ルソー『社会契約論』を解読する

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フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712年~1778年)は近代哲学のなかでもホッブズやヘーゲルと並ぶ超重要人物だ。とくに本書『社会契約論』(1762年)は、哲学に大きな影響を与えただけでなく、フランス革命にも影響を与えたことからすると、近代社会の進み行き全般に影響を与えた著作だといっていいだろう。

もっとも、注目される著作であるからこそ、さまざまな解釈がなされてきたことも事実だ。「民主主義思想を基礎づけた」と肯定的に評価される一方、「ファシズム・恐怖政治の出発点だ」と否定的に評価されることも多い。哲学史を見渡しても、ここまで評価が真っ二つに別れる著作はめずらしい。

市民社会の「正当性の原理」は何か?

哲学書を読むときは、次の3点について確認するのが重要だ。問題は正しく設定されているか、解法が概念的に記述されているか、導かれた解答が問題を原理的に解明しているか。これらのチェックポイントがきちんと満たされていれば、多少妥当性をもたない記述が認められるとしても、それは哲学の水準に達しているということができる。枝葉末節をもって基本軸を批判するのはフェアじゃない(他にもっといい基準があれば教えてください)。

なぜわざわざこのことを強調するのかというと、ルソーに関してはこの点から外れたところで批判されることがとても多いからだ。フランス革命がロベスピエールらによる恐怖政治に終わったからといって、そのことはルソーの原理論とはほとんど関係がないのだ。

では、ルソーの問題設定は何だろうか。本書の冒頭でルソーは次のように述べている。

わたしは、人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして、取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則がありうるかどうか、を調べてみたい。

人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。

『社会契約論』のタイトルは、副題を含めると『社会契約論—または政治的権利の諸原理について』Du contrat social; ou, principes du droit politiqueというものだ。つまり本書は政治社会における正しさdroitについての原理論として著されたものだ。

市民社会の正当性の原理はありうるか。自由と平等の正当性の原理は何か。これから向かうべき市民社会の可能性の原理はどこにあるか。これが本書におけるルソーの問題設定だ。

上の引用でルソーが法律を「ありうべき」ものとして、政治上の法則を「ありうる」ものとして捉えていることは、細かいが大事なポイントだ。つまり、ルソーは現実の国家がどのような法律や規準に従っているかということを一旦棚上げして、まずは国家の正当性に関する構造を規定しようとする。

この考え方の順序はとても重要だ。現状は本質構造を規準として判断しなければならず、逆ではない。いくら現代の社会に矛盾があっても、そのことをもって近代社会そのものの理念を否定することはできない。なぜなら理念を判断基準とすることで初めて、何が矛盾であるかを判断することができるからだ。

一般意志の「正しさ」について質問をいただきましたので、こちらで解説しました → 一般意志はつねに正しい?

力は権利を生み出さない

ルソーは次のように言う。

「最強者の権利」なるものが唱えられることがある。これは最も強い力をもつ者が、他人に義務を課すことができるとする考え方だが、これは原因と結果を取り違えている。

確かに、ピストルを持っている人間に脅されたときには、自分の財布を差し出さなければ殺されてしまうかもしれない。しかしこのことは、ピストルを持っている人間には財布を差し出さねばならない義務があることを意味しない。

力は権利を生み出さないし、また人が従うべき義務をもつのは正当な権力に対してだけだ。そうした感度があるからこそ私たちは、ピストルによる脅迫は批判されるべきだと考えるし、弱肉強食の世界があってはならないと考えるのだ。

強いから権利をもつのではない。仮にそうであれば、脅迫にはいつでも従わなければならないことになる。しかしそんな義務はどこにも存在しない。実際に従っているとしても、それはあくまで自分の生命が掛かっているからにすぎず(反抗すれば殺される)、当の支配服従関係それ自体が正当だからというわけではない。そうルソーは言う。

社会契約=自由で平等な社会の原理

ここで次のような想定を置いてみよう。さまざまな障害のために各個人が自然状態のうちで生き続ける条件が満たされえない段階へと人類全体が到達してしまった、と。

もしそうした段階に至ってしまったならば、明らかに、自然状態とは異なる生き方を選ばないかぎり人類は滅亡してしまわざるをえない。それを回避するためには、各人は協力して、互いに力を結集する必要がある。

ここで次のことが根本的な問題として浮かび上がってくる。それはつまり、「各人が相互に自由で平等であるような社会は、一体何にもとづけば構想することができるのか?」という問題だ。

その原理こそ社会契約だ。

「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。

社会契約を結ぶことで、私たちは自分たちから自然的自由を奪い、腕ずくで何かを獲得できる権利を相互に制限する。その意味で社会契約は、各人の能力差を認めつつ、市民的自由と所有権を保障し、人びとの間に相互の平等をもたらすための条件である。

各人の能力差を認めつつ権利において互いに平等となる——社会契約こそ自由で平等な社会の原理である。

この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなくて、逆に、自然的に人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上および法律上の平等をおきかえるものだということ、また、人間は体力や、精神については不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということである。

「契約で成立した社会はない」という批判は無効

ホッブズの『リヴァイアサン』を解説したときにも触れたが、社会契約説の意義と画期性は、当時のオーソドックスだった王権神授説と比較するとよく分かる。王権神授説は、一切の造物主である神が人間を造り、人間たち(臣民)を代表する国王に権力を与えたとしていた。

対して、ホッブズとルソーは、神が人間を造ったとか、国王に対して権力を与えたという見方を、完全に否定する。そして、いまと同じ構造の人間たちを仮定し、かれらがどのような生活を営むかについてのプロセスについての仮定を置いているのだ。

「契約にもとづいて成立した原始社会など存在しない」とか、「実際には、国家と統治が契約から産まれたことはないし、契約によって統治が成立している訳でもない」とルソーを批判したつもりになっているひとがたまにいるが、その批判はポイントを外している。なぜならルソーは自然状態の存在や契約にもとづいて成立した社会が存在していたと主張しているわけではないし、社会契約を結べば即座に自由で平等な社会が実現すると言っているわけでもないからだ。

自然状態については、こちらでも解説しました → 「自然状態」って何ですか?

ここで吟味すべきポイントは「社会契約よりも優れた原理はないのか?」であって、社会契約によって成立した社会が歴史上実在したかどうかではない。くれぐれもこの点を見誤らないでほしい。

一般意志=市民社会の正当性の規準

社会契約を結んだ個々人は、みずからの身体と力を共同のものとして一般意志の指導のもとに置き、国家を作り上げる。このようにして作られた国家を共和国と呼ぼう。

一般意志とは、各個人の意志でもなければ、国王や政府の意志でもなければ、それらを全て集合させたものでもない。前者は特殊意志であり、後者は特殊意志の総和としての全体意志だ。

一般意志とは、人びとがフェアな関係のうちで、共通の利益、つまり国家を作った目的である公共の幸福(=自由と平等を社会的な水準で両立させること)を意識的にめがけることによって、次第に「熟成」していくものなのだ。

人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意志を少しも伝えあわないなら〔徒党をくむなどのことがなければ〕、わずかの相違がたくさん集って、つねに一般意志が結果し、その決議はつねによいものであるだろう。しかし、徒党、部分的団体が、大きい団体を犠牲にしてつくられるならば、これらの団体の各々の意志は、その成員に関しては一般的で、国家に関しては特殊的なものになる。

この一般意志の行使が、主権のことだ。

「市民感覚」が主権の魂

注意しておく必要があるが、ルソーにとって主権在民は「人びとは生まれながらにして主権をもっている」ことを意味しているのではない。

人びとが市民としての側面を失えば、主権もまた失われてしまう。一般意志がきちんと表明されているかをチェックすることを怠れば、人びとはもはや主権をもたず、市民ではなくなってしまう。そうルソーは直観していた。市民が公共の仕事に携わらなくなってしまったような国家は滅亡寸前だとか、市民感覚こそが「国家の真の憲法」だと主張しているのはまさにそのためだ。

ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや、国家はすでに滅亡の一歩前にある。

他の法が老衰し、または亡びてゆくときに、これにふたたび生命をふきこみ、またはこれにとって代るもの、人民にその建国の精神を失わしめず、知らず知らすのうちに権威の力に習慣の力をおきかえるものである。わたしのいわんとするのは、習俗、慣習、ことに世論である。

正当な国家=法治国家

続けてルソーは次のように論じる。

正当な国家統治は、ただ法にもとづいてのみ行われる。したがって法治国家のみが正当である。なぜなら法の対象は、特定の対象や個人ではなく、一般的なものであり、それゆえ法は本質的に公共の利益を目指すからだ。

ではなぜ法が公共の利益を目指すのか?それは市民に「立法権」が属するからだ。国家は自己を保全するために立法しなければならないが、国家にそうした方向づけを与えるのは一般意志である。政府が立法する権利をもつわけではない。

法治国家は、一般意志を反映している法律に基いて統治が行われている場合に限りにおいて正当と見なすことができる。一般意志にもとづいてない法律を施行し、それによって人民を抑圧的に扱っているような国家は正当ではない。そうルソーは言うわけだ。

政府は主権者の「代理人」でなければならない

立法権が人民に属する一方、「執行権」は政府に属する。

政府は主権者に代わって政治行為を行う存在だ。しばしば政府は主権者と混同されるが、政府は主権者の代理人であり、公僕にすぎない。それゆえ政府の意志は主権者の意志(一般意志)にもとづいていなければならず、政府は一般意志に従って執行権を行使しなければならない。

一般意志にもとづいた政府の政治行為のみが、統治の名に値する。一般意志がなければ政府は存立しえない。仮に存在しているとしても、一般意志にもとづいていなければ、それは不当だ。

国家と政府、この二つの団体には、次の本質的なちがいがある。つまり、国家は自分自身で存在するのに、政府は主権者がなければ存在しない。だから、統治者の支配的な意志は、一般意志、あるいは法に他ならず、またそうでなければならない。

「政府はつねに一般意志を表明しているので、政府はつねに正しいとルソーは言う。ルソーは政府による独裁、全体主義を擁護しているのではないか?」こうした批判は単純な誤解だ。

投票によって一般意志が表明される

ルソーは執行権が政府に属すると主張する。では人びとが共通の利益をめがけて主権にたずさわるとは具体的にどのようなことを指すのだろうか?これについてルソーは次のように言う。

人びとが統治に直接に参加することが主権にたずさわることなのではない。統治は政府に任せられるべき仕事だ。代わりに、投票によって提案された法律が一般意志にかなっているかに関して答えを与えることが、市民の果たすべき役目だ。

ある法が人民の集会に提出されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているかいなか、ということである。

気をつけなければならないが、ルソーは「多数者=一般意志、少数者=特殊意志」と言っているのではない。全体としての投票結果それ自体が一般意志の現われである、と言うのだ。

それゆえ、一般意志が表明されるためには、一般意志をつねに表明するような投票制度を規定すること、つまり選挙制度に透明性を確保する必要がある。正当な投票制度が確立している場合にかぎって一般意志は表明されうるからだ。

賄賂や汚職などによる不正選挙がまかり通っている場合、一般意志を表明することはできない。不正な選挙が行われている国家は、たとえ形式上は民主主義体制であるとしても(北朝鮮にも選挙制度はあるにはある)、内実としては独裁国家や全体主義国家だと言わねばならないのだ。

民主主義の原理を示したルソー

中心軸を取り出してみると、ルソーはファシズムや全体主義を擁護したと見るよりも、社会契約の概念と一般意志の原理によって正当な市民社会=民主主義社会の原理について考察したとするのが、おそらく妥当だろう。

ホッブズも『リヴァイアサン』で市民社会の原理について考察を行ったが、原理の深さではルソーのほうが上回っている。

ホッブズとルソーとも、相互に等しい人間同士が国家を構成しているという見方を打ち出した点では共通している。『リヴァイアサン』を解説したときにも触れたが、これはキリスト教がいまだに強い勢力をもっていた時代においては、とても先駆的かつ“危険”な世界観だった。『リヴァイアサン』は当時のイギリスで危うく発禁処分となりかけたし、『社会契約論』は絶対王制下のフランスで発禁処分となった。社会契約説は、王権神授説に基づく当時の政治体制にとってきわめて重大な脅威と映ったのだ。

ルソーは、市民社会は、人びとが投票によって表明した一般意志にもとづき、一般意志の指導のもとで運営されねばならないと考えた。人びとが政府を作る第一の目的は、自分たちの自由をみずから確保することにある。この目的が市民社会の動因であり、そのためには投票を通じて、一般意志がよりよく政治に反映されるよう積極的にチェックしなければならない、と。

個人は国家の単なる構成員ではない。個人は市民として、相互に自由を保障することが国家を作った第一の目的であることを忘れず、自分の利害(特殊意志)をこの目的(一般意志)に優先させないよう、つねに意識しておく必要がある。さもなければ主権は形骸化してしまう。この観点はホッブズには見られないものだ。

実効性と正当性を混同しない

「統治の実効性は結局のところ力によって支えられているのだから、社会契約そのものが力に支えられているのでは?」

確かに、力がなければ統治を維持することができない。ただそのことと、その統治が果たして正当なものといえるかについては、全く質の異なる問題だ。社会契約それ自体が実効性をもたないことについては、ルソーは百も承知していた。『人間不平等起原論』ではこう言っていた。

社会はまず、ただ若干の一般的な協約だけから成立したのであって、すべての個人がこれを守ることを約束し、彼らの各々に対して共同体がその協約の保証人となっていた。そのような組織がいかに薄弱であったか、また、公衆だけがその証人であり、裁判官でなければならなかったような過失に対する証拠や処罰を免れることが違反者にとっていかに容易であったか、それを経験によって教えられたにちがいない。人々はいろいろなふうに法網を潜ったにちがいない。そして不便と無秩序とがどこまでも殖えていったので、ついには人々は公権力の保管という危険な役目を幾人かの個人に委託しようと考え、そして、人民の議決を守らせる仕事を為政者に委任するにいたったにちがいない。

約束だけでは社会秩序は確保できないこと、それゆえ自由で平等な社会の道は閉ざされていること、このことをルソーはハッキリと認識していた。そのためには力がいずれにしても必要となる。ルソーにとっての問題は、その力が正当であるかどうかであって、一般意志はその正当性の根拠として取り出されたものにほかならない。

実効性という点で言えば、クーデターによって政権を得た場合でも、権力としては確かに実効的だ(強大な軍事力を備えていればいるほど、実効性は増す)。しかし正当性という観点からすれば、一般意志を取り出すための主要な手段である選挙によらず、軍事力によって政治権力を強奪したわけだから、それは明らかに不当だと言わねばならない。これは別に特別なことではなく、言われてみればごく当然のことではないだろうか?

一般意志のグローバル的展開

ルソーを受け継いで考えるべき問題を提示するとすれば、それは一般意志をグローバルな水準で拡大できるかというものだ。

ルソーは一般意志を一国家の原理として考えていた。これは時代的な制約からすると仕方のないことだ。しかし現代はグローバリゼーションの時代であり、自由と平等の両立は国際的な視点で考えなければいけない。先進国と発展途上国の間の格差はたえず拡大している。いくら一国家で考えていても、それだけでは足りない。一般意志をグローバル化した現代社会に適用するためには、それに合わせたアップデートが必要だ。この問題はとても困難だが、取り組むべき価値はあるはずだ。