[Q&A]「人間はポリス的動物である」の意味は?

「人間はポリス的動物である」の意味は何ですか?

善を目的因とする人間が、最高善を目的因とするポリスをもつのは自然なことだ、ということ

アリストテレスの「人間はポリス的動物である」の意味について質問をいただきましたので、これに答えてみたいと思います。

「人間は社会的動物である」ではない

まず初めに確認しておきたいのは、「人間はポリス的動物である」は「人間は社会的動物である」ではないということです。

アリストテレスは、人間は本性的に社会のうちで生活する存在であると主張したわけではありませんし、「ポリス=社会」と考えていたわけではありません。むしろ私たちのいう社会とポリスは、本質的に異なるものです。

私たちのいう社会の概念は、近代において、とりわけ近代哲学者の議論のうちにおいて初めて成立しました。トマス・ホッブズがその第一人者です。

ホッブズはリヴァイアサン(=コモンウェルス)を、身体的にも精神的にもきわめて同質的な人間同士から構成される市民社会(市民国家)Civil state, Civitasと定式化しました。

ホッブズにおいて初めて、それまで神によって造られたと考えられていた国家社会が、人びとの関係性から構成されるものだと考えられるようになりました。創造主のようなものを仮定することなく、国家の正当なあり方について論じることができるようになったわけです。こうした歴史的文脈を無視して古代ギリシアのポリスと社会をごっちゃにするのは、かなり雑というか強引です。

『リヴァイアサン』はこちらで解説しました → ホッブズ『リヴァイアサン』を解読する

まずは四原因説を確認

「人間はポリス的動物である」の意味を理解するためには、アリストテレスがポリスをどのようなものと考えていたのかについて確認する必要がありますが、その前提として、まずはアリストテレスの存在論について簡単に見ておくことにします。これが分かっていないと、人間がポリス的動物であるという主張の意味は理解できません。

アリストテレスは、存在するものは必ず素材因、形相因、始動因、目的因という4つの「因」を備えていると考えていました。『自然学』でアリストテレスは次のように説明しています。

  • 素材因とは、事物がそこから生成するところのもの。
    • 銅像においては青銅、銀皿においては銀であり、またそれらを包摂する類としての金属。
  • 形相因とは、事物の形相(本質、概念)または原型のこと。その事物が何であるかを説明するところのもの。
  • 作用因とは、物事を始動または停止させる第一の始まりのこと。事物を作るものは、作られる事物の作用因。
  • 目的因とは、物事がそのためにあるところのもの。
    • 散歩する理由は健康のため。この場合、散歩の目的因は健康になること。

アリストテレスいわく、あらゆる事物はこれら4つの「因」をもち、それらに規定されて存在しています。ここでいう事物はテーブルやイスのようなモノだけではありません。ポリスもまた素材因、形相因、作用因、目的因をもつ。そうアリストテレスは考えました。

ポリスの目的因は「最高善」

アリストテレスは『政治学』でポリスを次のように規定しています。少し長いですが引用してみます。

国家はいずれも、われわれの見るところ、一つの共同体であり、共同体はいずれも何かよきこと(福利)のために出来ている—というのは、すべて人間は何ごとをなすにも、自分がよいと思うことのためにするからである—とすれば、明らかにすべての共同体のめざすところはなんらかの善であり、そのうちにおいてもまたあらゆる善の最高最上のものを目標とするのは、他のすべての共同体を自己のうちに包括する最高最上の共同体がそれであるということになる。そしてそれこそが国家(ポリス)と呼ばれているもの、すなわち国家共同体にほかならないのである。

村落が二つ以上集まって出来る最終の共同体、すなわち共同体として完成したものが国家(ポリス)なのである。それはいってみればあらゆる自足の条件を極限的にみたしているのであって、それの生成理由はわれわれが生存するための必要によるものであったが、いまやそれの存在理由はわれわれの生活をよくすることにあるのである。このゆえに国家はすべて自然の産物なのであって、これはそれに至る最初の公共体(家族や村落)がすでに自然によって生じたものであるとすれば、そういう結論になるはずなのである。というのは、国家はかの共同体の最終目的であり、ものの自然の本性は最終目的となるものにあるからだ。

ものがそのためにあるところのもの、すなわちそれの最終目的となっているものは、究極的な善ということになる。自足性というものは、共同体にとっての一つの目的であり、善として究極的に求められているものなのである(そしてそれは国家において実現されるのである)。

ポイントを順に沿って取り出すと、次のようにまとめることができます。

  • 事物の目的因は「善」(よさ)
  • ポリスは完成した共同体であり、最高最上の共同体
  • 最終の目的因は「最高善」
  • なのでポリスの目的因は最高善
  • 最高善はポリスにおいて実現される

アリストテレスの図式に当てはめると、ポリスは家族、そして村落を素材因としています。

家族は日々の「必要」のためにできた共同体。家族が2つ以上集まると、日々の必要だけに限定されない共同体として村落ができる。そして村落が2つ以上集まり、最終かつ最高の共同体としてポリスができる。ポリスは日々の必要から完全に隔てられた、最高善を目指す共同体である。そうアリストテレスは考えます。

人間も善を目的因とするから

結局のところ、人間がポリス的動物である理由は、人間の目的因も「善」だからです。ポリスは完全な共同体として、最高善を目的因とする。であれば、善を目的因とする人間がポリスをもつのは、本性上まったく自然なことだ。そうアリストテレスは考えるわけです。

かくて以上によって見れば、国家が(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つであることは明らかである。また人間がその自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物であることも明らかである。

とてもシンプルというか、ストレートな考え方ですね。

ポリスの法律が、市民が善を目指せるように配慮する

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、ポリスはそこに住む自由市民がポリス的動物として、徳(=卓越性、アレテー)を発揮して善を目がけることを配慮するものだ、という主張を行っています。善を目がけることが可能となる条件を考察するのが政治学であり、ポリスの法律(立法)がこれを実際に配慮するのだ、と。

ポリスは最高善を目指す共同体である。ではそれが具体的にはどういう仕組みをもつ必要があるのか?どういう制度であれば、市民は最高善を目がけることができるのか?こういう問いに答えるのが政治学である。そうアリストテレスは考えました。

『ニコマコス倫理学』はこちらで解説しました → アリストテレス『ニコマコス倫理学』を解読する