[Q&A]プロテスタンティズムと資本主義の関係は?

プロテスタンティズムと資本主義にはどんな関係がありますか?

いまではほとんど関係ありません。あるとしても、ごく限定的なものです

ヴェーバーは『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』で、プロテスタンティズムの倫理が近代資本主義の成立について精神的側面から影響を及ぼした、と主張していました。

逆に言うと、それ以上のことは主張していません。ヴェーバーは一言も「現代の資本主義の本質にプロテスタンティズムが関係している」とは主張していません。むしろ、「経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だなどというような馬鹿げた教条的テーゼを、決して主張したりしてはならない」とさえ言っています。

『プロ倫』を簡単にまとめると

『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』のポイントをまとめると、おおよそ次のようになります。

  • 近代資本主義の成立には、プロテスタンティズム(カルヴィニズム)のエートス(心的態度)による影響があった
  • そこで重要な意味を持っていたのが「予定説」
    • これは、自分が救われるかどうかは、現世に生まれる前にすでに神によって決められてしまっているという説
    • 信者たちは「自分は本当に救われるのだろうか?」という不安に駆られる
  • 彼らは、救いの確証を得るために、みずからの生活を組織化し、合理的で禁欲的なものとした
    • 自分が享受するために労働するわけではないので、財産は貯まるばかり
  • 加えて、労働は神の意志を現世にて成しとげるための手段として位置づけられていた
  • それゆえ財産が積極的に資本として投下された

ヴェーバーは、あくまで、プロテスタンティズム(カルヴィニズム)のもつ合理的禁欲の性格が、初めの資本形成を可能とした一要因であると主張していたにすぎません。「ヴェーバーは資本主義の本質にプロテスタンティズムの倫理があると考えていた」という読み方は、端的に誤読です。

「商業資本主義」があってこその

ヴェーバーはプロテスタンティズムの倫理が近代資本主義の成立においてあくまで部分的な役割しか果たしていないと主張していました。

では、その他の条件にはどのようなものがあるのでしょうか。

たとえば、ヨーロッパ経済史学者の玉木俊明さんによれば、近代資本主義が成立した前提には、オランダにおける「商業資本主義」の展開がありました(『近代ヨーロッパの誕生』)。

イギリスで近代資本主義が確立するためには、食糧問題と資源問題を解決する必要があった。そこで圧倒的な輸送力をもつオランダの海運業が要請された。かくしてバルト海地域の食糧と資源(船を作るための木材)を輸入・再輸出する「北方ヨーロッパ経済」が発展した。

オランダではなくイギリスで近代資本主義が成立した理由は、オランダが中央集権化しなかったのに対して、イギリスは中央集権化し、国家が積極的に経済発展に介入したことにある。こうした動きはオランダには見られなかった。

とはいえオランダは後進国とはならなかった。それは何故かというと、開かれた商人ネットワークが存在しており、そこで商業に関する情報が行き交っていたからだ。これはハンザ同盟とは対照的だ。

もうひとつの理由は、宗教への寛容さだ。オランダは、建国の元となったユトレヒト同盟を結成する際、宗教を理由とした迫害が行われることがないよう取り決めを行っていたこともあり、他国と比べ宗教的に寛容だった。プロテスタント商人、カトリック商人、ユダヤ商人が集まるアムステルダムは、まさにヨーロッパの商業情報センターとして機能していた。

また、ヨーロッパでは、商品の種類と価格が書かれた「価格表」が、各地の取引所で配られていた。国境を超えて商業情報がオープンに流通し、それを誰でも利用可能な社会はヨーロッパ以外にはなかったはずだ。その意味で、アジアよりもヨーロッパの方が経済発展を促進させる制度がはるかに整備されていたのだ。

起源は検証不可能

資本主義の成立過程を明らかにするためには、総合的な視点が必要です。プロテスタンティズムの倫理の一本槍で論じるのは、かなり雑で乱暴なやり方です。

実際、「プロテスタンティズムの倫理が資本主義の起源にある」とヴェーバーは一言も言っていませんし、もしそういう主張をすれば、それは実証科学のフリをする形而上学に陥ってしまいます。なぜなら、その主張が本当に正しいかを検証することは、原理的に言って不可能だからです。

ヴェーバーと対照的な議論を展開したのが、ヴェーバーと同時代に生きたヴェルナー・ゾンバルトです。ゾンバルトは、宮廷で行われるような奢侈、もしくは戦争が資本主義の成立に重要な役割を果たしたと主張しました。禁欲ではなく贅沢が資本主義の原動力だったのだ、と。

ただここで「じゃあゾンバルトのほうが正しいのか」と考えてしまうと元の木阿弥です。どちらかが正しいのではなく、ともに資本主義の本質的な側面を取り出しているといえるからです。

起源ではなく本質を探究すべし

アメリカの社会学者のロバート・ベラーは、日本の資本主義経済の起源に石田梅岩の経済思想があったと論じました。ただ、仮にその主張が正しいとしても、当たり前ですが、それを知ったからといって日本の資本主義経済が分かったことにはなるわけではなりません。

確かに、石田梅岩の思想は、日本の資本主義経済の起源かもしれませんが、本質ではありません。本質とは、事象の起源ではなく、多様な事象のなかから観て取ることのできる共通構造のことを指しているからです。そして、起源を明かして本質を論じない議論は、私たちにとってほとんど意味をもたないものです。

日本の資本主義経済の本質としては、石田梅岩ではなく年功序列制や終身雇用制といった制度が当てはまります(いまや過去の話かもしれませんが)。こういう共通構造すなわち本質を把握したときに初めて、日本の資本主義経済を理解したということができます。

なるほど確かに石田梅岩と年功序列制を並べられると、一般に聞かない石田梅岩のほうが学的であり、より本質的だと思ってしまうかもしれません。しかしそれは「本質は隠されたものである」という誤解、義務教育段階で習う知識は簡便的、不正確であって本質的ではないという思い込みに基づく錯覚を超えません。

本質が事象の共通構造であることを了解していれば、ベラーの起源論を使って圧倒しようとしてくる「知識重装歩兵」の不毛な議論に引っ張られることは避けられるはずです。起源の確定ではなく、本質の探究こそが問題です。

起源を確定することではなく、本質を探求することが必要