な経済人、代表的主体を前提する「同質的な方法論的個人主義」の立場に立つから。
供給側の経済学が誤っているわけではない。非現実的な根本仮説に基づく推論の体系を使って現実経済を分析しようとすることが誤っている。
- 供給側の経済学=完全雇用状態、資源の完全利用(パレート最適)を前提
- 「経済問題は経済構造によって引き起こされている」と考える
- そこから2000年代の構造改革論が出てきた
- 構造改革=内需の大幅削減と、企業の労働コストの削減
- 供給側の経済学では完全雇用状態が前提され、労働分配率は低下せず、利害対立は存在しない
- だが現実には非自発的失業者がいる
- それゆえ賃金率は上昇せず、むしろ賃金に下方圧力が加わる
- この事実を隠蔽するにあたって、供給側の経済学は好都合
リーマンショックにおいて供給側の経済学は、なんら有効な打開策を出すことができなかった(むしろ純粋論理に固執することで悪影響を与えてきた)。だがリーマンショック以降、供給側の経済学が一辺倒だった状況からは脱しつつある。
ケインズ後の理論を構築する必要あり。そのためには、新古典派のミクロ的基礎付けの試みを放棄して、異質的な方法論的個人主義に立つ必要がある。
需要サイドに着目したケインズの短期分析は、長期の供給理論と結びつけることで、現実分析のための道具になりうる。
そこで、ケインズ経済学に歴史性を導入。シュンペーター理論が最適な選択肢。
シュンペーター理論
- 景気循環の観点を導入
- 「投資マインド」(貨幣を産業的流通へと向かわせる条件)という観点が開かれる
- この点からすると、インフレターゲット論は、貨幣の金融的流通(金融経済へと向かうこと)と産業的流通(実体経済へと向かうこと)を区別しておらず、無効
- 投資マインドが低ければ、どれだけ貨幣を増やそうとも、金融経済に流れるだけで、インフレは起こらない
- この点からすると、インフレターゲット論は、貨幣の金融的流通(金融経済へと向かうこと)と産業的流通(実体経済へと向かうこと)を区別しておらず、無効
- 「投資マインド」(貨幣を産業的流通へと向かわせる条件)という観点が開かれる
- 景気変動と社会変動の相関性
- 革新(イノベーション)の遂行 → 豊かな資本主義経済 → みんなが豊かになる
- 不満は民主主義が機能している限り解決できる 社会主義革命は起こらない
- 大企業の登場 → 革新は個人ではなく社会全体の目標となり「企業者機能」によって担われる → どんどん物的豊かさをもたらす
- 経済の成熟 → 教育の水準が高まる → 社会性の獲得 → 他者の幸福に配慮する人間が現れてくる(公共心が高まる)
- 資本主義は、その成功によって、人びとをして公共的精神をもたせしめる
- 社会主義(≒ 福祉国家、社会民主主義)へ
民主主義は相互承認の感度を必要とする。資本主義経済の発展は一つの条件ではあるが、必ずしもそれが公平性を望む意志に結びつくわけではない。
まとめ
以上を踏まえて、学説の流れをまとめてみます。
- 古典派(スミス)
- 限界革命
- ワルラスの一般均衡論
- 新古典派経済学
- ケインズ革命
- マネタリズム
- マクロ合理的期待論
- ルーカス批判
- ニュークラシカルズ(新しい古典派)
- ニューケインジアン
個人的には、マネタリズム以降の供給側の経済学では、経済学の問題が数学の問題として論じられていること、また、供給側の経済学は現実経済を論じる原理をもっていないことが興味深く思えました。それと、経済学では哲学以上に、アカデミズムにおける勢力争いが強烈だということも…。哲学には正統派とか異端派というような対立はありません。というよりも、そうした対立を容認する学問のあり方は、果たして正当化しうるものでしょうか?
なお、著者によると、日本の経済政策に現代経済学の業績はほとんど反映されていないようです(新古典派、ケインズ主義、マネタリズムがいまだ生き残っている)。その背景には、供給側の経済学、市場原理主義を必要とする社会的勢力の存在があるとしていますが、真偽は不明です。