『仏教の思想6 無限の世界観〈華厳〉』で華厳宗を解説

東大寺
東大寺

『仏教の思想』シリーズ第6巻、華厳編を参考に、唐の時代の中国で誕生した大乗仏教の一派、華厳宗の全体像について見ていきます。

華厳宗の概要

華厳宗は『華厳経』を所依とする大乗仏教の一派。唐の時代の中国にて成立した。開祖は杜順(とじゅん)とされ、第2祖の智儼(ちごん)を経て、第3祖法蔵(ほうぞう)により大成された。天台智顗を開祖とする天台宗と並んでよく知られている。

『華厳経』には、鳩摩羅什と対立していた仏陀跋陀羅(ブッダバドラ。意訳して「覚賢」とも呼ばれる)による漢訳と、唐の実叉難陀(シクシャーナンダ)による漢訳がある。前者は旧訳・晋訳、後者は新訳・唐訳と呼ばれている。

日本伝来

聖武天皇
聖武天皇

華厳宗は奈良時代、道璿により日本に伝えられ、新羅からやってきた僧の審祥が日本で初めて『華厳経』を講義したとされている。講義は奈良に東大寺を建てた聖武天皇(701~756)の招きにより行われた。この講義を聞いた聖武天皇は感激し、大仏を造営するように命じたと言われている。東大寺は華厳宗の総本山。

華厳宗は、奈良時代に栄えた南都六宗のうちの1つ。他の5つは、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗。南都六宗は奈良仏教とも言われる。

華厳宗は日本ではほとんど広まらなかった。その理由は、体制と結びついてスコラ化し、修行の実践可能性を普遍的なものへと深めることができなかった点にある。苦しみからの救済、輪廻からの解脱を求めるのは、出家した僧侶に限らない。武士階級から一般民衆まで、人びとの救済欲望に応えておらず、有力者による保護によって存立しているような宗派は、いずれ終焉に至らざるをえない。華厳宗は唐の則天武后により保護されたが、国家体制の崩壊とともに滅亡した。

奈良仏教についても同様のことが言える。国家体制が崩壊したわけではないが、桓武天皇(737~806)による平安京への遷都で政権との関係が断ち切られたことにより、奈良仏教はメインストリームから陥落した。

華厳宗は天台宗を受けて発展した(天台智顗は6世紀の人で、華厳宗を集大成した法蔵は7~8世紀の人)が、日本には逆の順番で伝来した。天台宗は平安時代に活躍した最澄(767~822)によって伝えられた。彼は804年7月に入唐し、智顗の弟子筋にあたる道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学んだ。

最澄と同時期に活躍した僧に空海(774~835)がいる。最澄の天台宗と空海の真言宗は、ともに桓武天皇により保護され、平安仏教として興隆した。

仏教の中国伝来と中国仏教の誕生

さかのぼって仏教の中国伝来について。

インドで発展した仏教は、4世紀から5世紀にかけて活躍した鳩摩羅什らによる大乗経典の翻訳によって、中国に流入した。その際の根本問題は、現世肯定に基づく中国の儒教的伝統をどう受け止めるかという点にあった。現世の絶対的肯定を前提としたうえで、いかに輪廻からの解脱を根拠づけることができるか。これは華厳宗だけでなく、天台宗にも共通する問題意識だった。

439年の北魏による華北統一から、589年の隋による中国統一までの南北朝時代、中国では仏教が保護され、広く信仰されていたが、それはまだインド的なものだった。

中国仏教の誕生にあたっては、北周(557~581)の武帝による廃仏(三武一宗の廃仏)がきっかけとなった。廃仏は「至道」という概念に基づいて行われた。これは現実が真理実現の場所なので、出家する必要はないとする主張。これに基づき、現実のうちに真理を認めようとする「即事而真」(そくじにしん)の思想が成熟してきた。

武帝による廃仏を経て、現実肯定に基づく中国仏教が誕生した

教判:五教十宗

諸経典を価値づけて並べる教相判釈(教判)に基づき、五教十宗による華厳宗が成立した。

天台智顗は、小乗の声聞乗・縁覚乗と、大乗の菩薩乗という「三乗」は仮の教えであり、これに対して一乗を説いた。だが、華厳の法蔵いわく、それは不十分。なぜなら真に絶対の一乗は、三乗を包括していなければならないから。

法蔵は華厳こそが真に絶対の一乗を説いているとして、華厳を「別教一乗」と呼んだ。現実肯定に基づく絶対的な包括を主張するのが華厳宗の特徴。

五教十宗は次のような契機からなっている。

  1. 小乗教
    • アビダルマ論書
  2. 大乗始教
    • ナーガールジュナの空観、『般若経』
    • インドで成立した唯識派などの瑜伽系仏典
  3. 大乗終教
    • 如来蔵仏教(『勝鬘経』『如来蔵経』『大乗起信論』)
  4. 頓教(『維摩経』)
  5. 円教(『華厳経』)
    • 重々無尽、一多融即、現実の絶対肯定
    • 個物の関係性を説いた点で、天台智顗とは違う

法蔵は、マナ識(自我・自己意識、我執の根拠)とアーラヤ識(煩悩の根源)との相関性から心の事実的な側面を説く唯識派と、自性清浄心という理想状態によって心の本来的な側面を説く如来蔵仏教の2つに基づいて、法界縁起を説いた。現実と理想の相関性、それらの相互作用のダイナミズムに着目したのが独創的。

融通無礙

華厳宗では、法界縁起は無尽縁起であり、融通無礙(ゆうずうむげ)とされる。

融通無礙は、唯識論を説明するために法蔵が作った説明体系の「十重唯識」のなかで現れてくる概念。法蔵は唯識を以下の10種に区別した。

  1. 相見倶存唯識
  2. 摂相帰見唯識
  3. 摂数帰王唯識
  4. 以末帰本唯識
  5. 摂相帰性唯識
  6. 転真成事唯識
  7. 理事倶融唯識
  8. 融事相入唯識
  9. 全事相即唯識
  10. 帝網無礙唯識

名称だけ見ると複雑だが、1から3では意識のあり方、4から7では意識の理想のあり方(=理体)が説かれた後、突如、8から10で意識そのものが否定され、一切の個物は融通無礙しているのだと説かれている。7と8の間に飛躍、唐突さがあることは否めない。

この飛躍がどのような根拠で現れてきたかを理解するには、華厳の根本的な世界観である四種法界を見ておく必要がある。

華厳の根本的世界観=四種法界

四種法界は、第四祖の澄観によって立てられた世界観の根本仮説。次の4つの契機からなっている。

  1. 事法界(あるがままの世界 by 凡夫)
    • 現実に存在している一切のもの
    • だが凡夫は我執を捨てられないので、この世界を認めることができない
  2. 理法界(観念的世界)
    • 我執を打破するために要請される理想(理念)としての世界
    • 事法界を可能としている根拠
  3. 理事無礙法界
    • 理法界と事法界は、実は相互に円融しているとする見方
  4. 事々無礙法界(あるがままの世界 by 仏)
    • 外見上は事法界と同じだが、仏の智恵から見られている点で違う
    • 仏の慈悲という絶対愛により可能となっている

凡夫の観点からすれば個物は各々存在しているだけ。しかし仏の智恵から見れば、それらは自分の分限を守りつつ、円融無礙に縁起している。ただしこの体系は、悟った立場を前提として示されており、凡夫が事々無礙法界を理解できることは想定されていない。あくまでも仮説(だが、この仮説性が積極的に意識されているわけではない)。

事々無礙法界の概念に現世の絶対肯定が表れている

融通無礙の根拠=縁起相由

融通無礙、事々無礙の根拠は、縁起相由にある。

縁起相由を説明するために、法蔵は相即相入という概念を使う。そのポイントは、一切は相関依存性のもとで円融している事象であるという点にある。事象それ自体(=「体」)の円融を説くのが相即、相関性を「作用」の観点から説くのが相入。

「体」には同体異体の2つが言われる。異体は個物相互の異質性を指している。こちらは分かりやすい。問題は同体のほう。これは個物が全体と調和していることを「同」と呼んでいると考えると分かりやすい。すなわち、同体は個物の独立性と全体との調和に着目した見方であり、異体とは個物相互の依存関係に着目した見方。

  • 相即:静態的(=事象として)に見た円融
  • 相入:動態的に(=作用として)見た円融
  • 異体:相互の異質性
  • 同体:全体との調和

イメージとしては、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。各人はそれぞれ異なる存在(=異体)でありながら、自分の分限をわきまえつつ、全体と調和して(=同体)存在しているということ。

ただ、ここで注意しておきたいが、後者の同体については、これを人間に適用すると、きわめて抑圧的に働くことがある。融通無礙、事々無礙を絶対的な真理として掲げ、「調和している」を「調和せよ!」にすり替えたうえで、全体性に対する違和・不和を否定するのは、近代社会に対する反動形成。そのことが分からないひとは、そもそも思想に向いていない。

ともあれ、縁起相由は次の計10義からなるとされる。

  • 1. 諸縁各異(事物はそれぞれ違う)=唯一
    • 異体としてのあり方
  • 2. 互遍相資(事物は全体のうちの一である)=多の中の一
    • 同体としてのあり方
  • 3. 倶存無礙(両方でこそ縁起は成立する)
    • 唯一性(異体)と、全体のうちの一(同体)という2つの見方でこそ真の縁起が成立する

この3つが全体的な構造。諸縁各異についての相即即入としては、

  • 4. 異体相即(事物はそのものとして相互に円融する事象である)
  • 5. 異体相入(事物はそのものとして相互に円融している)
  • 6. 体用双融(この両方によって縁起は成立する)

が異体の観点から述べられ、互遍相資についての相即即入としては、

  • 7. 同体相入(多が一に含まれている)
  • 8. 同体相即(多はすなわち一である)
  • 9. 倶融無礙(この両方が円融している)

が同体の観点から述べられている。

複雑そうに見えるが、相即・即入・異体・同体の組み合わせによって構成されているので、形式的。つまり以下のようになる。

  • 異体相即=異体×相即=異質性×事象
  • 異体相入=異体×相入=異質性×作用
  • 同体相入=同体×相入=全体的調和×作用
  • 同体相即=同体×相即=全体的調和×事象

最後の第十義は同異円備。これは以上の9つを統括して縁起を成立させるものであり、その内実は「十玄縁起無礙法門」にあるとされる。

十玄縁起無礙法門

十玄縁起無礙法門とは、一切の現象は円融無礙の関係にあるという真理(=玄)を10個の観点から説くもの。古十玄と新十玄の2つがある。以下は新十玄。

  1. 同時具足相応門
    • 一切が円融無礙であることを説く
  2. 広狭自在無礙門
    • 法界には純も雑もある
  3. 一多相容不同門
    • 相入(作用としての融通)から無尽縁起を説く
    • 無尽縁起の原理は縁起の理法であり、絶対者としての神ではない、とされる
  4. 諸法相即自在門
    • 異体、同体における相即から円融無礙を説く
  5. 隠密顕了倶成門
    • 仏の立場から見られた諸法(以下同様)
    • 金獅子の例
  6. 微細相容安立門
    • 芥子、毛穴の例(微細な一が多を含み、かつ分斉をわきまえていること)
  7. 因陀羅網法界門
    • インドラ網の例(重々無尽)
  8. 託事顕法生解門
    • 獅子の例
    • 「託事顕法」は現象のうちの事法に基づいて法門を説こうとしたもの
  9. 十世隔法異成門
    • 過去、現在、未来にわたって世界は円融無礙している
    • 10=3x3+1
      • 過去、現在、未来を掛け合わて9世
      • 9つを総合する1世
  10. 主伴円明具徳門

8番までが世界論。9番目は時間の観点から見た世界の無礙のあり方について。10番目の「主伴円明具徳門」については、ほとんど概念的な規定は見て取れない。

5の「隠密顕了倶成門」以降、円融無礙は仏の立場からしか捉えられないとされる。そのため、法蔵は概念ではなく、イメージや比喩(獅子、芥子、インドラ神の網など)を用いて円融無礙を示そうとしている。もっともこれは華厳に限ったことではなく、真理を人間の理性を超え出ている絶対的なものとして示そうとする試みは必然的にそうした方法を取らざるをえない。これは原理的な構造。

この十玄は、ただ海印三昧(かいいんざんまい)という悟りの境地によってこそ理解できる。というよりもむしろ、華厳思想そのものが海印三昧に基づいている。体験と思想の不二相即(=文義一致)が華厳の特質。

六相円融

法界縁起を示そうとする他の教義に、六相円融がある。これは、総と別(=統一と差別)、同と異、成と壊(=唯一性と多様性)がそれぞれ円融無礙しているというもの。六相円融の背景には実践的な要求がある。禅宗に取り入れられたのはそのため。

性起

以上は華厳の思想体系。しかしそれと並んで重要なのは、それがもつ宗教的な価値。それは性起(しょうき)の概念によって表される。

性起とは、自性清浄心があるべき理想として各人に備わっており、それが“現起“することを意味している。ただしこれは仏性が立ち現れてくるということではない。修行によって煩悩を無くすのではなく、私たちは本来成仏しているのだということを指している。

性起唯浄(性善説)

人間の本来的なあり方、すなわち仏性は清浄である。現象世界は絶対的な善であり、煩悩や悪は仮の姿。現世は仏の生命の現れなので、煩悩や悪は、仏の世界からすれば存在しない。

初め、天台宗では、善は悪に即して初めて存在するという善悪相即論(性悪説)が説かれ、華厳宗では、罪や悪はそもそも仏のうちにあるとする性善説が説かれた。だが、法蔵の後に現れてきた第四祖の澄観は、天台の影響を受けて性悪説を主張するようになり、天台宗のほうでも、宋の時代の山外派が華厳的な立場から天台思想を解釈するようになった。

華厳はどちらかというと理想主義的(如来蔵、自性清浄心など)、天台はより現実主義的(悪をも含む現世を肯定するという意味ではニーチェ的)。どちらかが不徹底というよりも、経典の世界観を徹底したのが華厳で、現実の世界観を徹底したのが天台だと見なすと分かりやすい。

衰退と禅の登場

華厳宗は澄観により禅宗との調和が行われ、以後急速に禅宗により取って代わられていく。その背景には、理論体系のスコラ化と、武人階級の台頭がある。

禅宗の始祖達磨
禅宗の始祖達磨

天台と華厳の両宗は、国家体制と結びつき、緻密で壮大な体系を打ち立てた。だが、それらの理論は知識人階級にしか理解できず、一般の民衆には手が届かなかった。彼らの救済欲望に応えることができず、修行の方法も示すことができなかったので、安史の乱(755~763)を機に国家体制が崩壊していくにつれ、新しい宗教が求められるようになった。禅宗が勢力を伸ばした背景にはそうした状況がある。

だが禅宗は、思想による根拠づけを必要とした。禅宗は不立文字、すなわち、悟りは文字では伝えられず、ただ心によってしか伝えられないという立場を取るが、何らかの思想に基づいていないと、日常そのものが悟りであり、座禅しなくてよい(日常生活が「任運自在」の境地なので)ということになってしまう。そこで禅は華厳の無尽縁起、性起観を取り入れ、絶対肯定という境地に至った。

道元(曹洞宗)への影響

日本における曹洞宗の開祖である道元(1200~1253)は、只管打坐(しかんたざ)を唱えた。悟りを求めて座禅してはならず、ただ煩悩が現れるままに放っておき、ひたすらに座禅せよ。この主張の根拠は、人間は本来仏であるという華厳の性起にある。

只管打坐は、現象世界こそが悟りの世界だと主張した天台本覚思想から導かれたとされることがあるが、それは誤り。むしろ天台本覚に対する疑問から、禅による求道を志したと言わねばならない。


解脱の根拠をどこに置くか

東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)
東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)

苦と解脱について、仏教では主に次の2つの態度が取られてきました。

  • 修行で悟りを得る(努力して解脱に達する)
  • そもそもすでに仏である(必要なのはそのことに気づくこと)

修行で悟りに達するといっても、悟りの状態は凡夫が理解できるようなものではない。むしろ人間は、そもそも初めから仏としての本性、すなわち仏性をもっており、本来成仏している(=性起)。真の世界は、各々が自らの異質性を守りつつ、全体と調和している事々無礙法界であり、それはまさしくこの現実世界(=事法界)に等しい。このことは悟りの状態に到達した仏にとっては明らかである。華厳ではそう論じられていました。

ただ、ここには根本的な問題があります。それは「最初から仏であるならば、果たして修行する意味はあるだろうか?」というものです。現実世界があらかじめ救われており、各自が全体として調和している事々無礙であるなら、修行など人間の我執から出てくる余計な試みにすぎない。必要なのはむしろ欲望の解放である。華厳と同じく現世肯定に根ざした天台宗は、天台本覚思想として展開していくなかで、そのような直観を究極まで推し進めました。これは天台の一元論の“頽廃”として批判されることがありますが、人間の本質契機からすれば、むしろ原理的な進み行きだったと言わなければなりません。


世間に対し宥和的で、認識論に無関心な人が華厳などに触れると、しばしば、「事々無礙という世界調和の真理を説いた華厳は何て素晴らしいんだろう、一切は調和しているという真理に気づかないひと(近代、西洋)は真理を見ていない」的な下らない議論に陥ってしまいがちです。

本書で示された世界観を、西洋に対する東洋の優位・独自性を主張するために利用するのはナンセンスです。というよりも、それ以上に、苦の普遍性を洞察した仏教の根本的な動機にも反しています。

思想的な類似、優劣は問題ではない。大事なのは、苦に対していかなる思想が要請されてきたかという実存的な動機のほうです。その点に着目して、仏教の展開を全体的な観点から見ていくと、西洋と東洋の思想の間には、確かに差異はあるものの、それを生み出す動機には同型性があることが見て取れます。仏教の教えを絶対的な“真理”と見なしたり、最初から宗教として却下したりしている間は、そうした点を了解するのは難しいでしょう。

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