フロイト『性理論三篇』を解読する

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本書『性理論三篇』Drei Abhandlungen zur Sexualtheorieは、オーストリア出身の心理学者フロイト(1856年~1939年)の著作だ。1905年に発表された。

本書でフロイトは、精神分析の方法によって、私たちの性Sexualitätのあり方について論じている。私たちにとって性はどのような地位を占めているのか。これがメインテーマだ。

本書の全体像

本書全体の構えは、大体以下のような感じだ。

幼児期から思春期にかけて、性欲動(=性的な欲求)は、母親との原初的な関係(授乳)を出発点として、自愛的な段階、潜在期を経て、思春期になり再度外部に性対象(=魅力を与えてくる人間)を見出す。この過程を適切にこなせば、性を正常に形成することができるが、できなければ倒錯もしくは神経症になる傾向が高まる。

つまりこういうことだ。

私たちの身体性や感受性は、決して生まれながらに備わっているわけでも、肉体の成長に伴っておのずから出来上がるわけでもない。それは母親との原初的な関係から出発し、自体愛を経て、家族関係のうちで形成されていくのであり、したがって本質的に関係的なものにほかならない。

私たちの身体性や感受性は自己や他者との関係性に基いて形成される。それゆえ幼児期から思春期にかけて、母親との関係や家族関係に問題が生じると、身体性の形成に支障をきたすことになりかねない。心の問題は単純に脳神経系に由来するわけではない。これが本書のポイントだ。

それでは以下、本文に沿って見ていくことにしよう。

1.性的な逸脱(=倒錯)

フロイトいわく、一般には性欲動は、性的な交渉に至ることを目的とすると考えられている。しかしそれはつねに正しいわけではない。なぜなら、性対象(=性的な魅力を発揮する人間)と、性目標(=性欲動によって引き起こされる行動)の両方に関して、いくつもの逸脱が認められるからだ。

性対象(=人)の倒錯

フロイトはここで、以下の3種類の性対象倒錯を挙げている。

まず、絶対的な性対象倒錯者があげられる。すなわち、同性だけを性対象とする人々であり、異性はまったく性的な憧れの対象となることがない。異性に対しては冷淡にふるまうか、性的な嫌悪感を感じるのである。

次に、両性具有的な性対象倒錯者(性心理的な両性具有者)がいる。これは同性でも異性でも、性対象にできる人々である。

最後に偶発的な性対象倒錯者がいる。これは、特定の外的な条件が存在する状況、すなわち正常な性対象が利用できなくなったか、他の人々の行為を模倣するような状況においては、同性を性的な対象とすることができ、こうした性行為において満足を感じることができる人々である。

簡単に言えば、第一の倒錯がゲイ・レズビアンで、次がバイセクシャルだ。

現代においていわゆるLGBTの人びとを「逸脱」呼ばわりすることには抵抗を覚えることもあるかもしれない。それは多数派を普遍化し、少数派を逸脱のカテゴリーへと追い込むことだ、と。

だが、フロイトの時代ではそうした概念が一般的だったとは言いがたい。フロイト自身が性の概念を拡張してくれたからこそ、LGBTのような概念が生まれたことを忘れるべきではない。もし以上のような批判をフロイトに対して向けるとすれば、それはホッブズを絶対王制擁護者と批判するのと何も変わらない。つまりそれは事後的な批判なのだ。

フロイトはここで、性対象の倒錯に関する誤りとして、以下のようなものを挙げている。

  1. 倒錯は先天的もしくは後天的なもの
  2. 身体的な両性性(=両性具有)が倒錯につながる
  3. 「異性の脳」が宿ることで倒錯が生じる

1つ目の誤りについては、倒錯を先天的もしくは後天的のいずれと見なすにせよ、他方の要素が関係していないことを示す必要がある。もし先天的とすれば、何が本当に先天的なものでありかを具体的に指摘する必要があるし、後天的とすれば、どのような気質にもよらずに倒錯が生じることを証明しなければならない。しかしそれは結局のところ無理であり、どちらと考えても本質はつかめない。そうフロイトは言う。

3つ目に関して、フロイトは以下のように言っている。

心理学的な問題を、解剖学的な問題として考察するのは、無用であるだけでなく、根拠のないことである。

男性的な脳「中枢」とか女性的な脳「中枢」という概念には、男性的な脳や女性的な脳という概念と同じ問題があるだけでなく、言語中枢と同じような意味で、脳に性の機能を果たす特定の部位(「中枢」)が存在するのかどうかは、まったく明らかでないのである。

私たちの性の決定要因を脳神経系に求めようとする主張は、現代に限らず、フロイトの生きていた時代にもすでにあったようだ。

ただ、注意しておきたいが、ここでフロイトは、脳のあり方が性に与える影響を全面的に否定しているわけではない。そうした要因が仮に影響を与えているとしても、その影響力はごくわずかであり、決定的なものとは言いがたい。むしろ幼児期の抑圧が本質的な要因として働いていると考えれば、事態をうまく説明できる。そのようにフロイトは考えたのだ。

性目標(=行動)の倒錯

次にフロイトは、性目標(=性欲動によって引き起こされる行動)の倒錯について論じる。ここでフロイトが着目する倒錯は以下の2つだ。

  1. 目標の「行き過ぎ」
    • 性器以外の部位が性目標になること=フェティシズム
  2. 途中の段階に停滞
    • のぞき、露出、サディズム、マゾヒズムなどへの「固着」

初めに「行き過ぎ」について見ていこう。フロイトは次のように言う。

性器だけが性対象となることはほとんどない。性的な評価は対象の全身に対して拡大するだけでなく、対象から放たれる雰囲気に対しても含まれる。このとき、性対象は魅惑的に映り、過大に評価されることがある。こうした過大評価によって、性目標は性器の結合に限られず、それ以外の部位もまた性目標となるのだ。

「行き過ぎ」とは、過大評価による性目標が、「正常な」性目標に取って代わり、それに固着することだ。これは単純に言えば、フェティシズムのことだ。

性対象の過大評価は、恋愛関係においては避けられないので、性対象に関係のあるものへと評価が及んでいくことは避けられない。だから正常な恋愛においても、ある程度はフェティシズム的な要素がある。特にその関係が、正常の性目標(=性器の結合)を達成することができない場合は、フェティシズム的な要素が現れる傾向にある。

だが、フェティシズムの目標が正常な性目標に取って代わり、特定の性対象から離れて、一般的な性目標となれば、フェティシズムは病的な倒錯になる。

性対象と関係しない事物それ自体に性的な興奮を覚え、これをもはや性目標の代理として扱うのではなく、性目標そのものとして捉える場合、これを私たちは病的なフェティシズムと見なしている。女性が履いていた靴下に興奮するのではなく、靴下の繊維や触り心地に興奮する、というようなケースだ。性対象と切り離されていることがポイントだ。

次に、途中の段階への停滞について見ていこう。これは性目標そのものの逸脱ではなく、最終的な性目標に至るまでの途中の段階が、最終的な性目標に取って代わることを指している。ここでフロイトが挙げているケースは以下のようなものだ。

  • 性器だけを見たがること
  • のぞき
  • 露出

露出がなぜ停滞かというと、それが最終的な性目標を押しのけて、相手の性器を見せてもらおうとする動機に基づいているからだ、とフロイトは分析している。

病的な性目標倒錯

確かに、正常な性目標にも倒錯的な要素は備わっている。これを倒錯と呼ぶのは確かに不適切だ。

しかし一方で、正常とは到底言いがたいような倒錯があるのも確かだ。たとえばスカトロジーや死姦など、羞恥心や嫌悪感を乗り越えて驚くべき行為を行うひとがおり、これは病的と呼ばざるをえない。

ただし、こうした行為を行うからといって、その人が心の病にかかっているとは限らない。日常生活を問題なく送りながらも、性の領域においては、こうした病的な行為をするひとが確かにいる。この事実を無視することはできない。

あらゆる状況において性目標倒錯が正常なものを抑圧し、これに代わる場合、すなわち性目標倒錯だけが存在し、これに固着する場合には、これを病的な兆候と判断する正当な根拠があるということになる。

固着が起こる原因のひとつとして、フロイトは本書の結論部で、幼児期に受ける年長者からの性的な誘惑があるとしている。誘惑を一因として固着が生じうる。一見すると無関係なところに要因があるのが、フロイトいわく、性倒錯や神経症の特徴だ。

心的な要因のために、偶然の体験などによって生まれた幼児の性愛の興奮が高められることがある。こうした偶然の体験としてはまず、他の子供や成人による誘惑が考えられるが、これが素材となり、上記の心的な要因によって、長期間の障害として固着する可能性がある。神経症者の場合も性目標倒錯者の場合も、後年になって観察される正常な性生活からの逸脱の多くは、性とはかかわりがないようにみえる小児期の印象によって、最初から決定されていたものである。

神経症は性欲動の力で生じる

ここでフロイトは、神経症は性欲動をエネルギー源として生じるものであり、これに適切な「はけ口」が与えられず、心のうちで抑圧されているために生じるのだという。

もともとの欲動が無意識の領域に抑圧され、その欲動が身体に「はけ口」を求める結果、ヒステリーの症状が現れる。なのでヒステリーの症状を取り除くためには、抑圧されていた欲動がどのようなものであるかを意識にもたらすことで解消することができる。そうフロイトは言う。

ヒステリー性格においては、正常な限度を超えた性的な抑圧、性欲動に対する抵抗の拡大(これは羞恥心、嫌悪感、道徳心などと呼ばれる)、性的な問題との知的な取り組みに対するほとんど本能的な逃避などが確認される。

精神分析では、ヒステリ—の症候は、情動が備給された一連の心的なプロセス、願望、営みなどの代替物であり、同時にこれを書き替えるものであると想定している。こうした代替物は、特殊な心的なプロセス(抑圧)のために、意識化できる心的な活動によって除去する道が閉ざされていると考えるのである。そしてこの想定に基づいて、ヒステリー症候を取り除くことを試みる。これらを無意識の状態にとどめられた思考の形成物と呼ぶとすると、こうした形成物はその情動の価値にふさわしい表現(捌け口)を求めるのであるが、ヒステリーにおいては身体的な現象において発生する転換のプロセスがこうした捌け口となるのである。これがヒステリー症候に他ならない。

性的な成熟のために抑圧と要求との間で板挟みになるひとがヒステリーを発症するのは、それによってリビドーを症状へと転換し、葛藤から逃れるためなのだ。これは葛藤からの無意識的な逃避にほかならない、とフロイトは考える。

倒錯のきざしは幼児だけに見られる

性目標倒錯は誰にとっても生得的であり、素質・影響に応じて発現したりしなかったりするものだ。性欲動をうまく抑制できれば性は正常となり、できなければ倒錯もしくは神経症になる。

性目標の倒錯のきざしは、基本的にすべての人に存在すると考えることができる。しかしそれは幼児においてのみ確認できる。これはつまり、神経症の患者は、幼児のときの性の状態を維持しているはず、ということだ。

以上の議論を踏まえて、次にフロイトは、幼児性欲について論じていく。

2.幼児の性愛

おそらく、幼児に性欲動があると言われても納得できないひとは少なくないはずだ。幼児は無垢であり、性欲のような汚らわしいものとは無縁であるに違いない、と。これはフロイトが幼児性欲に関する説を打ち出した頃から受けていた批判のようだ。

ただ、フロイトからすると、幼児性欲について徹底的に考えることで初めて性欲動の本質とその生成のプロセスを理解することができるので、これを避けることはできない。

幼児性欲は健忘される

幼児性欲を批判する根拠のひとつに、私たちが自分自身の幼児期について、ほとんど何も覚えていないことがある。母親に抱っこされていたり、ハイハイで家を歩き回っていたりしたことは、昔のアルバムを見れば分かるが、自分の記憶を辿っても思い出すことはできない。おそらく幼稚園や保育所に通い始めたころの記憶が一番古いものではないだろうか?

フロイトいわく、私たちが幼児性欲の記憶を思い出せない理由、それはその記憶が抑圧され、健忘されているからだ。

自らを省みても、他の人々の心理学的な研究によっても、われわれが忘却している幼児期の印象が、人間の心的生活に非常に大きな刻印を残しており、それがその後の発達全体に決定的なものとなっていることは確信できるのである。だから幼児の頃の印象は、実際に消滅しているわけではなく、一種の健忘が存在しているのである。これは、成人した神経症者の経験として観察できるような健忘であり、その本質は意識から遮断(抑圧)されているということにある。

もっとも、こういう言い方があまり説得的でないのは確かだ。「幼児性欲は無いじゃないか」「そう思うのは君が忘れているからだ」—こんな答えでは、批判したひとは納得できないだろう。実際ここには問題がある。なぜなら、端的に言えば、幼児性欲が存在することは、確度がどうであれ、仮定の域を超えるものではないからだ。

幼児性欲の存在は観察によって想定できても、それを実在するものとして扱うことはできない。そこに認識論的な根拠はないからだ。微妙だが、これは重要な違いだ。というのも、もし幼児性欲を実在するものと見なせば、いわば「神経症の原因は幼児性欲にある」的な独断論に陥ってしまうからだ。

こうした独断論が現れる責任の一端はフロイトにある。それは確かだ。しかしそうした読み方では、フロイトのいいところが見えなくなってしまう。表現にインパクトがあるので、どうしてもフロイトの表現をそのまま受け取ってしまいたくなるが、そこはこらえて、いったん受け止めた上できちんと吟味する姿勢を忘れないように気をつける必要がある。

「おしゃぶり」で快感を味わう

さて、フロイトいわく、幼児が行う「おしゃぶり」は、ひとつの性的な表現だ。「おしゃぶり」によって幼児は、授乳の際に得られた快感を再び味わおうとしている。これは母親から快感を得ようとしているのではなく、みずから快感を味わおうとしている。したがってここで満たされる欲求は自体愛的なものである、とフロイトは言う。

精神分析によって解明されてきたさまざまな現象の相互関係を考察してみると、おしゃぶりは子供の性的な表現とみなすべきである。この行為において、幼児の性的な活動の本質的な特徴を研究することができるのである。

まずこの性的な活動のもっとも顕著な性格として、この欲動が他者に向けられたものではないことを確認しておこう。この欲動は自分の身体で充足されるのであり、ハヴロック・エリスの表現を借りると、自体愛的なものである。

さらにおしゃぶりする子供は、ある快感を追い求めて行動しているのは明らかである。子供はこの快感をすでに味わったことがあり、おしゃぶりしながらそれを思い出しているのである。

歯が生えてくると、栄養を摂取する欲求と快感を反復する欲求は分離する。そこで、幼児は快感を味わう対象として、他者ではなく自分自身の皮膚を選ぶ。他者は自分自身と異なり、つねに自分の自由になるとは限らないからだ。

排便で快感を味わう

次にフロイトは、排便から得られる快感に着目する。

フロイトいわく、幼児は排便時に肛門の粘膜に与えられる刺激を、苦痛と同時に快感としても感じているはずである。ここには苦痛を与える側と受ける側という両面性が現れている。

また、素直に排便するときは、周りの人に対する従順さを示しているが、これに対して、なかなか排便しようとしないときは、反抗心を示している。そうした頑固さは神経症の兆候と考えることができる、とフロイトは言う。

子供が肛門領域の性感的な刺激をうまく利用しているかどうかは、排便を我慢し、便の量が次第に多くなって激しい筋肉収縮を起こし、それが肛門を通過する際に、粘膜を刺激するようにしているかどうかで見分けられる。排便の際には、苦痛感とともに愉悦感が感じられているに違いない。乳児が便器をあてがわれても、世話をしてくれる人にとって都合のよい時に排便するのを頑固に拒み、自分の好む時まで排便を引き延ばそうとする場合には、長じて神経症になるか、風変わりな人になることを示す兆候と考えることができる。

「前性器的体制」が誕生

以上見てきたように、フロイトによれば、幼児の性愛においては、「おしゃぶり」による快感と、排便による快感が重要な意味をもっている。幼児の性的な体制は自体愛的なものであり、これが発展することで、成人の性的な体制が形成される。

幼児の段階では、性感帯は性器の領域に限定されず、性器はまだ支配的ではない。こうした性的体制をフロイトは前性器的体制と呼び、2種類の段階があるとする。

  1. 口唇的な体制
    • 「おしゃぶり」はその名残
  2. 肛門サディズム的な体制
    • 性対象が自分ではなく他者に

口唇的な体制では、性的な快感の感受は栄養の摂取と結びついており、切り離すことができない。「おしゃぶり」は自分自身から性的な快感を得ようとする試みであり、体制の名残と考えることができる。

一方、肛門サディズム的な体制では、能動性と受動性が対立している。能動性は排便による征服欲のうちに表れ、受動性は腸に与えられる刺激を感受することに表れる。フロイトいわく、こうした両面性が肛門サディズム期の特徴だ。

抑圧によって「昇華」が起こる

フロイトいわく、幼児期に性欲動が抑圧されることによって、性的な興奮は直接に満たされることを妨げられ、迂回して性的でない目的へと向けられる。このプロセスをフロイトは「昇華」と呼ぶ。

フロイトによれば、昇華によって心的な「力」(嫌悪感、羞恥心、美的・道徳的な理想)が作り上げられる。

潜在期においても、小児の性的な興奮は存在しているが、エネルギーの全部あるいは大部分が性的な用途から逸らされ、他の目的に向けられる。性的な衝迫力を性的な目標から逸らし、それを別の目的に向けるこのプロセスは昇華と呼ぶに値する。この昇華によってすべての文化的な営みのための大きな力が確保されるというのは、文化史家の一致した意見である。

フロイトは、昇華が起きるプロセスについて、性的興奮を受け止めるほどまでに性器が成長していないため、興奮は不快感を生み出し、この不快感を抑制するために内的な力が作り上げられるのだ、というように説明している。

ただ、正直なところ、このプロセス自体が問題であるわけではない。大事なのは、美や道徳に対する感受性が、性的な体制の展開に応じて形成されるという直観だ。

それまで哲学的に一般的だったのは、美や道徳といった諸価値は、モノと同じく、意識によって明瞭に知覚されるとする見方だった(カントがその極致)。ニーチェは「権力への意志」という概念を用いて、カントのような「意識主義的」な見方に対してひとつの対立項を打ち出したが、あくまで抽象的な言い方にとどまっていた。

フロイトは、ニーチェよりも具体的に、私たちの内面で美や道徳などの価値がどのような過程で成立するのかについて論じている。もちろんフロイトの説も仮説以上のものではないが、発生論的に見て、参考に値するのは確かだ。

3.思春期での変化

幼児期から小児期にかけては、性対象が性器のもとに従属せず(もしくは不完全にしか従属せず)、口や肛門といった複数の領域が性対象となった。

しかし、潜在期を経て思春期になると、複数の領域で生じていた性欲動は、特定の他者へと向かうようになる。それと同時に、性感帯は性器を中心として秩序化され、性器の優位が確立される。

思春期になると、性欲動に変化が発生し、小児の性生活は最終的な正常な形態に進むことになる。この時期までの性欲動は、圧倒的に自体愛的なものであったが、これからは[他の]性対象をみいだすことになる。これまでは性欲動は個別の欲動と性感帯によって生まれ、これらが互いに無関係に、特定の快感を唯一の性目標として模索していた。しかしこの時期に新しい性目標が与えられ、すべての部分欲動はこの性目標の遂行のために協力するようになり、性感帯は性器領域の優位に服するようになる。

性対象の魅力=「美」

性欲動が特定の他者へと向けられるとき、眼を通じて与えられる興奮によって魅惑されることが多い。この興奮をもたらす性対象の特徴は「美」や「魅力」と呼ばれる。魅力は性的な興奮を高めるか、それが存在していない場合には、これを生み出す。

ここで着目に値するのは、人間の美や魅力をエロス的な水準で論じていることだ。

昇華によって示唆されたのと同じく、美は私たちの身体性に訴えかけ、エロス的な価値として感受される。対象そのものが美しいのではなく、私たちの欲動に相関して美しいものとして現れる。

この直観は、私たち自身が自分の経験を振り返っても、ポイントを捉えていると言えるはずだ。

前駆快感と充足快感

思春期では性器が発育し、性行為が可能となる。性感帯は性器に集中し、ここに与えられる刺激によって性的な興奮が高められる。

フロイトはここで、性行為が可能となることによって、性的な快感は「前駆快感」と「充足快感(最終快感)」に区別することができるとする。前者は性感帯が興奮することで生じる快感であり、後者は、端的に言えば、オーガスムに達することで生じる快感だ。充足快感は幼児の段階には見られず、思春期に入って新しく現れる快感だ。

性感帯の興奮によって発生する快感の本質と、性物質の放出の際に発生する快感の本質は、非常に異なるものであるため、別の名前をつけて区別しておく価値があるだろう。ここでは最初の性感帯の興奮によって発生する快感を前駆快感と呼び、最後の快感は、最終快感または性行為の充足快感と呼んでおきたい。前駆快感は、幼児の性欲動において(幼い形で)すでに存在していた快感と同一のものであるが、最終快感は新しいものであり、思春期に初めて登場した条件と結びついたものと考えられる。この性感帯の新しい機能は、次のように表現することができる—小児期の生活においてすでに獲得が目指されていた前駆快感を利用しながら、これを上回る充足快感を獲得するために、性感帯を利用するのである。

性感帯の刺激から得られる前駆快感を利用しつつ、オーガスムによる充足快感を得ようとする。その意味で、前駆快感はあくまで充足快感に至るまでの通過点にすぎない。

だが、前駆快感が大きくなりすぎると、性目標の倒錯が起きてしまう。

この場合には性プロセスをさらに促進させるための駆動力が失われ、全体のプロセスが短縮され、性目標を準備する営みが、正常な性目標の代用となる。

性対象が「再発見」される

フロイトいわく、幼児期から思春期にかけて、性欲動は以下のようなプロセスで変化していく。

  1. 母親の乳房を性対象とする段階
  2. 自体愛的な段階
  3. 潜在期
  4. 外部にて性対象を見いだす段階

栄養の摂取と結びついている最も初期の段階から、「おしゃぶり」や排便によって快感を自体愛的に感じる段階に至る。その後、性欲動は心的な「力」によって抑圧され、迂回が生じる。昇華が起こり、美的・道徳的な理想が形成される。このプロセスはすでに見てきたとおりだ。

思春期では、性対象を外部に見いだそうとする。ただし、フロイトいわく、実はこれは母親の乳房を対象としていた最初の段階を繰り返すことにほかならない。その意味で、性対象は「再発見」されるのだ。

この最初の性的な関係は、その後のすべての性的な関係にとって非常に重要な意味をもつものである。性的な活動が栄養の摂取と分離した後も、この関係の大きな部分が引き継がれ、これが対象選択を準備するのである。そしてこれが、かつての失われた至福を再びみいだすために役立つ。性の潜在期の全体を通じて、子供は自分のよるべなさを取り除き、欲求を充足してくれる人物を愛することを学ぶ。これは乳児と母乳を与えてくれる関係を手本とし、それを延長したものである。

潜在期では、最初の母親との関係を手本として、欲求を充足してくれる人物を愛することを学ぶ。原初的な関係が思春期における対象選択の基盤となるのだ。そうフロイトは言う。

近親相姦の空想を克服するよう要請される

対象選択で最も簡単なのは、母親もしくは父親を性対象とすることだ。しかし潜在期の間に与えられた掟などによって、肉親を性対象とすることは厳しく制限される。これは何よりも社会の文化的な要請なのだ。

フロイトいわく、性対象の選択はまず観念のうちで行われる。以前と異なり、望めばすぐに性対象を選べるわけではないからだ。

思春期では、幼児期と異なり、対象は一個人として表象される。そこでまず第一に登場するのが、少年にとっては母親であり、少女にとっては父親だ。社会的には、こうした近親相関的な空想は克服し、放棄するように要請される(インセスト・タブー)。

思春期の対象選択に両親との関係性が果たす役割を考えると、幼児期から小児期にかけて、両親との関係に障害が生じると、思春期以後の性的な体制に重大な影響があることは否定できない。両親同士の不和は、子供の性的な成長を阻害したり、後に神経症を引き起こす要因のひとつになったりするのだ。

多くのヒステリー患者においては、死去、離婚、別居などの原因で、幼児期に片親を失ったために、残った親が子供の愛情を独占した場合には、性対象として選択される人の性別を決定する条件となったり、持続的な性対象倒錯が発生する結果となるのである。

本書の内容は以上だ。

エロス的体制の発生論

フロイトは本書で、幼児期から思春期にかけての性的な活動に着目することで、私たちが身体性と感受性を形成していくプロセスについて論じてきた。そのプロセスの出発点にあるのが、授乳活動に始まる母親との関係性だ。授乳活動は単なる栄養補給ではない。それは子供にとっての原初的なエロス的活動だ。「おしゃぶり」はそこで得られた快を再度味わおうとしている行為である。そうフロイトは論じていた。

確かに、フロイトには、一切を性欲動やリビドーで説明しようとする向きが無いわけではない。そのため議論はいくぶん独断的なものとなっており、仮説と言いつつも強気に出ている感がある。神経症になるのはリビドーの流れが不調をきたしているからだ、とか、フェティシズムはリビドーの固着によって生じるのだ、という言い方は、納得できるひともいればそうでないひともいるだろう。特に、性感帯に関する議論については、男性にとっては納得できても、女性にとってはほとんど納得できないかもしれない。

ともあれ、本書の優れた直観は、幼児期から思春期にかけての両親との関係性が、私たちの感受性、身体性の形成に重要な意味をもっているという点にある。

身体性は、肉体の物理的な成長に応じて自然と備わるわけではない。母親との原初的な関係から出発し、自体愛、潜在期、性対象の再発見を経て形成される。その意味で身体性は、関係性のうちで時間的に形成されるものである。この直観はなるほど確かにと思わせるものだ。

女性の性欲動論が必要

ミルの『女性の隷従』でも同様の問題が立ちはだかったが、性的な体制について普遍的に論じるためには、やはり女性による本質的な考察が必要だ。ここでフロイトを男性中心主義と批判しても仕方がない。実際フロイトは男性であり、女性の内面を直接に把握することは不可能だからだ。

女性による洞察によって初めて男性の性的な体制との違いや共通点を浮かびあがらせることができる。必要なのはフロイトを責めることではなく、女性による性欲論だ。それなしではどうしても側面的な議論にとどまってしまう。