パタンジャリ『ヨーガ根本聖典』を解読する

Photo Credit: Jean Henrique Wichinoski (CC BY-SA 2.0; modified)

『ヨーガ根本聖典』は、サーンキヤ学派やヴェーダーンタ学派と並ぶ、古代インド哲学の一派であるヨーガ派の基本テキストだ。2~4世紀頃、パタンジャリによって編纂された。別名『ヨーガ・スートラ』『ヨーガ根本教典』とも。

ヨーガ=解脱のための具体的な方法

ヨーガと聞くと、普通はおそらくホットヨガやマタニティヨガをイメージするだろう。だが、何もヨーガ派の人たちは健康になりたいと思って修行していたわけではない。彼らにとっての問題は、どうすれば業と輪廻から解脱することができるかにあった。彼らは次のように考えていた。

苦の原因は無知による。私たちは普通に生活していると対象に固着・執着してしまう。それによって心の安定が失われてしまい、業と輪廻から解脱することができなくなってしまう。そのためにはまず無知を脱する必要があるが、そのためにはただ考えているだけではダメで、座法や呼吸法など、具体的な方法を用いなければならない。

こうした流れのなかでヨーガは生まれてきた。ヨーガをすると確かに気分が落ち着くが、ヨーガ派の人たちはその先に解脱があると考えていた。ヨーガとは、業と輪廻から解脱するための具体的な修練法として編み出されたものなのだ。

ヨーガ=解脱するために心の働きを滅すること

パタンジャリは次のように言う。

ヨーガとは、心の働きをなくすことであり、心が安定した状態(すなわち三昧)のことを指している。この状態を実現することが解脱のために必要となる。

心の働きには煩悩によるものとそうでないものがある。それらはただ修習(心の働きを静止するための努力)と離欲によってのみ消滅させることができる。

完全に心の働きを静めるためには、肉体を離れるか、もしくは現象のもとになる根本原質のうちに“没入”することが必要だ。これが難しくても、ヨーガを行うひとは信念を忘れずに熱意をもって努力する必要がある。なぜならそうすれば三昧の状態になり真知が生まれてくるからだ。

真知とは、純質・激質・翳質の三要素からなる原質と、真我とが全くの別物であることについての知だ。この真知に達したときに初めて、私たちは解脱に至ることができる。したがって完全に心の働きを静められなくても、ヨーガによって解脱は可能なのだ。

最高神(=オーム)への祈りも必要

パタンジャリによれば、こうした努力のほかにも、最高神への信仰によっても無想三昧に近づくことができるとされる。

最高神とは潜在余力をもたない真我であり、オーム(聖音)によって表わされるとされる。したがって最高神とは具体的な人格神ではなく、純粋に抽象的な神(理神論的な神)のことを指している。

ヨーガを行う人は最高神へと心を向けることの修習を行うべきだ。修習の方法には、たとえば慈悲喜捨(友情、哀憐、喜び、中立心)や最適な呼吸法を行ったり、憂いを離れたりすることなどがある。それらを行うことによって、ヨーガを行う人は心の散乱を抑え、最高神へと心を向けることができるようになる。

それ(心の散乱)を阻止するために、一つの実在(最高神)(に心を向けること)の修習が(なされるべきで)ある。

幸福な者に対しては(妬みのない)友情(すなわち慈)を、苦しんでいる者に対しては哀憐(すなわち悲)を、善行者に対しては喜び(すなわち喜)を、悪行者に対しては(怒りのない中立の心である)無関心(すなわち捨)を修習することによって、(ヨーガ行者の)心は静澄になる。

「識別知」によって苦を取り除く

私たちはヨーガを行うことで未来の苦を捨てることができる。ではそもそも苦の原因は何だろうか?それは真我、すなわち見るものと、思考へともたらされた対象のあり方、すなわち見られるものとが結合することにある。この結合は倒錯した知が残した潜在的な印象、すなわち無知によって引き起こされる。

したがって、無知を識別知によって取り除けば、苦もまた取り除かれる。

ただし識別知は考えれば得られるわけではない。それは禁戒、勧戒、坐法、調息、制感、凝念、禅定、三昧の8つの段階の実修を積み重ね、無知をなくすことで初めて得ることができる。

禁戒とは、生命を殺さず、嘘をつかず、財を盗まず、禁欲し所有をもたないことを指している。また勧戒とは、心身の清浄、必要以上のものは求めないこと(知足)、苦行、最高神の信仰を指している。それらに加えて、最適な坐法、呼吸法、心の制御を行うことによって、識別知を得ることができる。

そのとき私たちの心は純質となり、心と真我との区別を見ることができる。

ただし、この過程において私たちは自我をもってはならず、ましてや識別知を得ることや解脱することを欲してはならないことに気をつけなければならない。そうした自我意識や欲望は煩悩であり、解脱の障害でしかないからだ。

知に対して何の益も求めない者にだけ識別知が生じ、そこから法雲と呼ばれる三昧が起こってくる。そして、これによって煩悩と業は消滅し、生きながらにして解脱にいたるのだ。

具体的な方法論として生み出されたヨーガ

こうして見てくると、現在私たちがイメージするヨーガは、本書で描かれているものからかなりの変遷を経て今の姿になったことが分かる。いまでは東洋的な健康法のひとつとして実践されているヨーガは、解脱のための技術として編み出されたものだった。

このことを当時の時代に置き直してみると、それはそれで事情がよく分かる。

サーンキヤ体系では精神原理が世界の展開するさまを認識することが、解脱のための条件とされていた。しかし私たちがそうした認識にどうすれば達することができるかについては教えてくれない。ヨーガ派からすれば、この点でサーンキヤ学派の議論は具体性に欠けている。

サーンキヤの思想についてはこちらで解説しました → イーシュヴァラクリシュナ『古典サーンキヤ体系概説』を解読する

ただし、念のために言っておくと、一般的に言って今日では業も解脱もリアリティをもたない考え方である。それは一部の人にとっては強い信仰の対象になるかもしれないが、自然科学のもつ強力な普遍性の前では決してメインストリームにはなりえない。

だが、そのことをもってヨーガの思想を一刀両断することは、あまり正当とは言えない。過去の思想を解釈し評価するときには、その思想の当時の意味を受け取ることが重要だからだ。

本書に限らず、その時代にどのような問題があり、それを解決するためにどのような原理に基づいて、いかなる方法を考案したのかという点を見なければ、インド思想を読んでも得られるものはほとんどなく、ただの「お勉強」に留まるだろう。