ナンシー『無為の共同体』を解読する

本書『無為の共同体』は、フランスの思想家ジャン=リュック・ナンシー(1940~)による著作だ。1983年、「アレア」という雑誌に投稿され、モーリス・ブランショが『明かしえぬ共同体』を書くきっかけになったことで知られている。

ナンシーはフーコー、ドゥルーズ、デリダの後の世代をリードするポストモダン思想家の一人であり、数多くの著作を残している。主著には以下で確認する『無為の共同体』のほか、『エゴ・スム』、『声の分割』などがある。ラクー=ラバルト(1940~2007)との共同研究でも知られている。

ポストモダン的世界像に回収されない思想の「核」があるかどうか

本書はとても読みにくい。ただ表現自体は決して難しくない。ドゥルーズのように、議論の中心軸をズラすことで読者を混乱させるような書き方はしておらず、その点に問題はない。ではなぜ読みにくいのかというと、ナンシーがハイデガーの実存論に対して独自の表象(イメージ)を対置させているからだ。ナンシーが何を言わんとしているかは、そのイメージを解釈することで推論するしかない。もっとも、こうした構造はフランスのポストモダン思想の特徴であって、ナンシーに固有というわけではない。

ポストモダン的世界像に合わせて読めば、本書のポイントはシンプルだ。

近代は共同体の解体と主体の設定から出発したが、それは民主主義の顔をした全体主義とファシズムに行き着いた。そのことはヘーゲル的国家の暴力性のうちに示されている。近代では個人の生の意味は死をもって完成され、一個の「作品」として共同体に回収されてしまう。すなわち、近代において生の意味は、共同体への自己犠牲を尺度として測られてきた。だが、そもそも主体が共同体を作り上げているわけではないし、共同体は作品を生み出す活動、企て(プロジェクト)ではない。むしろそうした「有為」を解体する「無為」のうちに、共同体は成立する。ナンシーの議論をポストモダン流に受け取ると、大体そのようになる。

だが以下では、こうした反体制・反近代を前面に押し出す読み方とは異なる仕方で読んでみたい。というのも、率直に言って、主体の解体とか近代の脱構築といった使い古された観点から見たところで、いまさら本書から得られるものはほとんど無いからだ。なので以下では、ポストモダンの一般的世界観に回収されない思想の「核」があるかどうかという観点から、本書の議論を見ていくことにしたい。

共産主義と共同体

初めにナンシーは、共産主義(コミュニスム)という語に着目して、共産主義は初め、共同体(コミュノテ)の可能性を示す試みとして現われてきたことを指摘する。

ナンシーによると、共産主義は生の意味を共同体のうちに解消させることなく、支配や排他的な秩序のかなたに、共同体のあるべき姿を描こうとする意図をもっていた。だがそうしたイメージは現代ではもはや通用しないし、させようとすることもできない。その理由は次の通りだ。

いかなるタイプの共産主義内—あるいは、ここでは語が狭義の政治的開示に限定されるべきではないということを明示するために、共同体的と言おう—反対派も、人間の共同体という目標、つまり本質上自己自身の本質をみずからの作品として産み出し、さらにはこの本質をほかでもない共同体として産み出す存在者たちの共同体にことごとく従属してきたし、今も相変わらず深くそれに従属しているということである。

ナンシーいわく、共産主義の理想の基礎そのものに問題がある。それは「生産者」としての人間という理想だ。労働と「作品」によって本質を生み出すものとして人間を規定すること、ここに共産主義の失敗の理由がある。同じことが共産主義に対する否定についても当てはまる。両者はともに、共同体を生の意味を回収するものとして捉えている。問題はその点にあるのだ、とナンシーは考える。

ナンシーは、生の意味を回収する“求心力”が働くかぎり、民主主義あるいは自由主義であろうと、共同体は本質的に言って全体主義的であるという。そのことをナンシーは「内在主義」と名づける。

経済的絆、技術的営為、そして政治的融合(組織体の中でのあるいはひとりの長の下における)が、必然的にそれら自体によってこの本質を表現するというよりむしろ呈示、露呈し、現実化してゆくのである。それは、私たちが全体主義と呼んでいるものだが、たぶんそれは「内在主義」と呼ばれるほうがよいだろう。おそらくこの呼称は、ある特定のタイプの社会や体制にだけあてはめるべきものではなく、この際そこに、民主主義的諸政体やその脆弱な法的枠取りを囲繞している、私たちの時代の全般的な地平を見てとるべきなのだろうから。

近代は内在主義的

ナンシーによれば、ルソーやヘーゲルらの近代哲学では、共同体の喪失・解体を経て社会が成立し、それにともない主権をもつ自由な市民が生まれてきたとされる。その意味で、近代は個人主義の誕生に基づいており、内在主義は個人主義に支えられている、という。だが、ナンシーの観点では、そもそも個人主義自体に問題がある。

個人主義は個々人がそれぞれ孤立して存在しているという前提を立てるが、これ自体が誤っている。個人はあくまで分解作用の結果として生じてきたにすぎない。個人主義はつじつまの合わない原子論である。個人主義を打ち出す内在主義は、主体の形而上学であり、「関係というものをもたずに閉じられた絶-対者としての存在の形而上学」である。

ナンシーいわく、これは暴力的で恐るべき論理である。それは各人の間の分離を絶対的なものに仕上げて、内在の自己充足(=エゴイズム)を完成させようとする強引で不可能な試み、すなわちファシズムの論理であり、他者を排除して共同体そのものを瓦解に追い込む“自殺”の論理である。近代の内在主義は、そうした矛盾を本質的に含んでいる。これがナンシーの直観だ。

共同体は「分割」から生じる

近代の内在主義に対して、ナンシーは、共同体は喪失したわけでもないし、個々人が関係を結ぶことで成立するわけでもないと論じる。

共同体の喪失という意識は、ひとつの幻想かもしれない。というよりも、むしろ、共同体は「絆」のようなコミュニケーションとはまったく異質のコミュニケーション(これは産業社会の内部には存在しない)から生じて、関係の「分割」から生じるものの場所を占めたと考えるほうが正当だろう。生産=有為に絡め取られているので、解体の幻想を抱いてしまったのだ。

孤独に存在する個々人から組織される、生産(=有為)の体制。これが民主主義から出発してファシズムに行き着く全体主義的、内在主義的な共同体である。それは生の意味を「作品」という観点からしか評価しない。「作品」は死によって完成され、共同体のうちに解消する。近代はここに死の意味があることを証明しようとしてきた。だがそもそも共同体は失われていない。むしろ各人が等しく死すべき存在であるという「有限性」の共有のうちに、共同体は成立している。それは決して作られることも、喪失することもない。そうナンシーは言う。

ハイデガーの「共存在」

この点について、ナンシーが仮想敵として想定しているのは、ハイデガーの実存論だ。

ハイデガーは『存在と時間』で、死の不安に対する深い自覚から生まれる決意性(=先駆的決意性)が、自己を、世界の側から自分の存在可能を了解している「世人」のあり方から、自分固有の存在可能を目がけるように呼び覚ますと論じている(第60節)。ハイデガーは、私たちが世界のうちで他者とともに存在しているということを「共存在」と呼ぶが、先駆的決意性に踏み入ったひとは、自分固有の本来性を目がけることの手本を、共存在する他者に対して示すことができるという。

共存在しつつある他者たちを、彼らの最も固有な存在しうることにおいて「存在」せしめ、この彼らの存在しうることを、手本を示し解放する顧慮的な気遣いのうちで共に開示するという可能性が、それである。決意した現存在は他者たちの「良心」となることがありうる。

一見そう言われればそう思えるかもしれないが、最終的にこの主張は、自分固有の本来性は民族の歴史のうちからつかまれるものであり、したがってその手本は、民族の運命共同体のうちで他者とともに存在することの手本である、という点に行き着く(第74節)。ナンシーは本書の冒頭でサルトルに言及していたが、それはサルトルが共産主義者であったとともに、フランスでハイデガーの実存論をいち早く吸収した第一人者だったということもある。

共同体とは融合の企てでもなければ、一般的にいって生産のためのあるいは活動のための企てでもない—むしろ企てといわれるものではありえない(そこにまた、ヘーゲルからハイデガーにいたるまで、集団を企てとして、また企てを一般的に集団的なものとして思い描いてきた「民族の精神」との根源的な相違がある)。

そこでナンシーは、ハイデガー的な共存在に代わる共同体の契機として、共-現という概念を置く。これはナンシーの思想を特徴づける一つのキー概念である。

「特異性」の共-現

ナンシーによると、死の有限性の共有によって共同体が成立する。だが、共同体は「企て」によって立ち現れてくるものではない。ではどのように成立するのか。それは「特異性」の共-現によってだという。

特異な存在者は、諸存在の混沌とした同一性という基底、あるいは生成という基底、あるいはまた一個の意志という基底からとりあげられるものでも、そこから生い立つものでもない。それは有限性そのものとして出現するのだ—最後に(あるいは最初に)他のひとりの特異な存在者と膚を(あるいは心を)触れ合うことによって。

イメージとしては、子供が母親から生まれるとき、母親という同一性から、子供という特異性が現れてくるとき、特異性を子供に「分割」することで、特異性同士が並び立ち、ともに露呈しあうのだ、というふうに理解するといい。ナンシーは次のように言っている。

子供が現れるとき、子供はすでに共-現したのだ。子供は愛を完結させはしない、それは愛を新たに分割し、愛を新たにコミュニケーションの中に通わせ、そしてそれを共同体へ露呈させるのである。

子供は決して恋人同士の「作品」ではない。恋人同士はすでに特異性同士であり、子供を生むことは、特異性を分割することである。共同体はそうした共-現を経て成立するのであって、個人が共通の目的に向かって集うことによって形成されるわけではない。

近代の内在主義は、目的を共有できないひとを排除する構造になっているが、共同体は近代における「絆」よりも、もっと根源的な共-現によって立ち現れるのだ。ただし、そうしたものとして共同体を構想することはできない。それは作り上げるものではなく、いつのまにかすでに、無為のうちに、特異性の相互の露呈というコミュニケーションを通じて生まれているのだ。

相互の露呈は「情熱」を通わす

ナンシーいわく、相互の露呈は、何らかの目標に向かって組織化を行うのではなく、他者への「情熱」を解放する。そして、相互の露呈によって現われる無為の共同体において、情熱が“伝染”していく。ナンシーによれば、ここでいう情熱とは「歓喜」のことだ。

特異な存在者は特異であることからして、おのれの特異性という分割のパッションー受動性、苦痛、そして過剰—のうちにある。他者の現前は、「私の」情熱の狂奔を食い止める境界とはならない。逆に、他者への露呈のみが情熱を解き放つのだ。

この点についても、ナンシーは表象的にしか論じていないので確定的なことは分からないが、おそらくハイデガー的な死の不安に対抗する根本的な気分(情状性)として、歓喜を置いているように見える。

ハイデガー的な共存在を支えているのは、可能性としての死の不安だ。ハイデガーの本質観取によると、死の観念は私たちを「単独化」する。私たちは身の回りの世界から切り離されるとともに、実存の自覚(自分はただこの一回限りの生を生きているのだ、など)に達することができる。ハイデガーにとって、民族の運命共同体とは、そうした死の不安の自覚に支えられて成立する本来的な実存に目覚めた人びとの共同体のことだ。

一方、ナンシーのいう共同体は、不安ではなく、情熱すなわち歓喜に基づいている。特異性同士が相互に露呈するとき、情熱が通い合い、至高性のうちで、特異性はみずからを超え出ていく。このことをナンシーは、バタイユのエロティシズム論に即して論じる。バタイユは至高性における共同体を、脱自すなわち「恍惚」による恋人たちの共同体として描き出した。だが愛が共同体の合一の営みであるという見方は成立しない。むしろ恋人同士は、「分割」され、相互に露呈するからこそ、言葉をつむぎ、歓喜をともに通わせるのだ…。私の読む限り、ナンシーはそう言っている。

恋人たちの彼方に彼らの「真理」を「保有する」シテなり国家なりがあるというのではない。ここでは保有すべきものなど何もない。そのかわり、共同体と分割と、この限界の露呈とがある。共同体は恋人たちの彼方にあるものではない。それは彼らを包囲するより大きな環ではない。共同体は一条の「エクリチュール」で彼らを貫通する。そこで「文学作品」は「単なる」公共のことばの交換に混じり合うのだ。接吻を貫きそれを分割するこのような一条の線なしには、接吻それ自体に希望はないし、共同体は廃絶されてしまう。

ハイデガーでは、本来的な語り(言葉)は、良心の呼び声として、現存在に降ってくる(第57節)。それは日常の生活に落ち込んでいる私たちを呼び覚まし、先駆的決意性(=死の深い自覚に基づき、本来的な自己のあり方へと目がけようとする意志)を了解させる。

だが、ナンシー的には、言葉が実存の真理を明らかにするという構図は成立しない。そうした構図では、良心の呼び声以外の言葉、「エクリチュール」は、頽落した言葉、すなわち「空談」におとしめられてしまう。だが共同体は、死という有限性を共有する特異性の間における感情の“交換”において成立する。このことは恋人関係に限らない。共同体は目的や「真理」をもたず、また「作品」でもない。

特異性の、そのコミュニケーションの、その脱自の描く線は政治的なものであるだろう。「政治的なもの」とは、おのれの無為に向けて構制された共同体、みずからの分割の体験を意識的に遂行する共同体の謂でもあろう。このような意味作用は、通常私たちが理解しているような「政治的意志」には、少なくとも単にそれだけには、依存していない。それはまだこれから考えなければならないことだ—その意味作用自体が、無為と分割の体験に依存しているのだから。書くことを止めてはならないのだ。

「書くことを止めてはならない」。もし「エクリチュール」をつむぎだすことを止めてしまえば、生産=有為の内在主義的な共同体の“求心力”が働き出してしまい、生の至高性の希望は失われてしまう。同一性への統合ではなく、特異性の共-現による分散化が、その希望を生かす条件だ。そうナンシーは言っているように見える。

ハイデガーに対抗して

ハイデガーの論じる民族的な運命共同体に対しては、これまで様々な仕方で批判がなされてきた。ハイデガーは一時ナチズムと関係をもったこともあり(ナチズムの理念に強く賛同したわけではないが)、戦後その点に関してドイツ国内だけでなくフランスでも広く批判が行われた。

一方、ナチズムとの関係とは異なった観点からの批判もある。ここで特筆すべき哲学者としては、エマニュエル・レヴィナスを挙げることができる。レヴィナスは『全体性と無限』の冒頭で次のように論じている。

戦争は、純粋な存在をめぐる純粋な経験というかたちで生起する。しかも、幻想という覆いが燃えあがり、まさに閃光をはなつその瞬間に生起するのである。この閃光の暗い輝きのうちでえがきとられる存在論的なできごとによって、それまではそれぞれの同一性につなぎとめられていたさまざまな存在が、運動のなかに投げこまれる。その存在論的できごとは、絶対的で孤立したものを、だれも逃れることのできない客観的な秩序によって動員する。

ハイデガー的な全体性の論理は、他者を同一性に連れ戻し、専制的な「国家」という暴力のもとでの抑圧を肯定する。では全体性に対して倫理をどのように考えればいいか。まず、倫理の根拠はエゴイズムや「自由」にはない。そこで次のように考える。私たちは、未来の世代がその責任をより一層果たしてくれるだろうという可能性への確信をもつことができれば、〈女性〉から得た優しさと、〈師〉から受けた「言葉」を根拠として、他者を迎え入れる責任のバトンリレーに参与する意志をもつことができるのだ、と。そのようにレヴィナスは論じていた。

ナンシーもまた、レヴィナスと同じく、ハイデガーの全体性に対して批判を行っている。死の不安による良心の呼び声が、実存の単独性を呼び覚まし、民族の歴史に参入させるというハイデガーの主張は内在主義的なものである。共同体は生の誕生による「分離」と、特異性の共-現によって、無為のうちに、感情のコミュニケーションを通じて成立するのだ…。そうナンシーは考えたように思える。

レヴィナスが共同体を倫理の可能性のつながりとして描き出しているとすれば、ナンシーは生の分割による至高性の分け与えの関係として描き出している。少なくとも私には、そう見える。

いずれにせよ、レヴィナスについてもナンシーについても、単なる反体制・反近代・反国家のポストモダン思想的な観点に回収してしまうと、そこから現代的な感度にとっての切実さを考えるためのヒントを受け取ることはかなり難しいだろう。そして、そうした反体制的な観点は、もはや効力をほとんどもたないものだ。

しかしイメージを対置しているだけ

ただし、ナンシーとレヴィナスの間には決定的な違いがある。それは、レヴィナスがあくまで自分自身の成長のプロセスに即しつつ、それを辿り返しつつ倫理的な共同体の可能性を(一応)概念的に論じているのに対して、ナンシーは、ハイデガーのいう共同体に、別のイメージを対置させているにすぎないということだ。

ナンシーは近代哲学を、個人から出発する「主体の形而上学」と批判する。しかし、その批判は的外れだ。なぜなら、ナンシーのいう共同体は、市民社会という共同体を条件として初めて成立しうるからだ。社会契約とは、その共同体を支える正当性の根本理念であり、「自由で平等な個人が契約によって社会を作った」ということではない。それはロックによる社会契約の規定だが、キリスト教の物語を前提としており、普遍性をもたない。この点についてはルソーによる規定が原理的だ。

日常の生活において、私たちはつねに「歓喜」の交換により成立している共同体を生きているわけではない。仕事関係や友人関係はもちろん、恋人関係や家族関係においても、抑圧はつねに生じうる。そして、問題は、どのようにしてその抑圧を起こりにくくすることができるか、という点にある。すなわちここでは、意識的に態度を取ることが求められるのだ。

「認識できる関係性よりも根源的な関係性があるのだ」という言い方をしたところで、普遍的な了解に達することはできない。「私たちはどこかで他者とつながっているはずだ」というロマンを殺すこと、それが近代における共同体のあり方を考えるために必要な第一歩だ。

市民社会の理念と両立させるように

他者とともに民族的な善を目がけて生きることが本来的な実存のあり方だというハイデガーの議論は、近代社会ではまったく通用しない。何らかの特定の目的のために組織された共同体は、目的を共有できないひとを排除する内在主義的な傾向を帯びるというナンシーの直観は、ハイデガーに対する批判としては、確かに妥当だ。

だがこのことは、各人が相互に自由を認め合うことを根本理念として、社会を市民社会として再編することに何ら矛盾しない。むしろ市民社会の構想に基づいてこそ、ナンシー的な至高性の分割という理念は深く生きてくる。そうした順序で考えない限り、抑圧を排除した上で、至高なものを他者と共有するための条件を示すことはできないからだ。

共同体は特異性の共-現により成立するというイメージは、反近代・反主体・反体制というポストモダン的な、ありふれたストーリーに回収されてしまわざるをえない。それは、イメージによって論じるかぎり、避けられない道だ。

だが、ちょうどヘーゲルを読む際に、絶対精神の形而上学的体系を取り外すように、ナンシーについても、ハイデガーに対する反動とポストモダン的表象を取り外して、市民社会の理念と両立させる方法を探す仕方で読めば、彼のモチーフをうまく生かせるはずだ。