ルソー『人間不平等起原論』を解読する

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → ルソー『人間不平等起原論』を超コンパクトに要約する

『人間不平等起原論』は、ジャン=ジャック・ルソーの著作だ。1754年に執筆され、1755年にオランダで出版された。

本書はタイトルどおり「不平等」について書かれたものだ。ルソーは本書で、「社会のうちで弱者が強者に従属し、しかも弱者が望んでそうするようになった過程は何か?」という問いを置き、これに関する原理論を行っている。

この論文のなかで問題になるのは正確にいって何であるか。事物の進歩のなかで、暴力についで権利が起り、自然が法に服従させられた時期を指し示すこと、それから、いかなる奇蹟の連鎖によって、強者が弱者に奉仕し、人民が現実の幸福と引き換えに想像上の安息を購うことに決心したのかを説明することである。

以下で見るように、『人間不平等起原論』は、人間社会のうちに不平等が現れてこざるをえない理由と条件についての仮説であり、まさにこの不平等を解決するための原理を示すことを目的として『社会契約論』が著された。『社会契約論』の冒頭でルソーは次のように言っていた。——私は強者と弱者の不平等がどこから生じてきたかを言い当てることはできない。しかしこの不平等な社会をいかにして正当なものとなしうるかについては、私はその原理を示すことができる、と。

その意味で『人間不平等起原論』は、『社会契約論』の前提段階としての意味をもっていると見ていい。

『社会契約論』はこちらで解説しました → ルソー『社会契約論』を解読する

ここで提示するのは「仮説」だ

初めにルソーは、ここで不平等の起原を考察するといっても、動物的なヒトの段階から考察するわけではない、と注意書きを置く。

私は現在と同じ構造の人間を想定し、彼から一切の人為的な能力を取り去ってみる。以下では、そうして描かれた人間像にもとづいて、不平等が現れてきた過程についての仮説を置いてみたい。

人間はどの時代でも、今日私の目に映ずるのと同じ構造であって、二本の足で歩き、われわれがやると同じようにその手を使い、自然全体にその視線を向け、広大な空の拡がりを眼で測っていたものと仮定しておこう。

私はここで、社会の不平等は万物を創造した神が望んだとは考えない。その代わりに、ただ人間がそのものとして存在しているならば人間社会がどのように進んでいくかについて推理・推測してみたい。そうルソーは言う。

つまりルソーは、人間社会についてのひとつの仮説を置く、とここで宣言しているのだ。それゆえ、実証的でない(非科学的だ)とか、仮説にすぎないといった批判は適切ではない。なぜならルソーはまさしくそのようなものとして議論を行っているからだ。

われわれがこの主題について追求できる研究は歴史的な真理ではなく、ただ臆説的で条件的な推理だと見なさなければならない。

もし人類が自分だけですておかれたとしたら、彼らはどうなっていたろうかということについて、人間とそれをとりまく存在との自然〔本性〕だけをもとにして推測を立てることは、宗教もこれを禁じてはいない。これこそ私が求められていることであり、私がこの論文で検討しようとしていることである。

岩波文庫の紹介文には、あたかもルソーが、自然状態が現実に存在していたと考えていたかのようにあるが、それは間違っている(紹介文はこちら。「かつて人間は不平等のほとんど存在せぬ自然状態にあったが…」とあるが、ルソーは自然状態を実体化したのではなく、ひとつの仮説として想定したにすぎない)。

自然状態については、こちらでも解説しました → 「自然状態」って何ですか?

ルソーは、この世界は神によって創造されたとするキリスト教の考え方をいったん棚上げし、ただ人間の本質契機をもとにして、人間が相互に関係することがどのような過程を作り出し、そしていかなる帰結に達するかについて原理的な考察を行う。この手続きの優位は、『市民政府論』におけるロックの議論と比較するとハッキリと分かる。

ロックの『市民政府論』はこちらで解説しました → ロック『市民政府論』を解読する

自然状態ではみんな平等なのに

ルソーは次のように言う。

そうした前提の観点からすると、人間は本来相互に平等だ。

ただし人間には身体的な不平等が存在する。年齢、健康、精神の差などがこれに当たる。これは自然に規定される不平等であって、無くすことはできない。それゆえ私が不平等を問題にするときには、社会的不平等のほうを指している。社会的な不平等は政治的な不平等であり、これは約束にもとづき合意によって定められるものだ。

その平等が失われてしまっている。それはなぜか?人びとが生活の知恵を身につけたからだ。自然は人間に対して厳しく振る舞う。つまり強者だけが生き残り、弱者は滅んでしまう。しかし住まいを得ることによって人びとは堕落し始める。そうして人びとの間の差異が次第に拡大してしまうのだ。

自然生活の人間の心は平和で、かつ身体は健康だ。ひとびとはの間に従属関係は存在しないし、闘争状態も存在しない。なぜなら彼らには憐れみの情(憐憫)が備わっているからだ。したがって強者による法律も存在しない。

従属のきずなというものは、人々の相互依存と彼らを結びつける相互の欲望とからでなければ形成されないのだから、ある人を服従させることは、あらかじめその人間を他の人間がいなくてはやっていけないような事情の下におかないかぎり不可能である、ということは、だれでも知っているにちがいない。このような状況は自然状態には存在しないから、そこではだれでも束縛から自由であり、強者の法律は無用になっている。

「憐憫の情」と相互配慮状態

人間には憐れみの情があり、それが自然状態を根本的に規定している。したがって自然状態は闘争状態ではなく、いわば“相互配慮状態”と想定できる、とルソーは主張する。

この点においてルソーはホッブズを批判する。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争」として描いたが、自然状態では、たとえ身体的な不平等が存在していても、苦しんでいる他人への「憐憫の情」が各人に備わっているはずなので、かれが他人を犠牲にしつつ自分のエゴイズムを押しつけることはない。そのことを見逃したホッブズは誤っている、と。

あわれみが一つの自然的感情であることは確実であり、それは各個人における自己愛の活動を調節し、種全体の相互保存に協力する。他人が苦しんでいるのを見てわれわれが、なんの反省もなく助けにゆくのは、この憐れみのためである。また、自然状態において、法律、習俗、美徳のかわりをするものはこれであり、しかもその優しい声にはだれも逆らおうとしないという長所がある。

この点でルソーとホッブスを比較してみると、ルソーのホッブズ批判にはかなり無理がある。

ホッブズは『リヴァイアサン』で、求める対象が限られているとき、人びとはそれをめぐり競争と相互不信の状態に陥ってしまい、これをきっかけに闘争状態が生じてしまうと言っていた。つまりホッブズは稀少性の問題に着目したのだ。現代社会でも稀少性の問題はいたるところに確認できる(たとえば資源問題)。問題の取り出し方はとても適切だ。

これに対して、ルソーの相互配慮状態は、稀少性の問題が存在しないところで成立しうる状態でしかない。

『リヴァイアサン』はこちらで解説しました → ホッブズ『リヴァイアサン』を解読する

生活の知恵が不平等の理由

ルソーいわく、社会的な不平等は次のようなプロセスで広まっていく。

生存の配慮 → 生活の知恵 → 自尊心と競争 → 契約の概念 → 家族と私有財産 → 共同体と分業 → 不平等

  1. 人間の初めの感情は自己の生存に対するものであり、初めの配慮は自己の生存に対する配慮だ。この頃は家族は存在せず、男女が共同生活を営むことはない。
  2. 人類が発展していくにつれて、自然の力が人びとに苦痛をもたらすようになる。その苦痛を回避するために人びとは生活の知恵を身に付ける。
  3. それによって人びとは他の動物に対して優越し、自尊心を手に入れる。この自尊心によって人間は相互の競争関係に入る。
  4. 人びとは利害関係と競争関係を区別できるようになる。つまり相手からの援助に頼らなければならない場合と、相手を警戒しなければならない場合とを区別できるようになる。このとき彼は契約がもつ利益についての知識を得る。
  5. 人びとは道具を発明し、斧と粘土によって小屋を立てる。これが家族の成立の起原だ。私有財産が導入されるのもこの時代だ。
  6. 人びとが習俗と性格によって結ばれ、それによって共同体が生まれる。そこでは各人にとって尊敬を受けることが価値あることになる。これが不平等への第一歩だ。
  7. 分業が始まると、それまで保たれていた平等は消滅し、代わりに貧困と不平等が現れてくる。

私有が認められると各人はルールを設立してみずからの財産を守ろうとする。それと同時に、自分がするかもしれない不正に対する相手からの仕返しを心配するようになる。

ここで自尊心は利害意識に目覚め、みずからを虚飾するようになる。欺瞞、策略、悪徳が現れると同時に、他人を犠牲として利益を得ようとする欲望が現れてくる。

一方では競争と対抗意識と、他方では利害の対立と、つねに他人を犠牲にして自分の利益を得ようというひそかな欲望。これらすべての悪が私有の最初の効果であり、生れたばかりの不平等と切り離すことのできない結果なのである。

強者と弱者は、みずからの力を他人の財産に対する権利と同一視するようになり、それによって横領と略奪が現われる。そして彼らと初めの所有者との間に紛争が起こり、社会全体が闘争状態に陥ってしまう。こうして社会的な不平等から無秩序が現れてくるのだ。

強者が自分に都合のいいルールを作る

強者はすぐに、そうした闘争状態が自分にとって不利益であることを知る。そこで彼らは、自分にとって都合のいいルールを制定し、それを弱者に吹き込む。こうして法律が生まれる。つまり法律は初め強者の側から制定されるのだ。

この法律によって、弱者はより弱く、強者はより強くなる。自由は打ち砕かれ、不平等は固定化される。一握りの強者のために、弱者は貧困の状態に屈服させられてしまう。憐れみの情は、もはやどこにも見られない。

専制政治において不平等は頂点に達する

ルソーいわく、社会はごく一般的な約束(いわゆる「暗黙の了解」も含む)によって成立する。各人は約束を守ることを同意し、全体がその約束を保証する。しかし抜け駆けやズルをするする人たちによって、約束は簡単に破られてしまう。そのことを経験によって教えられた人びとは、ある特定の人びとに公権力を保護する役割を委託し、自分たちの間の議決を守らせる役割を委任するようになるはずだ。

この意味で、人びとが政府を置いたのは自由を守るためであり、彼らがルールを設定した理由も同じだ。たとえ実態がどれだけそこから離れているとしても、このことは人びとが政府を置きルールを設定した根本の理由、それらの本義を否定するものではない。そうルソーは言う。

人民たちが首長を自分たちのために設けたのは、自分たちを奴隷とするためではなく、自分たちの自由を守るためであったということは異論のないところであり、またそれは、一切の国法の根本的な格率である。

そうすると専制政治が自発的に設立されたとする見方は誤っていることが分かる。専制権力は政府の本来の目的に反する。それゆえ専制権力は非合法だ。専制権力は社会における法律の根拠にも、社会の不平等を解決するための根拠にもなりえない。

そのような権力は政治の腐敗、その行き着く極限にほかならず、結局は政府をただ一つの最強者の法にまで導く、ところが最初はそれを救済するものとして政府が創られたものだったはずである。なおその上、たとえ政府がそのようにして始まったものとしても、この権力は本来非合法であるから、それは社会のさまざまな法に対しても、従ってまた制度の不平等に対しても、基礎として役立つことができなかったのである。

法律の制定によって導き入れられた不平等は、専制政治において終極点に達する。正義の原理は消え去り、万人がふたたび平等となる——最強者に服従することにおいて。

以上、ルソーの提示した仮説をまとめると、大体次のような感じだ。

人びとは互いに同意して、国家を作る約束を結ぶ。しかしその約束には強制力がないので、実効性をもつことはできない。そこで人びとは、政府を設立しルールを置くことで、互いの自由を制度的に保障しようと試みる。政府や法律はそのようなものとして設定されたはずだ。しかし強者は自分に都合のいいように、それらを設定する。その究極的な結果は、君主を頂点とする巨大な三角形のピラミッドだ。しかしこうした権力は正当なものとはいえない。

君主もまた力で打倒されうる

ルソーによれば、君主もまた力によって打倒されうる。なぜなら人びとが政府を設立するために結ぶ約束は、専制主義によって否定されてしまっているからだ。

専制主義は、人びとの初めの同意、各人の自由を保障するために政府を設立するという同意を否定することのうえに成り立つ。それゆえ君主は、最強者である間しか支配者ではないし、人びとによって追放されそうになっても、それに対して異議を申し立てる根拠をもたない。別の強者に倒されても何も文句を言う権利がないのだ。

ただ力だけが彼を支えていたのだから、ただ力だけが彼を倒させる。万事はこのように自然の秩序に従って行なわれる。

以上が本書の議論だ。

『社会契約論』の問いへ

本書でルソーは、不平等が現われ、それが社会全体に拡大していくプロセスについての仮説を示した。最初は偶然のものに過ぎなかった不平等が、強者による法律によって合法化されてしまうことで、強者と弱者の関係が固定化されてしまう。それを突き詰めると専制政治に行き着く。

ここまで見てくると、『人間不平等起原論』は『社会契約論』の問題設定とほとんど重なっていることが分かる。上で見たように、ルソーは専制政治が究極の不当な自然状態であるとしていたが、『社会契約論』は自然状態が立ち行かなくなったとき、いかにして正当な社会を実現できるかに関するひとつの構想だからだ。

なのでルソーは決して、人間社会はかつての自然状態、つまり憐憫の情があった時代へと回帰すべきだと言っているわけではない。文明批判の側面は確かにあるが、それ以上に、文明を廃棄して自然状態へ戻ろうとする試みが反動形成にすぎないことを分かっていた。そのことは『社会契約論』を見れば一目瞭然だ。

こうしたルソーの議論の進め方は、オーギュスト・コントとはまったく対照的だ。コントは『実証精神論』で社会の無秩序(アノミー)を解決するためには何よりも道徳を立て直す必要があると主張していた。だが、ルソーの原理からすれば、コントはそもそも問題の立て方を間違えている。

道徳で社会に統合をもたらそうとしても、そもそも道徳の内実は絶対的に規定できない。したがって、道徳は社会の不平等を隠蔽するか、それを表象的に否定するかのいずれかの方向に進まざるをえない。そのことは、ルソーに限らず、ホッブズ、ヘーゲル、ミルといった優れた哲学者の学説にも見られる考え方だ。