セネカ『心の平静について』を解読する

本篇『心の平静について』De Tranquillitate Animiは、ストア派哲学者のセネカによる作品だ。『人生の短さについて』と同じく、いわゆる「道徳論集」のうちのひとつに数えられている。

本篇は、セネカより若くして亡くなった、親戚かつ友人のセレヌスに捧げられたもののひとつだ(他には『賢者の不動心について』と『余暇について』がある)。セレヌスからある相談を受け、これに答えるという構図で議論を行っている。

贅沢がちょっとうらやましい

セレヌスはセネカに対し、次のように相談している。

私の心は落ち着きません。何かを恐れたり憎んだりするわけではありませんが、かといってそこから解放されているわけでもない。とても苛立たしい気分です。

私は倹約を愛しています。豪華な寝台や服は好みません。代わりに質素で安い服を好みます。

しかし一方で、近所の家に豪華な服を着ている召使いや、輝くばかりの奴隷たちがいるのを見ると、どうにも心が締め付けられます。

もちろん、だからといって倹約を止めようと思っているわけではありません。ただ、ちょっと悲しい気持ちになるのです。この気持ち、どうすればいいでしょうか?

心の平静に達するのが大事

これに対して、セネカは心の「平静」に達することが必要だと主張し、そうするための方法について考えてみよう、と答える。

われわれの求めているのは、いかにすれば心は常に平坦で順調な道を進み、おのれ自身に親しみ、おのれの状態を喜んで眺め、しかもこの喜悦を中断することなく、常に静かな状況に留まり、決しておのれを高めも低めもしない、ということである。これが心の平静ということであろう。そこで、どうすればこの平静に達することができるかを広い見地から求めてみよう。

不安、そして「リア充爆発しろ」へ

セネカはまず、不安な心がどのように変化していくか、そのプロセスを描いている。

移り気や嫌気がするひとの心は常に不安定な状態にある。彼らはどうにかしてこれを治そうとするが、うまくいかない場合はひどく虚しい気持ちとなる。

そのとき、彼らの心は後悔と不安の念にとらわれ、動揺し「何もしたくない」と落ち込んでしまう。ここから自分の暇を呪う気持ちが生まれ、同時に、着実に前へと進んでいく他人に対する嫉妬が生まれる。リア充爆発しろ!と。

彼らは自分自身に絶望するあまり、世界に対して不満を抱いたり、自分について考えこんだりするが、そもそも移ろいやすい彼らの心は、結局のところ自己嫌悪に陥るのだ。

対処法

以上を踏まえて、セネカは次に、心の平静を得るための具体的な方法を挙げていく。

ただ、その際セネカは、何か原理的な根拠を置くのではなく、よく言えば自由に、悪く言えば何とでも言える仕方で論じている。それゆえ、もし「どうしてこれだけで足りると言えるのか?」と問われても、これに対して答えることができない。これは哲学的には大きな欠点だ。

ともあれ、セネカは以下のような方法を提案している。

  • 苦しむ理由が自分にあることを知るべし
  • 自分自身、仕事、仲間を吟味せよ
  • 名誉や贅沢を抑え、自分自身のうちに富を求めよ
  • 死を恐れるな
  • 無いものねだりをするな
  • 人びとの悪徳を嘆くのではなく、むしろ笑ってやれ
  • それよりも、出来ることなら静かに受け入れよ
  • でもたまには趣味や飲み会でリラックスするのもいい

以下、分かりにくそうなものをいくつかピックアップして解説してみたい。

死を恐れるな

死はいつ来るか分からないが、運命として起こるときに起こる。そうしたことに無関心であればこそ、死は衝撃となり、重圧となる。そうセネカは言う。

死を恐れる者は、生きている人間に相応しいことを何もしないであろう。しかし、死ぬことは人が母体に宿った瞬間の定めであることを知る者は、この原則に従って生きる。と同時に、更に同じように強い精神をもって次のように言い切るであろう—生じくるもののなかに何一つ突然の出来事はない—と。つまり彼は、まさに起こるべくして起こりうる事件をことごとく遠望することによって、あらゆる災いの衝撃を弱めるであろうが、これに備えて待機している者には、目新しいことは何も起こらない。しかし、それに無関心で、ただ幸福だけをねらっている者には、この衝撃は重圧になる。病気もあり、投獄も倒壊も大火もある。これらのどれも突然やってくるものではない。

「こんなことになるとは思わなかった」とか、「こんなことが起こると信じたことがあるか」と言う者がある。しかし、どうしてそうでないと言えよう。どんなに大きな財産でも、その後ろから貧困や飢えや物乞いが追いかけてこないためしがあろうか。

悪徳は笑ってやれ

これはつまり、人びとの悪徳を嘆いてもマイナス感情が増すばかりだが、笑えばある程度の明るい希望が生まれるから、ということのようだ。

人類全般のためにも、それを嘆くより笑う者のほうが役立っていることを付言しなければならぬ。笑う者は或る程度の明るい希望を人間に残すが、しかし嘆く者は、なんとも良くしようのないことを嘆くからである。

たまにはリラックス

何か崇高な、他をしのぐような言葉を発するには、心の感動がないかぎり不可能である。心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がれば、そのときこそ遂に、心は死すべき人間どものロには崇高に過ぎる歌を吟ずるに至る。心が或る高く険しいところにあるものに達するには、正気であるかぎり不可能である。

節制は心を感動させないよう縛り付ける。しかしそれだけでは足りない。旅行や会食でリラックスすることで、心はより一層鋭くなり、ついには崇高に達することができるようになる。そうセネカは言う。

本篇の議論は以上だ。

頭で分かっていても…

もしセレヌスが生きていたら、以上のアドバイスをどれだけ納得して受け入れられただろうか?

私の感じでは、おそらく、「いやそれは分かっているんですが…」というような変な反応になったはずだ。

たとえばセネカは「死を恐れるな!」と言う。しかし恐いものは恐いのであって、言われたところで恐くなくなるわけではない。死を恐れることにはそれなりの理由があるからだ。

セネカのアドバイスはあくまで対処療法的なものだ。精神の力で心の動揺を抑えよ。ここにはストア主義の構えが前面に出ているが、アドバイスとしては適切とは言いがたい。それはちょうど、風邪を引いている人に対して、よく効く薬を教える代わりに、病は気から生じるから重要なのは気の持ちようだ、と答えるようなものだ。