ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』を超コンパクトに要約する

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』をできるだけコンパクトにまとめてみました。

メラニークラインが直観したように、人間は本来さまざまな対象へと欲望を向けている。人間の欲望は「多形倒錯」しており、欲望はそれ自体が生産的な“流れ”である。にもかかわらず、フロイトのエディプス・コンプレックス仮説は、そうした欲望を家庭内の三角関係へとすべて落とし込んでしまう。フロイトは本来散乱している人間の欲望を家庭主義的な枠にはめ込もうとするのだ。

エディプス=コンプレックス仮説は、私たちの本来的な欲望を別の欲望に置き換える。そうすることでフロイト的精神分析は、支配階級による抑制に荷担することになる。支配階級は国家に資本主義を取り込み、欲望の生産性を調整しようとするのだ。

これに対抗するものこそ、分裂症(統合失調症)である。分裂症患者は「欲望する機械」であり、エディプス化されなかった人間だ。彼らは社会的な規律(コード)から逃れており、欲望の流れはつねに自由な状態にある。分裂症患者はいわば境界線を乗り越えていった人たちなのだ。彼らはそうして“逃走”する。逃走というと聞こえがよくないかもしれないが、実のところは創造的なものなのだ。

自我を破壊せよ!欲望の流れを自由に流れさせよ!一人ひとりはそうした流れの集合体であり、自我というものはエディプス化によって作られたものでしかない。資本主義は私たちの対抗運動に反発することだろう。しかし分裂症が示しているように、資本主義は内側から欲望の流れを解放するものへと自壊していくのだ。

欲望する「モジュール」のネットワーク

人間は欲望する機械と言われると、何だかメタリックなロボット?を想像するかもしれません。

そこで、もっと分かりやすく言い換えると、人間は欲望をエネルギー源とする「モジュール」の集積体である、ということだと思います(思います、としか言いようがありません)。マグマのような欲望が無秩序に流れ、ネットワークを作り、再構成を通じて絶えずその形を変えている、と。

無秩序、同定不可能性(非同一性)、カオス、ズレ。これらのキーワードを頭の片隅に置きながら読むと、それなりに言いたいことが分かると思います。

現代社会とラクに結びつけてドヤ顔ができる

彼らの世界観は、現代のグローバリゼーションの進み行きをイメージしながら読むと、なんとなく分かりやすくなるかもしれません。

「国家」や「領土」を超えて、非体系的かつ無秩序に、データが流れ、欲望が流れ、「資本」が流れる。BitTorrentやBitcoinのようなインターネット技術などが発展し、ノマドワークのようなライフスタイルが次第に浸透している。「ドゥルーズが予言していたように…」と言いたくなる人がいるのも無理はありません。ただしそれが、難しいものをせっかく読んだのだから、それがどこまで妥当かはさておき、読んだという事実をともかく自慢したいという欲望の現れであることは少なくありません。

ドゥルーズ=ガタリがデタラメを並び立てているわけではありませんが、本書を読むにあたって、「現代思想」という固定化した権威と、無数に散らばる単語に翻弄・幻惑されないよう、気持ちをしっかりともつことは、とても重要です。ましてやフロイトを読まずして、本書だけで「そうかフロイトはどうしようもない神経症者なんだな」と判断するのは、あまりにもフロイトに対してアンフェアです。

当たり前のことですが、現代思想の内実をきちんと理解するには、「現代」以前の哲学をすでに通覧していることが第一の前提条件です。ただ、この当たり前を成さないままに、現代のもつ威勢に乗っかりながら、恥知らずに議論を行っているひとが決して少なくないことは、ここで言及しておいてよいでしょう。少し長く生きたひとであれば、現代のもつ現代性が、わずか四半世紀もすれば全く過去の遺物となることは、誰でも知っていることです。いまさら誰も「ゼロ年代」というワードを使っていないですよね。そういうことです。