いわゆる「哲学的な問題」のつくり方

Photo Credit: Jason Samfield (CC BY-NC-SA 2.0; modified)

いわゆる「哲学的な問題」は、コツさえつかめば簡単に作ることができます。一見すると難しそうな問題も、少しの知識と想像力があれば作ることができてしまいます。

ここではそのポイントを紹介し、いくつか例を用いて実演することで、悪しき哲学のネタばらしをしてみたいと思います。

哲学問題レシピ

  • 初めに、組となる概念を見つける(一般的なほどベター)
  • 次に、それを二項対立にする(はみ出る箇所が出来るように)
  • はみ出ている箇所に全力でスポットライトを当てる
  • 最後に、はみ出ている箇所への想像力を涵養する必要がある、というような倫理的ニュアンスでカッコよく仕上げる

これだけです。シンプルですね。

では、いくつか簡単な事例を使って確認してみることにしましょう。

ケース1:性別

男性・女性、メス・オス、なんでもいいですが、人間には性別があると私たちは普通考えています。いわゆる哲学的な問題を作るためには、この区別を指摘すればいいわけです。

人間に性別があるというのが一般的な観念だ。しかし男女の二項対立を作ることは、そこに収まらない「半陰陽」の人びとにとって抑圧的に働くほかない。私たちは彼/彼女らを抑圧しないよう、この二項対立を絶対視することは避けなければならない。

ケース2:差別

アメリカの黒人差別を例に取ってみます。要するに黒人と白人間に存在していた差別よりも根源的な差別がどこかで広がっている、と指摘すればいいわけです。たとえばこんな感じに…。

アメリカにおける黒人差別はすさまじい。しかし時代が経つにつれて黒人に対する差別は次第に弱まってきた(ライス元国務長官やオバマ大統領が象徴しているように)。これは一見するとアメリカから差別が消えてきたことを示しているかのように見えるかもしれない。しかし実は違う。白人内においても、キリスト教の宗派が異なれば、それは十分に差別の対象となる。アメリカの政治では、プロテスタントの地位が強く、カトリックは弱い。カトリック信者で大統領に就任したのはジョン・F・ケネディだけだ。私たちは差別を黒人/白人の対立のうちで捉えてはならない。それは同じ人種内に潜む差別を非可視化するからだ。

というようにいくらでも作り出せますが、構造的には全部同じです。なので次のように一般化することができます。

ケースN: AとBの区別

私たちはAとBの対立をしばしば問題にする。しかしAとBの二項対立は、その外部に位置するC、D、E、F…にとって抑圧的に働く。私たちは、社会がそれらを抑圧していることに気づき、二項対立を作ろうとする動きにつねに抵抗しなければならない。「『…』の声なき声」に絶えず耳を傾けていなければならない。

いわゆる哲学的な問題を作るのに一番手っ取り早いのは、一般的と思われている区別を任意にピックアップして、そうした区別を置くことそれ自体が、その区別に収容されない「外部」を作り出し、これに抑圧的に働くという図式を作ればいいわけです。なので問題は「外部」に関する知見をどれだけ集められるか、どれだけ意外なことを言えるかという点にかかってきます。ポストコロニアリズムの一般的な着地点も、およそこうしたところになります。

エクストリーム・疑似問題

以上は2つの概念で作った問題ですが、実は1個の概念でも同種の問題が作れます。外部を準備さえすればいいわけですから。たとえば「赤」という概念だと…

「これは赤色だ」と言う。それは赤色ではない色(青色など)に抑圧的に働く。パレットに収まりきらない色への想像力を持つことが、色への感度をより研ぎ澄ましてくれる。他の色があってこそ、赤色は赤色として位置づけられる。このことを見落としてはならない。

ここまで来ると、もはやイチャモンと変わらないですが。

でも…これって哲学的なの?

端的に言うと、哲学的ではありません。

批判的な目を忘れないことは確かに大事です。ただ、以上のような問題設定には重大な問題点があります。それは、「なぜそのような区別が生じてくるのか?」という問いに対して納得できる答えを示すことができない、ということです。

私たちが性別の観念を抱いてきた理由、それはこうした区別を置くことで優位に立つ人びとがいたからだ。差別が人種間で生じると考えられてきた理由、それは白人と黒人との関係に人びとの視線を向けさせることで、白人内部に根付く、より根源的な矛盾を隠すことができたからだ。以上の問題設定は、結局のところそういった地点に着地するほかありません。これは率直に言って、かなり強引な論法です。

以上の2つのケースに関して言えば、むしろ問題は、不当な差別をいかにして無くしていくことができるか、という点に集約されます。

性別それ自体が悪であると決めてかかるのではなく、どのような場面で性別は正当であり、どのような場面で不当な差別と化するのか、というように考えていくほうが、より生産的です。そうすることによって初めて、何らかの区別を置くことの正当性の根拠を見て取り、実践可能な判断基準を置くことができるからです。

確かに、ポストコロニアリストのガヤトリ・C・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を見ると、抑圧された絶対的他者をも目掛けた想像力が、普遍性という概念を実質的に生かす条件であることは否めませんが、外部性を指摘しているだけでは、声なき声に耳を傾けているという倫理的アピールの域を最終的に超え出ることはできません。