ロック『人間知性論』を解読する

『人間知性論』は、経験論の創始者ジョン・ロック(1632年~1704年)による認識論の著作だ。1689年に発表された。

本書でロックは、人間の知性、具体的には人間の認識構造(私たちはいかにして認識するのか?)を問題とする。「知性の限界を知ることで、知性をよく用いることが可能となる。では知性の本質的な構造は何だろうか?」これが本書の中心テーマだ。

人間のおせっかいな心を説き伏せて、知性の了解にあまる物ごとへはいっそう慎重に立ち入らないようにさせ、知性の権限範囲の極限に達したときは立ち止まらせ、検討の結果私たちの能力が到達できないとわかる物ごとでは穏やかに無知のままでいさせるという点で、有益だろうと思う。

これは形而上学を終わらせようという、ロックなりの宣言だ。

これまで哲学は、知性で確認できない事柄にもとづいて人間の理性のありようについて論じてきた。しかしそうした試みはほとんど無益だ。何らかの物語を立てるかわりに、経験と観察可能な領域を考察の対象とするべきである。そうロックは主張するわけだ。この点でロックの主張は、デカルトに釘を刺したものだと見ることができる。デカルトは『方法序説』で次のように言っていた。

人間は、理性によって世界を合理的に推論し、その全体像を理解することができる。理性は誰もが等しくもっているので、理性の使い方を間違えないかぎり、世界についての推論は共通のゴールに達することができる。

デカルトは私たちが共通に理性を備えていると考えている。しかしそれは本当だろうか?私たちに与えられているのは知覚経験だから、着目しなければならないのは経験の領域にほかなならない。そうロックは考えた。ロックの認識論が経験論とされるのは、まさにこの方法的態度のためだ。

経験論は観念を検討する

とはいえロックは「観念や本質のような形而上学的なものはとっとと捨てて、経験可能な自然事物のみを探求するべきだ」と考えたわけではない。むしろ反対に、知性の対象は観念であるから、観念を探求しなければならないとした。

この語(観念:引用者)は、およそ人間が考えるとき、知性の対象であるものを表わすのに最も役だつと私が思う名辞なので、私は心象、思念、形象の意味するいっさいを、いいかえると、思考に際して心がたずさわることのできるいっさいを、表現するのにこの語を使ってしまい、頻繁に使わないわけにはいかなかったのである。

これは非常に興味深い直観だ。

日常的な世界像では、意識の外側に事物が存在するのが当然だ。

しかしこれを厳密に考えてみると、本当に世界が存在しているかどうか、また、私の見ている世界が意識の向こう側にある世界と等しいかどうかを証明することは、原理的に不可能だ。なぜなら誰も自分の主観から抜け出て対象そのものを確認することはできないからだ。

だからといって、客観的な認識がまったく成り立たないのかというと、そういうわけでもない。たとえば自然科学は、世界についての客観的・普遍的な認識を代表している。その一方には、価値観や人生観のように、観点がいくつも立ち並んでしまわざるをえないような認識のあり方もある。それはなぜだろうか?

これを解明するためには、意識のあり方、とくに観念に着目するのが合理的だ。なぜなら観念であれば誰もがそれについて確かめることができるからだ。そうすることによってはじめて、世界の普遍的な認識は可能なのか、もし可能であればどの範囲までか、について規定することができる。この直観を推し進めて、いわゆる「認識問題」(主観と客観は一致するか?)を解決したのが現象学だが、現象学の直観に貢献したのが、まさにこの経験論なのだ。

観念は経験にもとづく

さて、ロックによれば、心は経験をもとにして観念を備えるようになる。

心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心想が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきたあの膨大な貯えを心はどこから得るか。どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。これに対して、私は一語で経験からと答える。

まずはじめに、感官によって与えられる感覚が、対象の性質の観念を心に備えつける。その次に、観念についての内省が起こり、最後は内省自身もまた反省的に捉えられ、それによって知識が生じる、とロックは言う。このプロセスを図式的にまとめると、大体次のような感じだ。

対象 → (感官) → 観念が心に置かれる → (内省) → 知識

この後も、ロックは経験と観念の関係について論じていますが、非常に細かいので、ここではパスします。もし興味があれば本文に直接あたってみてください。

第一性質と第二性質

ロックは、知覚や知性の直接の対象は「観念」であり、この観念を生み出す力能は、その力能をもつ「主体の性質」であるとする。

およそ心が自分自身のうちに知覚するもの、いいかえると、知覚とか思惟とか知性とかの直接対象であるもの、これを私は観念と呼ぶ。そして心になにかの観念を産む力能を、この力能が存する主体の性質と呼ぶ。

「主体の性質」と聞くと奇妙な感じがするが、要は、対象の性質がいわば主体的に働いて私たちに観念を抱かせるということだ。

ロックによれば、そうした性質には2種類がある。第一性質(一次性質)と第二性質(二次性質)だ。

第一性質とは、私たちの心が、物体そのものに固有であり、それから引き離すことができないと見いだす性質のことを指している。たとえば大きさや形がそれに当たる。

一方、第二性質とは、一次性質に基づき感覚を産む力能のことを指す。第一性質である大きさや形からもたらされる色、音、味などがそれに当たる。

…とロックは言うが、この区別はかなり恣意的だ。音や色が事物本来の性質ではないことはそれなりに納得できる。でも味はどうか。トロの美味しさはマグロの性質に由来するのではないか。第一性質も微妙だ。なぜなら大きさや形は、その事物を見る観点によって変化するものであり、物体そのものに固有だとは言えないからだ。

心は単純観念をもとに複雑観念を作る

ロックによれば、ここまで考察してきた観念は単純観念であり、心がいわば受動的に受け取るものだ。これに加えて、心が単純観念をもとにして自ら作り上げる観念もあると言う。これをロックは複雑観念と呼ぶ。

心は、そのすべての単純観念を受けとるに当たってまったく受動的であるが、また、心自身の働きをいろいろ発動させて、単純観念以外の観念を、その材料であり根底である単純観念から形成する。

ロックが単純観念だけではなく複雑観念を置いたことには、「意味」のあり方が関わっている。私たちは、単純観念のように、対象からたんに意味を受け取るだけでなく、複雑観念のように、対象に意味を与えてもいる。意味のこうした両面性に対する意識が、単純観念と複雑観念の背景にある。

「関係」も観念

ロックによれば、そうした複雑観念には3種類がある。実体、様相、そして関係だ。

実体とは個々の単純観念の全体像、様相は実体の性質(状態)、関係は個々の単純観念を比較することで作られる観念だとされる。

関係が複雑観念であるかはともかく、それを観念とする見方は、認識論的に言ってまったく妥当なものだだ。

普段、私たちは何らかの関係を、世界のうちにそれ自体として存在していると考えているはずだ。しかしよく考えると、関係はモノのように具体的な事物として存在しているわけではない。かといって、私たちが、ある対象と別の対象に何らかの関係を認めることも否定できない。関係は目に見えないけど、確かにある。

この2つの事実を関係=複雑観念説はうまく調停してくれる。関係は私たちの知覚経験にかかわらず存在しているわけではない。それは私たちの知覚、主観に相関して存在する。また、私たちは関係の観念を、何かと何かを関係づけることによって能動的に作り出すことができる。これはロックを抜きにして考えてみても、確かに納得できる考え方だ。

観念論的なロック

私は『市民政府論』をかなり辛めに評価したが、今回の『人間知性論』については高く評価できる。『市民政府論』はキリスト教の上に完全に乗っかった議論だったが、『人間知性論』はある程度までうまく認識のあり方を普遍的に規定できているからだ。

最初に言ったように、ロックの議論は手続的に適切なものだ。ロックは、知性によって捉えられないことについてはそれを問わず、その代わりに、意識のうちにおける観念のありように着目する。「見えるのはそれがあるからだ」「あるものはあるのだ」は、あまりに素朴なのだ。

確かにロックは経験から出発してはいる。しかし経験についてはごく簡潔に規定しているだけであり、かなりの部分を観念についての説明に割いている。ロックは観念論者ではないか?と言いたい気持ちにもなってくる。

もっとも、ロックが観念以外のものを前提しなかったかというと、そういうわけではない。ロックは認識対象としての世界の存在を前提しており、その点では徹底していない。

とはいえ、同時代の哲学者と比較すると、ロックはかなり優れていた方だ。経験可能な領域を人間の意識のうちに限定し、そこに着目するのは、今日でも名の残っている哲学者(デカルト、カント、ヘーゲル、フッサールなど)に共通する視点だ。ロックがいまだに読まれている理由のひとつはここにあると言っていいだろう。