ベルクソン『時間と自由』を超コンパクトに要約する

ベルクソンの『時間と自由』(『意識に直接与えられたものについての試論』)をコンパクトにまとめました。

詳細解説はこちらで行いました → ベルクソン『時間と自由』を解読する

書き方の問題

ひとことで言うと、イメージ先行型。

最初に「こうであるはず」「そうに違いない」のイメージがあって、それを目がけて議論を組み立てる書き方になっています。巧みなレトリックに惑わされないように気をつける必要があります。これは本書に限らず、『創造的進化』といった別の著作についても言うことができます。

本書は原理論の前に具体的な事例から入ってるので、イキんで最初から読もうとするとつまずくかもしれません。なのでここでは、注意して読むべき箇所と、飛ばしてもいい箇所についても触れてみたいと思います。

構図

本書の構図は、以下のような感じ。

  • 感覚は質的なもの(量の積み重ねではない)
  • 持続=質的多様性、有機的な連関、純粋な異質性
    • そうに決まってる、そうでないはずがない
  • 運動と時間は質的な持続
    • 力学はこれを量的に扱ってしまっている(数式に落とし込むことで)
  • 内的自我(真の自我)は純粋な持続
    • しかし意識は言語による分節化によって、これを次第に見失っていく
    • そのほうが社会生活に便利なので
  • さあ意識をよく見てみろ、本当は意識は有機的に一体化してるよな?な?
    • 意識は有機的・質的な連関だ!
    • 社会生活に慣れ親しんだ自我(=アナタたち)には分からないかもしれないけど
  • この観点からすれば、自由意志の問題も誤っていることが分かる
    • 持続のなかで生成しつつある感情と合一するとき、私たちは自由
    • でも感覚が言語などに固着するので、印象は反射に近いものになってしまう
    • 自由であるのはごく限られた場合のみ
    • でも自由は明らかな事実。それを言葉にしようとするから自由に関する問題が生まれてくる
  • 自由になりたいか?そのためには自己を取り戻し、純粋持続に身を置き直すことだ

全体的な評価

感覚を質的なものと見なすのはそれなりに言えていますが、時間論、自由論としてはイマイチ。純粋持続に身を置き直すという意味もよく分からないし、純粋持続と合一することが自由というのもあいまい。典型的な「言葉で表現すると変質してしまうので私の前提に文句つけないでください」のパターン。

では見ていきます。

序言

観念は連続的。そこに事物間にあるような不連続性を持ち込むから問題が生じてくる。質と量を混同しないようにすれば、自由に関する問題は自然となくなるはず。

第1章

感情、美や音の感覚、熱や重さの意識などの事例についてはカット。ベルクソンの憶測が目立ちます。現代の神経学のほうがより実証的で正確なはずなので、読んでも得られるものはほとんど無い気がします。大事なのは「精神物理学」の節以下(岩波文庫版では77ページから)。

精神物理学(フェヒナーら)は、最小の感覚単位を仮定し、これが積み重なることで感覚が生じるという図式に立っている。しかしこれは全くの誤り。

その理由は、感覚単位自体が存在しないから。

感覚単位を規定するためには、ある感覚ともうひとつの感覚の間に何らかの間隔を置かなければならないが、そうした間隔はそもそも存在しない。これは意識の与えるものそのものから離れ、規約的な表示に依拠することによって生み出されるにすぎない。

精神物理学は、量や刺激を測るのと同じように質や感覚を測ろうとする。それはムリだ。

  • 精神物理学の構図:【感覚単位】 — (間隔)— 【感覚単位】 — …
    • それぞれの感覚は独立している
  • ベルクソンの構図:【感覚】【感覚】【感覚】…
    • それぞれの感覚は相互に浸透している
    • なのでこう書いたほうがよさそう → 【感覚【】感覚【】感覚】…

相互浸透はひとつのキーワード。スライム同士がくっついて境目が無くなる感じをイメージすると分かりやすいかもしれません。

第2章

書き方が整理されていない(思いついたまま書いている?)ので分かりにくいですが、要するに以下のような感じです。

  • 日常的な数=等質的な空間に位置づけられたもの
  • 本来的な数=意識事実があって、これを記号化する努力の結果生まれるもの

これと同様に、

  • 日常的な時間=等質的な現実であり、持続が抜き取られている
  • 本来的な時間=質的な持続

持続

持続には2種類ある。

  1. 純粋持続=質的な変化の連なり=純粋な異質性
  2. 空間の観念が入り込んでいる持続

純粋持続に関して言うと、

それらのイメージは、あたかも一つのメロディーのさまざまな楽音のように、区別のない多様性あるいは質的多様性とでも呼ぶべきものを、数とは何らの類似性ももたずに形成するような仕方で、相互に浸透し合い、有機的に一体化することになろう。私はこうして純粋持続のイメージを獲得するとともに、等質的な環境ないし測定可能な量という観念から完全に解放されることになろう。意識に注意深く問いかけてみれば、意識は、持続を記号的に表象するのを差し控えるときはいつでも、そのように振る舞っていることが認められるはずである。

純粋持続を記号化することによって、空間の観念が入り込んでいる持続が生まれてくる。これは等質的な持続であり、「真の持続」ではない。

このように解された時間と私たちの心的諸状態の多様性との関係は、強さとそれら諸状態のうちの或る種のものとの関係、つまり真の持続とはまったく異なるサインとか記号ではないだろうか。

こうした意見を最初に確証してくれるのは、反省的意識が時間やさらにまた継起についてもつ感情を記述するイメージは、どうしても空間から借りてこざるをえないという事実である。だから、純粋持続は別のものであるはずなのだ。

「ないだろうか」「はずなのだ」と言われても…。自分の意識を内省する代わりにこうしてどんどん憶測を積み重ねていくのがベルクソンに特徴的な書き方です。あまり誠実とは言えません。

力学にもひとこと言っておきたい

力学は数式を使って持続や運動を表象しようとする。しかしそれは完結した事実しか表現できないので、絶えず生成しつつある持続や運動そのものを表現することはできない。

意識は本来純粋な多様性だが

そのことを常識の言語は見て取れない。なぜなら常識自体が空間のイメージで汚されているからだ。

それらの用語は初めから欠陥に汚されているわけで、数や空間とは関係をもたない多様性の表象は、自分自身に立ち返って精神集中するような思考にとってはいかに明瞭であっても、常識の言語には翻訳されえないであろう。

「心の最も深い部分」では、諸単位を相互に一体化する有機化が続けられているに違いない。うん、そうであるはずだ。

諸単位を空間のなかに並べて、それらを明瞭な自覚をもって数えるとき、その諸項が同質的な基底の上にはっきりと姿を見せてくるような加算と並んで、心の深奥部では、これら諸単位を相互に一体化する有機化が続けられているのではあるまいか。

根底的自我を見失い、社会生活に適合した自我を好む

「言葉で純粋な多様性を表現することはできない」の構図。

表面的な心的生活は、相互に外在的な部分に切断されていく。そうした部分がわれわれの「内的自我」の動的な生活を切断する。これによって、諸感覚、感情、観念は相互に切り離されていく。

しかし、そうした諸感覚を相互に分離しようとすると、「内的自我」が大きく変質してしまう。

にもかかわらず、普段私たちは、等質的空間の中に投影された自我の「影」で満足してしまう。なぜならこうした自我のほうが社会生活によりよく適合するから。意識はこちらを好み、次第に「根底的自我」を見失っていく。

言語には個人的なとらえがたい印象を「覆い隠してしまう」性質があり、感覚の不変性を信じ込ませてしまう。本来の感覚は純粋な異質性なのに。

意識は、区別しようとする飽くなき欲望に悩まされて、現実の代わりに記号を置き換えたり、あるいは記号を通してしか現実を知覚しない。このように屈折させられ、またまさにそのことによって細分化された自我は、一般に社会生活の、特に言語の諸要求にはるかによく適合するので、意識はその方を好み、少しずつ根底的自我を見失っていくのである。

第3章

自由論。

  • 自由行為=内的状態を外的に表現すること
  • 自我がその作者であって、自我全体を表現するから
  • 感情の動的な系列が「根底的自我」と同化するほど、行為は自由なものとなる
  • でも自由行為は難しい
    • 日常の行為を導いているのは、感情が固定化したイメージであって、持続としての感情そのものではないから
    • なので行為は反射に近いものとなってしまう

こうして相互に浸透し合い、強化し合うような諸状態の動的な一系列が形成され、自然な進行によって自由行為へ至るようになるだろう。

要するに、私たちの行為が私たちの人格全体から出てくるとき、行為が全人格を表現するとき、行為が作品と芸術家とのあいだに時おり見られるような定義しがたい類似性を全人格とのあいだにもつとき、私たちは自由である。

三差路のイメージで

MO、OX、OYなどの言い方がイメージしづらければ、Y字型の三叉路をイメージすると何となく分かりやすくなると思います。

こんなイメージ
こんなイメージ

自由意志を論じるひとは、可能な行動XとYの対立があると考えている。しかしそれは誤り。正しくは、対立する2つの方向を、多くの継起的で異なった諸状態のうちで、想像によって見分けているのだ。

常識は、自我が三叉路の分岐点で初めてどちらかを選択すると考えている。しかしそれは誤り。というのも、どちらを選択するかについて決めた自我は、分岐点の時点ですでにその選択肢の方向を向いていたからだ。

片方の選択肢に決めた自我がもう片方の選択肢を選択することは出来なかったのか、という問いを立てること自体、時間を空間化することのうえに成り立っている。しかし、どちらを選択するかは分岐点に達するまでに生成的、創造的に決まるものなのだ。

自由は論じるまでもない事実

流れつつある時間は十全に表現できないが、自由行為は流れる時間のなかで行われる。それゆえ自由は(表現できないが)ひとつの明瞭な事実。自由に関する問題は、自由を言語で表現しようとし、記号化することから生まれてくるにすぎない。

結論

自由の問題は誤解から生まれてくる。

ツッコミどころ

以下、ベルクソンの議論に関する論点です。ここでは2つ置いてみます。

  • 本来的な意識が純粋な持続かどうかは知りえない。独断的。
  • 万人がベルクソンのいう自由行為を出来たとすれば、必ず対立が生じてくる(内的自我の表現同士の対立)。この対立を解決するための原理がない。

認識論的にはニーチェとフッサール、社会論的にはヘーゲルの議論が有効な批判として働きます。