[Q&A]ヘーゲルが難しすぎて意味不明ですがどうすればいいですか?

ヘーゲルが難しすぎて意味不明ですがどうすればいいでしょうか?

まずは「日本語に訳されているんだから当然読めるはず」という先入観を取り外しましょう

Photo Credit: Quinn Dombrowski (CC BY-SA 2.0; modified)

分かりますその気持ち

ヘーゲル難しいですね。よく分かります。スラスラ読めないのはあなただけじゃありません。私もそうですし、おそらく他のひともそうでしょう。難しいからこそ100年以上も研究されてきたわけです。もし誰でも簡単に読めるようなら研究の対象になるはずありません。

そこで、ヘーゲルが難しい理由を少し考えてみました。

  1. ヘーゲルの書き方のせい
  2. 誰も考えたことのないテーマのせい
  3. 一切が概念で構成されているため

ヘーゲルの書き方のせい

難しさの理由の一端(というか大半)はヘーゲルの側にあります。俗に「ヘーゲル語」というものがあります。ヘーゲルはそれまで存在しなかった概念を新たに“開発”して、それまでの世界観に代わる世界像を構築しようとしていました。にもかかわらず、それぞれの概念を日常の概念と接続するような橋渡しを一切用意してくれませんでした。だから現代に生きる私たちがヘーゲルを読むと、馴染みのない概念に山ほど突き当たり、結局ヘーゲルが何を伝えたいのかほとんどつかめないという事態になってしまうのです。

ヘーゲルは一般読者に読んでもらうことを意識して著作を著していたわけではありません。当時大学教育を受けることができたのは、ごく限られたインテリ層だけであって、ヘーゲルとしては彼らを意識して書けばそれで十分でした。あえて分かりやすい表現を使わなくてもよかったわけです。

誰も語ったことをないことを語ることの難しさ

たとえば大学の課題レポートを書くにしても、それまで誰も言っていなかったことを自分の言葉で書く難しさは、多くのひとが実感としてあるのではないでしょうか?ヘーゲルは世界観の構築という気の遠くなるような作業に取り組んでいたわけですから、なおのこと苦労したはずです。

ヘーゲルとしても「一般人に分からないほどに難しくしてやろう」と思っていたわけではないはずです。ジョークや奇抜な表現をどう使えばいいか分からないので、とにかく愚直に書き続ける生真面目な性格だったんじゃないでしょうか(多分)。

数式とにらめっこしても全然分からないのと同じ

具体的な事例を使わず一切を論理の展開として叙述しようとする点で、ヘーゲルの議論は数学と似ています。

数学は哲学以上に概念の体系です。何の前提知識なしにいきなり数学の数式を見ても、まったく意味が分からないですよね。1日中その数式を見ていたとしても、絶対に分かりません。なぜなら数式とは、眺めていれば意味が分かるようなものではないからです。

数式を読み解くためには、それなりの勉強が必要です。ヘーゲルも同じです。日本語に翻訳されると何となく読めそうな気になりますが、それは先入見です。日本語は日本語でも「概念の集合体」です。それを日常的な言葉のつもりで読もうとするから「あーだめだこれ難しすぎて読める気がしない」となってしまうのです。

たとえば『精神現象学』には、「意識」「理性」「精神」などの概念が出てきますが、それらはことごとく普段私たちが使っている意味と異なる意味で使われています。そのことを知らず、いつもと同じ感じでそれらの概念を捉えようとするので、「あれっ、意識ってこういう意味だっけ??」と困惑してしまうわけです。いっそのこと全然違う概念を使ってくれればよかったのにと思いますが、それらを使わなければならないヘーゲルなりの理由があったんでしょう。

で、「ヘーゲルが難しすぎるんですがどうすればいいでしょうか?」

いくつか対応策があると思いますが、まずは「日本語に訳されているんだから読めるはずだ」という先入見を無くしてみましょう。普段見聞きする言葉でも、たいていはヘーゲル流の意味に置き換えられているので、ヘーゲルの言いたいことを理解するためには、彼の語法に合わせてあげる必要があります。寛大になりましょう。

普段は入門書から入ることはおすすめしていませんが、ヘーゲルの場合は、入門書から読み始めるほうが時間と労力の大幅な縮小になるはずです。『精神現象学』に関しては、訳者の金子武蔵さんによる『ヘーゲルの精神現象学』、長谷川宏さんによる「ヘーゲル『精神現象学』入門」、竹田青嗣・西研さんによる「完全解読 ヘーゲル『精神現象学』」などがあります。コジェーヴやイポリットは入門書というよりも研究書なので、いきなり読むようなものではありません。

ただし、自分で『精神現象学』を読んで確かめるまでは、第三者の解釈は、あくまでも確度の高い仮説として、ペンディング扱いにしておくべきです。自分で思考するのを止めて他者の意見に追従するのは、哲学的とはいえません。権威のある学説を持ち回り、自身で確かめもせずに、それが「真理」であるかのように言いふらしているひとをまれに見かけますが、それは、虎の威を借る狐、しかも、いったんその虎が裸の王様であることが明らかとなれば、無言で別の虎へと乗り換えるような姑息な狐にすぎません。