「ホッブズ問題」の考え方

社会学で歴史的に重要視されてきた問題に秩序問題があります。これはアメリカの社会学者タルコット・パーソンズが『社会的行為の構造』でり、トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』で示した自然状態を対象として提起されたものです。いわゆる「ホッブズ問題」として知られています。

秩序問題の概説は、こちらのページが詳しいです → ホッブズ問題(Hobbesian problem)

「ホッブズ問題」は別にホッブズにとっての問題ではない

パーソンズはホッブズが「万人の万人に対する闘争」という自然状態を解決して社会秩序を作るためにリヴァイアサンという制度を考え出した、と考えていたようです。

が、ホッブズを実際に読んでみると、パーソンズはあまりホッブズの意図をきちんと受け取っていないと言わざるをえません。ホッブズは『リヴァイアサン』の冒頭で次のように問題を規定しています。

「どのようにして」またどのような「契約」によって人工人間はつくられるか。「主権者」の「権利」およびその正当な「権力」あるいは「権限」は何か。

権力の正当性の根拠を見て取り、それに基づいて平和な社会を構想すること。これがホッブズにとっての問題でした。

社会に秩序を生み出すことであれば、原理的には何も難しいことはありません。絶対的な軍事力を置いて、秩序に逆らうものを抹殺できる仕組みを作ればいいのです。ちょうどタイのように、利己的に振る舞う派閥勢力を調停し社会に秩序を回復させるとの名目でクーデターを起こせば、秩序は強制的に作り上げることができます。

秩序があろうと平和が脅かされるようでは元も子もありません。いくら安定的な秩序だろうと、それが不当な権力に支えられているのであれば意味がありません。ホッブズにとって秩序は平和な社会のための条件にすぎませんでした。デカルトをパクって言うと、いわば「方法的秩序」なのです。

他にもイケてる直観がある

ホッブズは「万人の万人に対する闘争」だけのひとではありません。『リヴァイアサン』には優れた直観が他にもあります。というか「万人の万人に対する闘争」の概念自体がそうした直観に基づいています。具体的にどんな直観かというと…

  • 人間は神ではなく「自然」によって作られたと考える
  • 人間は自分自身を目的とする自己中心的な存在(自己中心主義とは異なる)
  • 社会は神の創造物ではなく、人間の関係性からなる

いまでこそそれなりに受け入れることができますが、ホッブズがスゴいのは、こうした議論をキリスト教の物語が絶対的な真理として受け入れられていた時代に行ったことにあります。

ホッブズはキリスト教的な前提を置かず、ただ私たち人間の本質構造を見て取ることによって社会のあり方を構想しようと試み、これによって、社会を身体・精神構造が基本的に同質な人間からなる市民社会(市民国家)とみなす考え方に至りました。

率直に言えば、この直観を受け取らなければ『リヴァイアサン』を読んだことにはなりません。とても重要な直観です。これに比べると「万人の万人に対する闘争」はひとつの通過点でしかありません。ましてや、結果として独裁政治を肯定することになったということも、ほとんど問題ではありません。

各人が自分自身を目的とすることができると同時に平和な社会を実現するためにはどうすればいいか?この問題に対して答えることがホッブズにとって、またルソーヘーゲルを中心とする近代哲学にとって決定的に重要な問題でした。歴史的な文脈で捉えると、ホッブズが社会秩序を作るために社会契約に基づくリヴァイアサンを考えたとするのは、かなり一面的な解釈です。

「共通価値の内面化」はヌルイ

「万人の万人に対する闘争」は、パーソンズの言うように人間が利己的だからこそ生じるわけではありません。それはホッブズをバカにしすぎです。実際に『リヴァイアサン』を読めば嫌というほど分かりますが、ホッブズは人間をもっと複雑なものと捉えていました。

ホッブズいわく、「万人の万人に対する闘争」が生まれるためには複数の条件が必要です。対象の稀少性、不信、自負などです。

ホッブズの世界観は、イギリスの哲学者ジョン・ロックと対比させると分かりやすくなります。

簡単に言うと、ロックの世界観は、耕作によって富は無限定的に増加させることができるというものです。他人の富を奪うことには正当性がない。なぜなら自分で耕せば他の人と同様に作物を得ることができるからだ。大地を耕して得た作物(所有)は他の誰かに奪われるかもしれない。これは不安だから人びとは合意によって政府を作るだろう。これが『市民政府論』(『統治二論』)におけるロックの議論の基調をなしています。

一方、ホッブズの世界では富が限定的であり、増える余地はないか、あってもごくわずかしかありません。人びとは大体同じ精神的・身体的構造をしているので、求める対象も似てくる。それらの対象を求めるひとが多ければ多いほど(飲み水のように生命維持に必要なものであればあるほど)、それをめぐって相互不信が生まれてくる。相互不信に加えて自分が相手との争いで勝てるはずだという自負心があれば、「万人の万人に対する闘争」は起こりうる。そうホッブズは言っています。

「万人の万人に対する闘争」は、人間が欲求をもつ存在である以上、稀少性に規定された社会が原理的に行き着かざるをえない状態であり、これを解決するためには各人が権利を政治体に譲渡する以外にはありえない。ホッブズはこうしたギリギリのところで考えていました。パーソンズは共通価値の内面化が社会秩序のために必要だと考えたようですが、ホッブズからすれば、これはあまりにヌルイ。

風紀の乱れを前にしてケシカランと憤るのは別に構いませんが、共通価値を教え込むというスタンス自体、近代社会の基本理念を理解していれば原理的に出てこないようなものです。なぜなら近代社会においては、複数の善が対立するということが必然的であり、それゆえ、他者の人格・自由を侵害しない限りで多様な生き方を相互に認め合うことを原理とするほかにないからです。

「共通価値」は空疎な概念

ヘーゲルは『法の哲学』で次のように論じています。

一般に私たちは、自分の意志を持つようになると、両親や文化が教える正しさとは異なる、自分にとっての正しさを目指そうとする。そこで私たちは初め自分の内面でそのことを確かめようとするが、それは上手く行かない。本当の正しさは自分だけではなく他人も認めるものでなければならないことを知ってしまっているからだ。

そこで次に、自分の正しさを相手に対して証明すべく、万人にとっての幸福(福祉)を目指そうとする。しかし「万人にとっての幸福」という概念が空疎で実質をもたないことを理解する。犯罪者にとっての幸福も許容することはできないからだ。これは言い換えると、幸福は何らかの限定を被ったものとしてしか実現できないということだ。

パーソンズのいう共通価値は、ヘーゲルのいう「万人にとっての幸福」と本質的には同じ構造をもつものです。「万人にとっての幸福」と同じく「共通価値」は中身のない空疎な概念です。何を共通価値と見なすかは、何を最高善と見なすかについて決定的な答えがないのと同様に、答えが存在しません。答えを与えようとすれば必ず無理をきたします。「共通価値の内面化!」と言われると何だかそんなものがありそうな気がしてきますが、いざ実質を規定しようとすると必ず複数の見解が出てきます。

社会原理の観点から最低限内面化する必要があると言えるのは、相互承認の感度です。なぜなら、ヘーゲルの言うように、他者を私と同じ自由な人格として承認し、かつ承認されることが近代社会の基本理念だからです。これは共通価値によって社会の統合を保とうとすることと見た目上は似ていますが、原理的には異なります。なぜなら共通価値の内実は恣意的に規定されざるをえませんが、相互承認の感度を教育するということは、近代社会の理念を原理として導かれるものだからです。

スタート地点に問題あり

認識論的に言うと、そもそも秩序を実体的に考えることに問題があります。フッサールが直観したように、私たちの一切の認識は存在妥当(存在確信・信憑)です。秩序も同様です。秩序が存在するかどうかは信憑が成立するかどうかにかかっています。その条件が欠ければ秩序は存在しないと確信されるし、満たされれば存在すると確信されます。

「ともかく秩序はあるのだ」という一方的な立場は「秩序はそれがあると都合のいい人たちによって構成されたものにすぎない」というこれまた一方的な立場との対立に陥ってしまいます。結果として、問題が根本的に解決されることはなく、初めの動機は忘れられ、学説のカタログのなかに収められて“お勉強”の対象がひとつ増えるだけに終わるのです。

直観補強のトラップ

カント『純粋理性批判』のアンチノミーに関する議論で次のように言っていました。

「世界に始まりがある」という命題と、「世界に始まりはない」という命題はともに等しく成立する。なのでどちらが絶対的に正しいかを決めることは原理的に不可能だ。

しかしここで「対立を止めよ!」と叫んでも意味はない。この対立には必然性があるからだ。

そこで次のように考えてみよう。それぞれの世界観を選ぶ動機は何だろうか、と。そうすると次のように言える。正命題(世界に始まりがある)を選ぶひとは世界の全体像を独断的に示そうとする傾向がある。全体像を捉えられることの安心感も与えてくれる。なので一般的にはこちらがポピュラーな世界観だ。

一方、反命題(世界に始まりはない)を選ぶひとは、世界の全体像を捉えることに対して否定的だ。また、反命題は正命題に対するアンチの立場を取る傾向にある。なので正命題よりも不人気だ。

この直観は秩序に関しても当てはまるように思います。

一般的な価値観と上手くやっていけるひとは、暗黙のうちに「世界に秩序がないわけがない」という世界観を前提し、知識でこれを補強しようとしてしまい、秩序に対して何らかの違和感をもっているひとは「秩序など実はないのだ」という世界観を何とか補強しようとしてしまう。

根本から考え直して普遍性を検証しようとする代わりに、最初の素朴な直観の正しさを証明することへ向かってしまうこと。これは頭の良し悪し(知識の量)に関係なく、誰もが陥ってしまいかねないトラップなのです。

自分で確認するまでは判断を留保すべし

哲学者を評価するときの原則は、最終的に自分で読んで確かめるまでは判断を保留することです。読みもせずに他人の解釈を信じ込み、それでもって批判するのはアンフェアです。ホッブズの部分的な解説を読んで分かった気になったり、パーソンズのホッブズ解釈を受け売りしたりするから「そうかホッブズは人間を利己的なものと考えていたのか、でもこれだと足りないな」みたいなショボイ程度の理解しかできないのです。