セネカ『人生の短さについて』を解読する

「人生の短さについて」De Brevitate Vitaeは、ストア派哲学者のルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃~65年)による作品だ。

本篇は、いわゆる「道徳論集」のうちのひとつだ。50年前後のローマにて、当時のローマの食糧長官を務めていた親戚のパウリヌスに宛てて書かれたとされている。

人生は短いのではなく、浪費している

だから嘆かず、今日が人生の最後の日だと思って、やるべきことをやれ。そうすれば人生を長く送ることができるだろう。

本篇が主張しているのは要するにそう言うことだ。ただこれだと身もフタもないので、一応本文も見ておくことにしよう。

「老後を楽しみにしよう」はダメ

セネカは初めに次のように言う。

大部分の人間たちは死すべき身でありながら、パウリヌス君よ、自然の意地悪さを嘆いている。その理由は、われわれが短い一生に生まれついているうえ、われわれに与えられたこの短い期間でさえも速やかに急いで走り去ってしまうから、ごく僅かな人を除いて他の人々は、人生の用意がなされたとたんに人生に見放されてしまう、というのである。

ここでいう「人生の用意」は、要するに老後の楽しみのことだ。

定年になり、会社勤め(パウリヌスなら食糧長官の職)からようやく解放されて、さあこれからは自分の好きなことだけして生きていこうと思った矢先、ガンが見つかり余命半年と宣告。ああなんて人生は短いんだ…。

人生は使い方を知れば長い

しかし、セネカいわく、人生そのものが短いと考えるのは間違っている。なぜなら人生は、私たちの使い方次第で、短くなったり長くなったりするからだ、と。無駄に使わず、有効に使うことが大事だ。そうセネカは言う。

しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。

セネカは続けて、いつ死ぬか分からないのに老後の計画を立てるのはバカげているとも言う。定年後に何かをする計画を立てたところで、そこまで生きられる保証はどこにもない。取らぬ狸の皮算用もはなはだしい、と。

有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。

一見それらしい言い方だが、必ずしも当を得ているとは言えない。現代のような高齢化社会では、確かに老後の生活が問題となるからだ。

自分のために時間を使うべし

ここでセネカは、仕事に忙殺されることを避け、自分自身のための時間を確保することが、人生を長く生きるための条件であると説く。

他人のためではなく、自分自身のために時間を使うことが大事だ。雑務に追われている心では何かを成し遂げることはできない。多忙であれば、それだけよく生きることが難しくなる。

時間を自分自身のために使うひとは、明日を恐れることがない。なぜなら彼には、後は運命の女神が決めてくれるはずだという確信があるからだ。

これに対して、多忙なひとが年を取ったところで、長く生きたとはいえない。彼はただ「あった」だけだ。ちょうど嵐のなかで同じ海域をぐるぐる引き回される船と同様、長く翻弄されたにすぎないのだ。そして、こういうひとに老いは突然やってきて、彼を面食らわせるのだ。

幸うすき人間ども、つまり多忙に追われている者たちにとって、まさに最良の日は真っ先に逃げていく、ということに疑問の余地があろうか。多忙に追われている者たちの心は今なお幼稚であるのに、彼らの心を老年が不意に驚かせる。先が見えなかったため、用意も防備もないままに達した老年である。彼らは突然、思いもかけぬうちに老年に陥る。老年が日々近づいていることに気が付かなかったのである。

振り返るに値する過去を持つこと

次いでセネカは、振り返る過去をもつことも重要だと論じる。

人生は3つの時間に分けることができる。過去、現在、未来だ。多忙なひとびとは振り返るべき過去をもたず、ただ現在だけを生きている。仮に振り返ったとしても、後悔の念だけが押し寄せてくるので、進んで振り返ろうとはしない。

しかし過去は、運命の時から逃れ、私たちの手中にある。望めば眺めることもできるし、逆に引き離すこともできる。しかし多忙なひとびとはこうした特別な財産をもたない。

多忙なひとは、現在を「点」で生きているので、長さを感じることができない。それに対して、振り返るべき過去があれば、人生に厚みが生まれる。

学問研究に何の意味があるのか

セネカは人生を浪費する事例をいくつか挙げているが、ここで興味深いのは、将棋とか球技だけでなく、学問研究もまた同様に人生の浪費であるとしている点だ。

ギリシア人には、『オデュッセイア』と『イリアス』のどちらが先に書かれたのかというような問題を突っつき回す病癖がある。いまやローマでもそういう類の問題をあれこれ論じているひとたちは少なくない。

確かに、彼らが誠実であり、デタラメを言っているわけではないことは分かる。

しかし、そうした問題が分かったところで、何か得になることがあるのだろうか?私たちを勇敢に、正しく、より自由にできるのだろうか?もしそうでなければ、学問研究には関わらないほうがマシだ。

より偉大な仕事へと向かえ

最後にセネカは、パウリヌスに対して、食糧管理の仕事などさっさと辞めて、元気のあるうちに「より偉大な仕事」へと向かうべきだと忠告する。

神はいかなる本質、いかなる快楽、いかなる状態、いかなる形体を有するか、いかなる出来事が君の魂を待ち構えているのか、肉体から解放されたわれわれを自然はどこに集めて置くのか、一体この世界の最も重いものをすべてその中心で支え、軽いものを上方に宙づりにし、その最上部に火を運び、星群をそれ特有の変化へ駆り立てるものは何であるか、その他続々と続く、無限の神秘に満ちた諸問題である。君は今や俗界を去って、以上のごとき問題に心を向けたいのではないか。現に温かい血の通っている間に、溌剌とした元気をもって、より良い方向に進まねばならない。

人生を長く生きる一条件

多忙なひとほど人生は短い。彼は主体的に生きたのではなく、ただあったにすぎない。名誉や財産を求めて時間を浪費するのではなく、本当に考えるべき問題を考えることに時間を費やすべきだ。言われてみれば確かにそのような気もしてくる。

ただ、もちろん、これを一般化することはできない。

セネカには、概して「快楽は悪しきものであり、避けるべきだ」とする傾向がある。しかしこれは当時のローマ帝国の世相に対する一種の反動形成であって、別に原理があるわけではない。実際、本篇の後に書かれた「幸福な人生について」では、徳を求めることで得られる快楽が真の快楽であり、その他の快楽は世俗の誤った快楽であると独断している。

同様のことが本篇の議論についても当てはまる。原理的に言えば、私たちが何に時間を費やそうと、それが他者の自由を侵害しないかぎり、とがめられなければならない理由はない。「これこれに時間を費やすのは正しく、これこれに時間を費やすのは間違っている」とするのは、恣意的な独断だ。

しかしここでは、むしろこう考えてみたい。セネカは私たちが充実した人生を送ったといえる、その一条件を取り出しているのだ、と。

確かに、刹那的な生き方が充実しているとは言いがたい。哲学的な思索こそ偉大な仕事であるとするのはさすがに言い過ぎだが、自分が何に取り組むかを見すえて、本当に取り組むべきことに取り組めば、充実した生を送ることができるとすることには、一定の理があるように見える。