[Q&A]歴史上最も真理に近づいた哲学者は誰ですか?

歴史上最も真理に近づいた哲学者は誰ですか?

哲学では、次第に問題が、真理の探究から「共通了解」の可能性の探究へと移っていきました。歴史的に見ると、真理の探究はかなり古い構図の議論です。

「歴史上最も真理に近づいた哲学者は誰ですか?」という質問をいただきましたので、これに答えてみたいと思います。

「真理なるものは存在しない」が共通の見解に

意外かもしれませんが、哲学の歴史は真理に近づくというよりも、むしろ真理なるものは存在しないことを示すほうに進んできました。

世界の起源や人生の真の意味などを見いだすことは原理的に不可能だ。なぜならそれはそもそも存在しないからだ。これは現代の(マトモな)哲学に共通する見解です。

ネットではたまに「私こそは真理を知っているので紹介しよう!」的な記事を見かけますが、たいてい思いつきの域を超えていません。せっせと仕入れた知識で最初のインスピレーションを補強しそれらしく仕上げても、結局はメッキです。

メッキには大体共通するパターンがあります。「西洋的二元論は東洋的一元論で克服できる」とか「西洋哲学の自己中心主義は仏教的教説で克服できる」など、現代社会の問題の根本原因を現在の哲学に帰着させ(これ自体かなり無理のある試みですが)、それに対立する見方を無理矢理持ち出してくるという手口です。しかし、思いつきにいくらメッキを上塗りしても、その正しさが証明されるわけではありません。

真理ではなく共通了解を

現代の哲学は「真理は存在しない」という直観に達しました。しかしこの直観だけなら別に目新しくはありません。真理は存在しないと言うだけなら簡単です。ニーチェを読めば誰でも似たようなことは言えます。

認識の尺度はひとそれぞれであり、絶対的な真理は存在しないという見方は、世界中の哲学が一度は直面するものです。古代ギリシアにも相対主義はありました。インド哲学(六派哲学)ではジャイナ教が強烈な相対主義を打ち出しました。

せっかくなので言っておくと、「西洋哲学と異なり東洋哲学は一元論だ」は全くのウソっぱちです。

インド哲学にも、サーンキヤ学派ヴェーダーンタ学派のように、二元論と一元論の対立はありました。原始仏教の時代でも、道徳否定論や相対論、懐疑主義など、さまざまな世界観がありました(仏教の側から六師外道とひとくくりにされ、まさしく外道として扱われましたが)。世界観とは少し違いますが、中国でも孔子や老子、儒家や法家などの諸子百家が、道徳や政治の理想をめぐって様々な議論を繰り広げていました。

このように、世界観の対立は東洋だろうと西洋だろうと関係なく、思想の自由が一定程度認められているところでは生じてくるものです。「東洋哲学には世界観の対立が存在しない」というのは、身内びいきもいいところです。

じゃあ哲学は大して進歩していないのでは?と思うかもしれませんが、そんなことはありません。現代の哲学は真理を求めることを止めて、その代わりに共通了解の可能性を見て取ることへと方向性をシフトさせました。その代表がドイツの哲学者エトムント・フッサールです。

フッサールはヘーゲルと並び、哲学史上、書き方が最もドヘタな哲学者のひとりです。ルソーやホッブズ、デカルトと比べると、何と言うか…愚直さというか、不器用さが文章のいたるところからにじみ出ています。

確かに、それまで誰も表現したことのない事柄を表現することが難しいのは間違いありません。既存の概念や言い方を借りることなく、しかもそれでいて読者に通じる仕方で表現しなければいけないわけですから。でもそれはホッブズやルソーも同じだったわけで、フッサールだけを例外扱いしなければならない義理はありません。

「フッサールは共通了解なんて一言も言ってないけど?」

確かに、フッサール自身は共通了解(gemeinsames Verständnis?)という言い方はしていません。ただ主著の『イデーン』や『現象学の理念』の全体像からすると、フッサールの狙いが、経験的な世界を離れたところに真理を仮定することを禁じ手とし、どんな知覚経験からも普遍的に取り出すことのできる本質を探究することで、どの領域であれば共通了解が成立可能なのかを示すことにあったことは、かなりの程度で確かだと言えるはずです。

フッサールがどう言ったかはともかく、真理から共通了解へのパラダイムシフトは、哲学だけでなく他の分野にも応用することができます。

基礎的な論理学のように広範な共通了解が成立するような領域と、または価値観のように共通了解がほとんど成立しない領域に分かれるのが必然的なこと、それゆえ多様な価値観を容認する自由社会が正当なことが分かります。認識原理はそれだけ応用の利くものです(だからこそ原理といえるわけですが)。