ヒューム『人性論』を解読する

本書は、イギリスの経験論者デイビッド・ヒューム(1711年~1776年)の主著『人性論』だ。1739年から40年にかけて三篇の論文として出版された。

ヒュームは『人間知性論』を書いたロックと並んで、経験論の代表的な哲学者として知られている。

経験論と聞くと、「観念や本質のような形而上学的なものはさっさと捨てて、経験可能な自然事物のみを探求するべきだ」とする考え方だと思うかもしれない。

しかし経験論は、方法的態度については観念論にかなり近い。

ロックは意識が経験にもとづいて作り上げる観念を探求することを通じて、認識の構造を示そうとした。ヒュームは、ロックのこうした態度を受け継ぎ、それを徹底する。つまり、私たちの意識が到達できない領域を前提することなく、ただ私たちの意識に与えられているものだけを探究することで、認識の構造を取り出そうとする。これは根本的な形而上学批判だ。

ロックの『人間知性論』はこちらで解説しました → ロック『人間知性論』を解読する

意識のありように着目して認識構造を見て取る

外的世界ではなく人間の意識に着目することによって認識の構造を取り出そうとするアプローチは、方法論的に見て適切だ。なぜなら外的世界が意識の外側に存在することには疑いの余地が絶えず残り続けるからだ。

どれだけ極端だとしても、見えている世界が錯覚にすぎない可能性を消し去ることはできない。認識の本質論を展開するためには、そうした可能性についても考慮にいれる必要がある。

認識の本質を取り出すにあたって、意識における知覚経験に着目するアプローチを取れば、誰でも自分の認識構造を洞察することができる。もちろんそれには得手不得手がある。上手く取り出せるひともいれば、そうでないひともいる。この点は数学や他の自然科学と同じだ。計算に得手不得手があるように、認識構造を見て取ることにも得手不得手がある。

だが、ここで決定的なポイントは、その洞察が自分以外の誰にとっても確かめられうるかどうかにある。この可能性を満たしているのであれば、外的世界が実在することを証明しているかどうかにかかわらず、その認識論は普遍的な水準に達していると言える。それができないような書き方になっているのであれば、それは物語だ。

では本文について見ていこう。

知覚=「印象」と「観念」

ヒュームは初めに、 知覚を「印象」と「観念」の2種類に分ける。そのうえで印象は「勢いよく、激しく入り込む知覚」であり、観念は「思考や推論の際の勢いのない心像」である、とされる。

人間の心に現れるすべての知覚は、二つの異なった種類に別れる。私はその一方を「印象」、もう一方を「観念」と呼ぶことにしよう。

この区別はこう考えると分かりやすい。印象は大きさや形などのありありと与えられる知覚であり、観念は意味や本質として与えられる知覚である、と。

続けてヒュームは次のように言う。

印象と観念は独立しておらず、相互に関係して存在している。印象から観念が現れてきて、逆は起こらない。

観念が印象から現れてくる仕方は、記憶もしくは想像だ。記憶には印象の性質が残っているが、想像はまったくの観念であるという点で異なっている。

たとえば三角形の知覚は、線の長さや角度といった形態の知覚にもとづいている。また三角形を観念として知覚するためには、これまで見てきた三角形がどのようなものであったかを思い出す必要がある。言われてみれば、これは当然のことだ。

印象=「原初的印象」と「二次的印象」

また、ヒュームによれば、印象は原初的な印象二次的な印象に分けることができる。

原初的印象もしくは感覚の印象とは、なんらの先行する知覚もなしに、身体の組織から、動物精気から、あるいは外的器官に物が当たって心に起こるようなものである。二次的印象もしくは反省の印象とは、これら原初的印象のうちのいくつかのものから、直接にか、あるいはその観念の介在によってか生じるようなものである。

このうち、第一の種類のものは、知られない原因から直接に心に起こる。しかし、第二の種類の印象はたいていは観念に起因する

原因は知りえない=印象が認識論の「底板」

ここで興味深いのは、 ヒュームが原初的印象の原因を「知りえない」としていることだ。

一般的な見方では、知覚が生じるためには、その原因がなければならないと考えられる。しかしヒュームによれば、その考え方は徹底していない。

何が原初的印象を引き起こしているか、それを人間が言い当てるのは不可能である。なぜならその知覚を成立させている原因それ自体を知覚することはできないからだ。

その意味で、印象こそ、人間の意識が辿り直すことのできる最終ラインだ。その向こうには、印象を与えてくる原因があるはずだが、それが何であるかは、ただ推測することしかできない。

「習慣」が因果関係を作り上げる

また、このことを踏まえて、ヒュームは因果関係も観念であるとする。

この主張はかなり非常識で、もしかすると意味不明かもしれない。というのも普通に考えれば、因果関係は私たちの意識に関係せず、自然世界のうちにそのものとして存在しているものだからだ。

しかしヒュームいわく、因果関係をそのようなものとして考えることはできない。それはあくまで私たちの知覚に依存しているのだ。そうヒュームは言う。私なりに補ってみると、こんな感じだ。

たとえばボールを上に投げると、地面に向かって落下する。これは普通に考えると、ボールに重力が掛かっているからということになる。もちろんそれが間違っているわけではない。しかし認識論として厳密に考えてみると、私たちは重力が真の原因であるかどうかを決して知ることはできない。なぜなら私たちは「重力それ自体」を知覚するのではなく、ボールが手を離れて上に動くことを知覚し、どこかで頂点に達して、それに続いて下へと動くことを知覚するにすぎないからだ。

だが、ここで「しょせん真の原因などありはしない」と言うだけでは十分ではない。その言い方では、「知覚に原因があるはずだ」と思ってしまうこと自体の理由を説明できないからだ。

「真の原因」は存在しない。にもかかわらず原因があると考えてしまうのはなぜだろうか?この問いについてヒュームは次のように答える。すなわち、それは私たちが、ある印象と別の印象の組み合わせを繰り返し知覚することで、因果関係を認識する習慣customを身につけているからだ、と。

習慣といっても、別にヒュームは因果関係が文化的に規定されていると考えているのではない。心のなかで原因と印象の関係について何度も反復できること、この反復可能性が認識のひとつの本質だというのだ。

それゆえ、もし知覚の向こう側に因果関係を求めようとすれば、それは失敗に終わらざるをえない。

われわれは直接の原因を知るだけでは満足せず、探求を推し進めて、根本的な、究極的原理にまで達しようとする。原因のうちにあり、それによって原因が結果に作用する勢力、原因と結果を結合するきずな、このきずなが依存する作動的性質、こういったものを実際に知るまでは、われわれは進んでとどまろうとはしないだろう。そして、この結合、きずな、あるいは勢力が実はただわれわれ自身のうちにあるにすぎないこと、つまり、習慣によって身につけた心の規定、ある対象からいつもそれに伴うものへ、一つの対象の印象から他の対象の生き生きとした観念へとわれわれを移行させるようにする心の規定にほかならなぬことを学び知るとき、どんなに失望せねばならぬことか。

ここでヒュームは、因果関係は存在しない、と言っているわけではない。因果関係は「ただわれわれ自身のうちにある」のであって、それを自然世界の側に求めようとしても、それは失敗に終わらざるをえない、と言っているのだ。この違いを意識するのが大事だ。

認識とは=意識に立ち現れる確信

私たちは自分たちの意識の外側に抜け出ることはできない。

このことは、私たちは自分たちの知覚の外側に、知覚している対象が本当に存在しているかどうかを知ることはできないということを意味している。世界はただ私たちにそう映っているだけかもしれないのだ。

とはいえ一方では、私たちが何らかの印象をもち、対象を認識していることが確かな実感としてあることも否定できない。

この事態をどう考えればいいだろうか。これに関して、ヒュームは次のように言っている。

どんな種類の印象あるいは観念でも、われわれがともかくそれを意識し、あるいは記憶しているかぎり、存在するものとして思いいだかれないようなものはない。そして、明らかにこの意識に存在の最も完全な観念と確信とが起因する

いかなる原因がわれわれに物体の存在を信じさせるようにするのか、と問うのはかまわないが、しかし、物体があるのかないのか、と問うのは無益なことである。

ヒュームの解答はシンプルだ。存在するものは、私たちの意識に立ち現れる観念であり確信である。その根拠は原初的印象であって、知覚を離れたところに印象を形作る原因を探し求めることには意味がない。それはそもそも答えの出ない問いだからだ、と。

人格=知覚の束

ヒュームは一切を知覚の水準で捉えかえす。その態度は非常に徹底しており、ヒュームは自分の外側の対象だけでなく、認識している自分をも知覚の水準で捉え返す。

自分自身を知覚するためには、自分自身を反省的に捉える必要がある。

それによって手に入るのは、私そのものではない。私が手に入れるのは、あくまでも私についての知覚だ。私は私自身を知覚することはできない。「本当の私」などは存在しない。

とはいえ、私は自分自身を認識することができないわけではない。むしろこう考えるべきだ。すなわち、自分とは、これまでの自分についての記憶をもとにして成り立つイメージ(自己像)であり、自分の人格とは、私の知覚の束、記憶にもとづく確信なのだ、と。

私の自己に反省を向けると、いくつかの知覚もしくはそれ以上の知覚がなければ、私はけっしてこの自己を知覚できない。また、けっして知覚以外のものはなにも知覚できない。したがって、自己を形作るのは、これら知覚の合成である

突き詰めた認識論

ヒュームは懐疑論者として批判されることがある。ともすれば懐疑論に流れそうな雰囲気は確かにある。

しかしヒュームは、知覚という限界線を越え出て原因を突き止めようとするのは独断論に陥ってしまうことを了解したうえで、それ以上疑いえない出発点を規定するために、あえて懐疑的な態度を取ったと見ることもできる(その点ではデカルトの「方法的懐疑」に通ずるところがある)。

ヒュームは、外的世界ではなく人間の意識に着目し、そこから認識の構造を取り出そうとする。この点ではデカルト、ロック、ヒュームは一致している。しかしヒュームにとっては、両者とも厳密に突き詰めていない。私たちに与えられるのは知覚であり、それ以外のものは与えられていない。ヒュームはこの直観を出発点とし、一切の対象は知覚にもとづく確信として認識されることを示すことによって、当時の水準を大きく上回る認識論を打ち立てたのだ。