ショーペンハウアー『根拠律の四つの根について』を解読する

本書『根拠律の四つの根について』は、A.ショーペンハウアーの著作だ。1813年、イエナ大学に学位論文として提出された。

ショーペンハウアーというと、フリードリヒ・ニーチェに影響を与えた『意志と表象としての世界』でよく知られている。『自殺について』や『読書について』といった作品のほうが有名かもしれない。

本書では、ショーペンハウアーの思想の方向性が、アカデミックかつ批評的な感度のもと現れている。カントの認識論の観点からドイツ観念論を批判しつつ、学問の根拠について論じている。ショーペンハウアー独自の厭世的な世界観が前面に出てくる以前の作品だ。

目的

ショーペンハウアーによると、本書の目的は、根拠律の4つの本質契機(内実)を示すことで、学問の基礎づけを行うことにある。その背景には当時のドイツ観念論の存在がある。

もし理性が、経験の領域を超え出て、つねに厳密な一致を可能にするような能力であるなら、人類の歴史において、そもそも宗教対立は起こりえなかったはずだ。しかし現代に至るまで、もろもろの哲学体系はつねに争いあい、宗教はつねに異端を裁く牢獄を備えている。このような状況において、もはや理性が形而上学的な能力であるという主張を行い続けることはできない。そうした理性は、厳しく批判しなければならないのだ。

ヘーゲル、フィヒテ、とりわけシェリングは、「理性」を形而上学的に論じており、カントが『純粋理性批判』で行った認識批判のモチーフ、意義をまったく受け止めていない。そうショーペンハウアーは言う。

ヘーゲルとシェリングを一緒くたにするのは、ある意味厳しいところがある。『精神現象学』や『法の哲学』において、ヘーゲルは「自由」の本質洞察を軸に、近代における倫理と社会のあり方に関して、原理的な構想を置いているからだ。

もっとも、全体として見ると、ドイツ観念論は総じて形而上学的な世界説明の体系を作り上げており、それに関しては、普遍的な妥当性をもつとは言いがたい。この点に対するショーペンハウアーの批判は正当だ。

ドイツ観念論、とりわけシェリングは、精神と自然の同一という理想に熱狂するあまり、理性の合理的な吟味、批判を行ったカントの業績をきちんと受け入れていない。“経験の届く可能性を超えた認識を可能とする理性”なるものは、『純粋理性批判』を読んで生まれた不安が作り出したフィクションである。そうショーペンハウアーは強い調子で主張する。

根拠律の4つの「根」

ドイツ観念論的な理性に代えて、ショーペンハウアーが着目するのが根拠律だ。

根拠律とは何かについて、ショーペンハウアーは、なぜ存在するかの根拠なしに、何かが存在することはないという仕方で定式化する。何かが存在するには、それに応じた理由、条件がなければならない。この点を明らかにすることで、学問を支えている根拠を明確に規定することができるだろう。ショーペンハウアーはそのように言う。

ただし、ここでいう存在とは、あくまで表象の水準で論じられている点に注意する必要がある。

本書でショーペンハウアーは、カントによる物自体現象の区別を踏まえて議論を行っている。つまり、ショーペンハウアーが「根拠律は主観と客観の結合関係を示している」と言うとき、ここでいう客観は主観にとっての表象として考えられているのだ。

根拠律は現象の世界における原理であって、物自体については対象としない。この前提を踏まえて、以下、ショーペンハウアーは根拠律を次の4つの観点から論じる。

  • 生成の根拠律
  • 認識の根拠律
  • 存在の根拠律
  • 行為の根拠律

これらの区別が第一に意図するところは、原因と結果の因果関係を、条件と帰結の相関関係から区別することにある。

ショーペンハウアーによると、プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザにおいては、この2つは混同されていたか、あるいはほとんど意識されていなかった。因果律の根拠に関する問いについては、ヒュームに至るまで待たなければならなかった、とショーペンハウアーは言う。

根拠律はそもそも存在する

ショーペンハウアーいわく、根拠律の存在を証明しようとするのは“おろか”なことだ。その理由は、根拠律を証明しようとした時点で、すでに根拠律が真であることを前提しているから、つまり循環論に陥るからだというものだ。

根拠律は認識を可能にする条件としてそもそも存在している。そしてこの根拠律のほうは、因果律の側面について見ると、変化の基になる「物質」(実体)と、変化を引き起こす根源的な「自然力」によって支えられている。自然力は、自然法則に従って、原因-結果の系列を可能にする根本的な条件である。それはもはや物理学的に証明することはできず、ただ形而上学的にしか論じることができない。そのようにショーペンハウアーは言う。

ただし、こうした論法は、原理的には普遍性をもたない。根源的自然力が隠されており、私たちの知覚経験に与えられないとすれば、それが本当に存在しているかについて確かめることができないからだ。普遍性を保証するためには、ただ意識における現象のうちから、根拠律の本質的な構造を見て取らなければならない。

こうした現象学的方法に関して、ショーペンハウアーは惜しいところまで行っている。ショーペンハウアーは、主観に対して表象が「直接に現在する」とし、主観との関係でのみ客観は客観でありうると主張して、実在論を批判する。主観が無ければ客観も存在しない。この点を実在論は見落としているのだ。そうショーペンハウアーは論じる。

1.生成の根拠律

まずは、生成の根拠律について見ていこう。これは表象における原因-結果の系列を成立させるものであり、因果律のことだ。

ただ、ショーペンハウアーはこれを表象(イメージ)の水準で論じている。つまり、生成の根拠律は、物自体としての世界ではなく、意識における表象の現れ方に関わるものとして規定されているのだ。

主観に対する客観のこの第一類においては、根拠律は因果律として登場してきており、このような根拠律をわたしは生成の根拠律とよぶことにする。経験的実在性の複合体をなしている全体表象のうちに現われてくるすべての客観は、それらの諸状態の生成消滅にかんしては、したがって時間の流れの方向においては、この生成の根拠律によって相互に結びつけられている。

ショーペンハウアーによると、因果律には3つの形式がある。1つ目は原因であり、2つ目は刺激、3つ目は動因だ。

原因は無機物の変化を支配する作用であり、原因結果の量的変化の同一性を特徴とする。具体的には作用反作用の法則がこれに当たる。原理的に、作用する力と反作用する力はつねに等しい。

これに対して、刺激は有機物(植物、動物)の変化を支配する作用であり、作用と反作用がつねに等しいとは限らない。水をたくさんあげたからといって、植物がその分生長するとは限らない。あげすぎるとむしろ腐ってしまう、というようなことだ。

動因は、動物の生活の変化を支配する作用を指している。ここでいう変化は、意識的な行為のことを指している。動物はつねに何らかの目的に向かって動いている。そのためには目的を認識しているのでなければならない。動因は認識を介して、活動を引き起こす。この因果性のことを、ショーペンハウアーは動機づけと呼ぶ。

動機づけ=触発

動機づけと聞くと、モチベーションを上げることを考えるかもしれないが、ここでは、人間の意識が「触発」された結果、何らかの行為が引き起こされることを指している。これはショーペンハウアーに独自の概念というわけではなく、当時の心理学において使われていた概念らしい。

動機づけは要するに、人間の行為を、物理的・化学的な因果性に落とし込むのではなく、善や美といった諸価値により触発されるものとして考えることだ。

例えば、授業があるので学校に行く、好きなので告白するといった行為は、ちょうどベルクソンが批判したように、刺激-反応の系列に置き直して論じることはできない。ここでいう動機づけの概念は、人間の行為を、刺激-反応ではなく、条件-帰結の触発関係として捉え直す観点だと言っていい。

因果律を適用するには習得しなければならない

原因-結果の結合関係における表象は、根源的な自然力に促され、自然法則の形式を取って現れてくる。だが表象の結合関係は、最初から理解できるわけではない。感覚は悟性により直観へともたらされる必要があり、直観に因果律を適用するには、訓練と経験を積む必要がある。

第一に、視覚像は、左右の眼の網膜に別々に映っている像をひとつに統合する働きにより、一個の像として現れる。眼は方向や明暗といった空間認識のための「ニュアンス」を悟性に与える。したがって、それまで眼が見えなかったひとが、手術によって視力を得た直後は、視覚による対象認識を行うことができない。

チェセルデンの盲人が、なかにさまざまな対象物のある自分の部屋をはじめて見たとき、彼はそれをぜんぜん区別ができず、ただなめ一つのものから成っている全体についてのような全体的印象しかもたなかった。その部屋を、滑らかで、さまざまな色がついている平面とみなしたのである。さまざまな物が互いに分かれ、また違った距離にあり、相前後してずれているのを認識することなど思いもよらなかった。

カントは『純粋理性批判』で12個の「カテゴリー」(悟性を規定する形式)を示していたが、ショーペンハウアーいわく、ただ因果律の把握のみが悟性のカテゴリーである。カントは知覚が因果律に先行すると論じたが、因果律が悟性による直観を可能にしており、一切の経験に先立っていることを見落としている。

因果律は知覚経験を繰り返すことで習得されるという指摘は、確かに適切だ。

ただ、ここでショーペンハウアーは、「因果律が経験一般を可能にしているので証明することはできない」と言ってしまっており、独断的な議論だ。その理由については、先ほど書いたとおりだ。

2.認識の根拠律

次に、認識の根拠律について見ていこう。これは判断を成立させる条件一般のことだ。

この根拠律の意味するところは、判断がひとつの認識を表現すべきであるならば、それはじゅうぶんな根拠をもたねばならないし、判断はこの特性によって述語を真なるものとしてもつことになる、ということである。

判断は、これはこうである、という仕方で概念同士を結びつけることだ。認識の根拠律は、判断が何らかの認識を表す場合には、十分な根拠をもたなければならないというものだ。

ショーペンハウアーによると、判断の根拠に応じて、判断のもつ「真理」には以下の4つがある。

  • 論理的真理
    • 三段論法などの形式的論理
  • 経験的真理
    • 経験判断を根拠とする
  • 先験的真理
    • アプリオリな綜合的判断(経験に関わらず、つねに成立する命題)
    • たとえば「3×7=21」、「原因なしに何かが生じてくることはない」など
  • 超論理的真理
    • 思考そのものの原理(同一律、排中律、矛盾律、充足律)

ショーペンハウアーは、先験的真理と超論理的真理は類似関係にあるという。

先験的真理は経験認識の可能性の条件であり、超論理的真理は思考の形式的条件だ。後者は、思考の可能性そのものを規定している。たとえば同一律(a=a)は、それが無ければ、そもそも判断一般が成立しない。超論理的真理が思考の原理とされるのはそのためだ。

3.存在の根拠律

存在の根拠律は、ショーペンハウアーによると、空間・時間が互いに規定しあう法則性のことをいう。意味が分からないかもしれないが、要は、数学における法則・公理系のことだ。

計算によって導かれる解は、その操作を通じて、数の系列を作りあげる。たとえば、7×3=21という式を考えると、21は7と3によって規定されており、7と3も、それ以前の別の数によって規定されている(a×b=ab、a÷b=ab というように)。また、このように導かれた解は、次の計算に影響を与えるという仕方で規定している(ab×c=…)。

要は、数の相互制約の系列が、解の系列をなしていることを、存在根拠という概念で呼んでいるのだ。

ショーペンハウアーによると、幾何学についても、算術と同様のことが言える。正三角形の内角がそれぞれ60度「なので」内角の和が180度「になる」わけではない。それは原因から結果が生成されるような関係ではなく、定理における制約から導かれてくる帰結だからだ。

そして、この制約をさかのぼっていくと、最終的には、直観に突き当たる。そのように見えてしまっている。どのような複雑な公理系であっても、この直観を出発点とする条件と帰結の系列に置き戻せる。これが存在根拠という概念で言わんとしていることの意味だ。

もちろん、存在根拠がこれほど容易に認められるのは、ユークリッドの例の第六定理のような簡単な定理においてでしかない。しかし、どのような定理、いかに複雑な定理においても、存在根拠は提示され、その定理の確実性はこうした単純な直観に還元されるのでなければならないとわたしは確信している。

4.行為の根拠律

行為の根拠律は、動機づけの法則のことを指している。

先にショーペンハウアーは、生成の根拠律について、動因は原因、刺激と異なり、動機づけとして働くと論じていた。動機づけは、主観の内的な因果性のことを指している。

ここでショーペンハウアーは、主観を次のように規定している。

認識主観は意欲の主体だ。それ自身が客観的に認識されることはない。というのも主観は認識の条件であって結果ではないからだ。

私たちはつねに意欲する。意欲は私たちにとって、最も直接的なもの、それ以上遡行することのできない底板であり、他の認識を生成する条件なのだ。

われわれの内面に目を向ければ、われわれはつねに意欲するものであることがわかる。しかし、意欲にはきわめてささやかな願望から激情にいたるまでのさまざまな段階がある。情動だけでなく、われわれの内面のあらゆる動き―これらは感情という広い概念に含められる―も意志の状態であるということを、わたしはたびたび指摘してきた。

意欲の主体は自己意識に直接あたえられるものであるがゆえに、意欲とはなんであるかをそれ以上定義したり記述したりすることはできない。むしろ、意欲とはわれわれのあらゆる認識のうち最も直接的なものであり、しかも、その直接性が究極においてそのほかのあらゆる間接的な認識に光を投じるのでなければならない。

行為の根拠律は、他の3つの根拠律と同様に、条件と帰結を示す。だが、それらと異なり、行為の根拠律では、条件は人間の意欲であり、帰結は人間の行為となる。そこには量的な同一性も、知覚経験に先立つアプリオリな性格もない。なぜなら主観はそれまでの知覚経験を踏まえて、動因の吟味検討を行うからだ。

学問の基礎としての根拠律

冒頭、ショーペンハウアーは、本論の目的は根拠律の考察を通じて、学問の基礎づけを行う点にあると言っていた。なので、ここは本論の締めくくりをなす箇所だ。

ショーペンハウアーは、4つの根拠律と諸学問の関連性を、以下のように規定している。

  • 存在の根拠律
    • 算術、幾何学といった純粋数学
  • 生成の根拠律(=因果律)
    • 応用数学(存在根拠に加えて)
    • 物理学
    • 化学
    • 地質学
  • 認識の根拠律
    • すべての学問
    • 特に植物学、動物学、鉱物学などの分類的学問
  • 行為の根拠律(動機づけの法則)
    • 歴史学、政治学、倫理学

存在根拠は、表象の相互規定関係のことを指している。命題や定理が体系的な連関をなしているのが純粋数学の特徴。

生成根拠(=因果律)については、表象の物理的連関を探求する学問がここに該当する。因果性、変化作用といった事象を扱う。

認識根拠は概念同士の結合関係を指している。なのでここには、概念を分類し体系化する学問が当てはまる。だが学問は一般に、概念の関係により成立しているので、すべての学問は多かれ少なかれ認識根拠に関係している。

以上の3つと異なり、動機づけの法則に基づく学問は、人間の意欲が動因として働き、何らかの結果を引き起こすというプロセスに着目するものだ。

私たちはしばしば、意欲は主観的なので、そこに客観的な法則を規定することはできないと考えてしまう。だがショーペンハウアーはそう考えない。

知覚対象の性質が異なれば、それを学的に考察する際の根拠もまた異なるものとなる。歴史学や政治学、倫理学においては、因果連関や連結関係を規定するのではなく、人間の意欲における条件とその帰結から、動機づけの共通構造を規定するのでなければならない。それを自然科学(数学、物理学、分類的学問)にとっての根拠律に基づけようとするから、客観性を保証できないように見えてしまうのだ。これはフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』における、自然主義的態度に対する批判を先取りするような議論だと言っていい。

根拠の本質洞察

以上、4つの根拠律について見てきた。さほど明瞭とは言いがたいので、再度それらを振り返っておこう。

  1. 生成の根拠律
    • 因果律
    • 原因-結果の関係
  2. 認識の根拠律
    • 判断の形式的条件
    • 概念を結びつける判断の根拠(三段論法、排中律など)
  3. 存在の根拠律
    • 数学の定理
    • 解の相互連関・連鎖
  4. 行為の根拠律
    • 動機づけの法則(意欲)

本書でショーペンハウアーは、カントの認識論の観点から、ドイツ観念論における形而上学を批判しつつ、根拠について論じてきた。その主なポイントは、原因-結果の因果関係と条件-帰結の相関関係を区別した点にある。

一般的な意味における因果関係は、生成の根拠律にしか当てはまらない。幾何学の定理や人間的行為については、別の観点からのほうが適切に論じることができる。そうショーペンハウアーは主張していた。

このショーペンハウアーの洞察を、どのように考えればいいだろうか。

確かに感受性が関わる事柄については、因果性の観点から論じることは難しい。ある音楽や小説が、つねに同じ感動を呼び起こすとは限らない。昔は好きだったのにいまはそうでもない、あるいは、初めはそんなに好きではなかったものが次第に好きになってくることはよくある。

本書でショーペンハウアーは、根拠律が知覚経験以前に、それを可能にしていると論じていた。ただ、根拠律と知覚経験の関係自体、知覚経験を振り返ることで、初めて普遍的な仕方で見て取れるわけだから、ショーペンハウアーの主張は、カントの議論と同様に独断的だ。しかし、それでもなお、ドイツ観念論の伝統が残るなか、物理的な因果関係と、意味的・価値的な意欲の動機づけに対する区別を置いた点は、なかなか優れた洞察だ。