ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を解読する(1)

本書『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864年~1920年)による著作だ。1904年に発表された。

本書は一般に「客観性論文」と呼ばれ、ヴェーバーの著作の中でも『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』(通称『プロ倫』)と並ぶ著作として位置づけられている。

本書でヴェーバーは「価値自由」Wertfreiと「理念型」Idealtypの2つの概念を示し、それらを軸に議論を展開している。

なぜ認識論なのか?

単純に言うと、自然事物を認識するように社会事象を認識することはできないからだ。

自然科学の認識対象と、社会科学の認識対象は本質的に異なる。社会事象は単なるモノではない。それは私たちの問題関心や価値理念に相関して認識されるのであり、目の前にポンと置いてあるものを写し取るように認識されるわけではない。データは社会を映し出す「鏡」ではない。そうヴェーバーは考えるのだ。

でも「価値自由」って価値に関係なく客観的な認識が成り立つということじゃないの?

違う。ではどう違うのか?

たとえば次のような見方はよくある解釈だろう。

「社会学は科学としての客観性を保証するため、価値を扱うことがあってはならない。科学的手法を使えば価値によらない客観的な認識が可能となるのであって、それは自然科学と何ら変わるものではない。」

社会学は科学とならなければならないというのはフランスの社会学者エミール・デュルケーム以来の主張だが、実のところヴェーバーは一言も「価値によらない客観的な認識が可能である」とは言っていない。むしろ、一切の社会現象は私たちの問題関心に相関して分析されるものである以上、端的に「客観的な」科学的分析は不可能だと主張しているのだ。

結論を言ってしまうと、こんな感じだ。

経験的データの分析は価値理念に準拠しており、その分析の意義は当の価値理念からしか理解することができない。それゆえ重要なのは、頭の中から価値理念を消し去ることではなく、自分が何らかの価値理念に依拠しているのを徹底的に意識すること、また、価値理念の領域と経験判断の領域を明確に区別して、価値理念を経験判断の妥当性の証明に持ち込まないこと、この2つだ。

価値理念に無関係な認識はありえない。だからぼんやりしていると価値理念が事実の認識にいつの間にか入ってきてしまいかねない。だから価値(こうあるべき)を事実(こうである)の証明に使うことがないよう、つねに注意を払っていなければならない。ヴェーバーが言わんとするのはそういうことだ。

「いいとこ取り」をするな

例えば、ここに「社会は自由であるほどよい」と信じ込んでいる研究者がいるとしよう。

彼は自分の理想を実現すべく、あらゆる分野の学問を習得する。しかし知識だけでは社会を変革するには足りないことを実感し、政治家にも働きかけるなどの政治運動も始める。その際彼は、自分の学んだ知識から都合のいいものだけを無意識のうちにピックアップして、いかにも正しそうに見える理論を作り上げるだろう。「~に関する政府の規制を無くしたA国ではGDPが5%上昇し、またB国では7%上昇して…」というように、データを駆使し、議論に説得力を持たせ、政治の世界に売り込みをかける。

ヴェーバーが本書で批判するのは、まさにこうした「いいとこ取り」の議論だ。自分の問題関心に無意識なまま、都合のいいものを「事実」として受け入れ、自分の価値理念にかなう理論を客観的なものと偽ることがあってはならない(善意ならなおさらタチが悪い)。

思考する研究者が語ることを止めて、意欲する人間が語り始めていること、およびその個所を、また、議論が、どこで悟性に訴え、どこで感情に訴えているのかを、そのつど、読者(および—繰り返していうが—とりわけ自分自身!)にたいして明らかにする、ということである。事実の科学的論究と価値評価をともをつ論断とをたえず混同することは、われわれの専門的研究にいまなお広汎にいきわたり、しかももっとも有害な特性のひとつである。

事実と価値を混同するな!それらを厳密に区別して、価値について語る際は、自分が理想を欲する人間として語っていることを明確にせよ!そのことが社会科学に携わるものの基本的な義務である。そうヴェーバーは説くわけだ。

さて、以上が本書でヴェーバーの言いたいことの大まかなポイントだ。以下では一応本文の内容を最初から確認しつつ見ていくことにするが、時間がない(または面倒)なら、あとは読まなくてもかまわない。

価値自由の応用編を書きました → 社会問題に“価値自由に”取り組む

2回に分けて解説します

本書の全体的なテーマは社会の認識原理論だが、価値自由と理念型に関する議論に大きく分けることができる。

そこで、前半では価値自由に関するヴェーバーの議論を確認し、後半では理念型に関する議論を見ていくことにしたい。


「価値自由」について

本論は、ヴェーバーが当時携わっていた学術雑誌の『社会科学・社会政策雑誌』の改名にあわせて発表されたものだ。ヴェーバーは冒頭で本論の目的を次のように置いている。

この雑誌が、立法上また行政上の施策や実践的提案にかんする判断に誌面を割くばあい、そうした判断とは、なにを意味するのであろうか?そうした判断にとって規範となるものは、なんであろうか?

われわれはまず、この問題にたいするわれわれの立場を表明し、そのあとさらに、文化生活一般にかんする科学の領域に、いかなる意味でそうした「客観的に妥当な真理」があるのか、という問題につき、その立場を敷衍して論じてみたい。

学問である以上は客観性が必要不可欠だ。では、文化生活に関する科学(社会科学)において、いわゆる「客観的な真理」はどのようなものとしてありうるのか。ヴェーバーはそう問題を置く。

そもそも、なぜヴェーバーはこの問題に取り組もうとしたのか。それは、当時の社会科学の称する“客観性”が、実際は研究者たちの「こうあってほしい」を反映したシロモノでしかないと直観していたからだ。

おそらく社会科学の出発点は実践的な動機にあり、何らかの政治的な判断に価値判断を与えることが、社会科学に求められていた役割だったはずだ。

ところが、そこでは「あるもの」(存在)と「あるべきもの」(当為)が原理的に区別されることはなかった。そのため、倫理的進化論と歴史的相対主義が結合して、影響力をもつようになった。経済事象には自然法則と同様の法則があり、それが過去から現在を経て未来へと、経済事象を永続的に支配していると考えられた。経済学は“あるべき社会”の姿を告げるものと見なされたのだ。

しかし経済学を倫理化しようとする試みは、果たしてその理想に客観的な妥当性をもたらすことはできなかった。それはそもそも社会科学で出来るようなことではないからだ。

科学に出来ること=目的達成のための手段について答えること

そもそも、科学には一体何が出来るのだろうか?これについてヴェーバーは、どのような手段が目的を達成するために適当なのかという問いに答えることが科学の対象だ、と答える。

突き詰めると、私たち人間の行為は目的(そのもの自体の価値のため)もしくは手段(意欲されたものに役立つ手段として)のいずれかに関係している。

私たちが何かを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、何か別の意欲されたものに役立つ手段としてかのどちらかだ。

われわれがあるものを具体的に意欲するのは、「そのもの自体の価値のため」か、それとも、究極において意欲されたものに役立つ手段としてか、どちらかである。

前者がいわゆる価値合理的wertrationalな行為であり、後者が目的合理的zweckrationalな行為だ。いい例が思いつかないので、あえてしょうもない例を使ってみる。

隣に可愛い女の子(男の子)がいて、その子と会話をする場面を考えてみよう。ヴェーバーの図式に当てはめると、その子と話すこと自体が嬉しかったり楽しかったりするので話すのは価値合理的、何とかお近づきになりたいと思って話すのは目的合理的ということだ。分かりやすいだろうか…?

ともかくヴェーバーは、一般に科学の目的は、ある目的を達成するために最も適切な方法を導き出すことにあるという。

いくつかある手段のうち、どれが選択可能であり、どれが最も確度が高いのかについて考察することで、その手段が目的のほかにどのような結果をもたらすかについて把握することができる(当然そのときの知識によって制限されているが)。つまり科学によって、行為するひとが望んでいた結果と望んでいなかった結果を比較することができるのだ。

もしある考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる手段を適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる結果をもたらすことになるかを、当然常に、そのときどきのわれわれの知識の限界内においてではあるが、確定することができる。そうすることで、われわれは、行為者を助けて、かれの行為の意欲された結果と、意欲されなかったこの結果との秤量が、できるようにする。

何を目的とするかは人間が決めなければいけない

科学は目的と手段の関係に関する確からしさを示してくれる。また、個人は科学の知識によって、自分の価値基準を反省したり再評価することができる。しかし科学は、私たちが何をできるかしか教えてくれず、何をすべきかは教えてくれない。選択するのは科学ではなく、私たち人間の課題なのだ。そうヴェーバーは言う。

意欲する人間が、自分の良心と自分の個人的な世界観とにしたがって、問題となっている諸価値を評価し、選択するのである。

経験科学は、なんぴとにも、なにをなすべきかを教えることはできず、ただ、かれがなにをなしうるか、また—事情によっては—なにを意欲しているか、を教えられるにすぎない。

社会政策の場合も同じ

ヴェーバーいわく、このことは社会政策についても当てはまる。経験データが社会のあるべき姿を示すことができないのと同じように、なすべき政策を一義的に確定することはできない。そうヴェーバーは言う。

たとえば公共福祉に関する個別具体的な問題のように、目的に関しては基本的な了解が成立しており、あとはその目的を達成するための手段を決定すればいいような問題は無数にある。

しかしその際に自明視されている価値基準は、私たちが具体的な問題から一歩踏み出して政策上の問題に取り組むとき、揺り動かされずにはいない。なぜなら政策が解決しようとする問題は私たちの生活の領域に根ざしているため、それが拠って立つ価値基準自体が争われざるをえないからだ。

いずれにせよ確かなのは、問題が一般的であればあるほど、経験データから「正解」を導くことはできなくなり、価値理念に依存する部分が大きくなる、ということだ。ある原理を確立し、その正しさを科学的に検証して、そこから個別の問題を解決するための規範を導くべきであるとする見方は、あまりにもナイーブだ。

実践的な社会科学は、なによりもまず「ひとつの原理」を確立し、それを妥当なものとして科学的に確証し、その上で、当の原理から、実践的な個別問題を解決するための規範を一義的に演繹すべきである、というような見解が、まま専門家によっても相変わらず信奉されているが、これはもとよりナイーヴな信仰にすぎない。

「事実と当為は異なる威厳をもつ」

どのような解釈を行っても、倫理的な命法によって、事実(こうである)から当為(こうあるべき)を導くことは原理的に不可能だ。それらはどちらかがどちらかの上に立つわけではない。私たち個々人が実現しようと望む社会の理想と、個々人が果たすべき義務は、それぞれ異なる威厳をもっているのだ。

個々人が実現しようと欲する文化理想と、個々人が果たすべき倫理的義務とは、原理的に異なる威厳をもつ。

たとえば、社会に不平等と格差が広がっているからといって、そのことは「私たちは社会から不平等と格差を無くさなければならない!」という主張とはダイレクトに結びつくことはない。社会に格差があるからといって、そのことが即座に私有財産の廃止を正当化することには結びつかないということだ。

理想は私たちが作り出さなければいけないもの

社会科学は、あるべき社会の姿も示さなければ、なすべき政策についても示さない。

この言い方は一見すると、社会科学はそうした理想と関係なく成立しうるし、社会科学に携わるものはどんな理想も抱くべきではない、と言っているように思えるかもしれない。

しかしヴェーバーはそう言っているわけではない。「事実と当為は異なる威厳をもつ」と言っていたように、ヴェーバーは当為の意義を確かに認めている。当為を頭から否定しているわけではないのだ。

われわれはすべて、われわれ自身の生存の意味が根ざすと見ている究極かつ最高の価値理念の超経験的な妥当を、なんらかの形で心のなかに信じている …

世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の意味を読み取ることはできず、かえって、意味そのものを創造することができなければならない。

出来事の意味を作り出すのは私たちだ。私たちひとりひとりが出来事に意味を与えるのであって、経験データの蓄積がそれを生み出すわけではない。

「世界観」も同様だ。世界観も私たちが作り出す。おのおのが作り出した世界観は、それぞれのひとにとって真正なものだ。どれかが絶対的に正しいということはない。したがって、その時代に人びとを動かすような最高の理想は、それぞれの理想間の戦いによってしか実現されえないのだ。

「世界観」とは、決して経験的知識の進歩の産物ではないのであり、したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の理想は、どの時代にも、もっぱら他の理想との闘争をとおして実現されるほかはなく、そのさい、他の理想が他人にとって真正なのは、われわれの理想がわれわれにとって真正なのと全く同等である。

ここは解釈の分かれる場所だ。

ひとつは、それぞれの人にはそれぞれの理想があるにすぎないとする解釈、そしてもうひとつは、最高の理想は経験データを蓄積することではなく、理想同士の相克によってしか現れざるをえないとする解釈だ。

おそらく分かりやすいのは前者の解釈だろう。ただ、ニーチェの遠近法主義が相対主義ではないことを考慮すると、ヴェーバーの趣旨は後者のほうだと言うべきだ(ヴェーバーがニーチェに強く影響されていたことはよく知られている)。

価値自由は内面の「砦」

価値自由は結局のところ、いまにもあふれそうな理想を学問のうちに流れ込ませないようにするための内面的な「砦」、言い換えると、理想と現実の間で揺れ動く情熱に対する歯止めであり、格律(マキシム)だ。

「価値理念同士の果てしないせめぎあいのなかで、どうすれば学問のうちに客観性の領域を確保できるか?」そういった切実な問題意識のもとでヴェーバーは価値自由の概念を提示したのだ。

これは言い換えると、理想が無いところに価値自由も何もないのであって、何が本当に解くべき課題なのかさえつかんでいないのは、価値自由以前の問題だ。なので、もし誰かが「価値自由って客観認識が可能ってことでは?」と言うのを聞いたら、おそらくヴェーバーは「理想も何も無い奴が学問をやる資格などない。まずはその生ぬるい精神を鍛え直してこい!」と憤慨するに違いない。それくらい熱い魂の持ち主なのだ。

価値自由は、理想と現実(=当為と事実)の間で揺れ動く情熱を自制するために自分自身に課す規準のこと