デューイ『経験と教育』を解読する

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ジョン・デューイ(1859年~1952年)は、パース、ジェイムズと並んでプラグマティズムを代表する20世紀アメリカの哲学者・教育思想家だ。

本書『経験と教育』(1928年)で、デューイは教育の本質論を展開する。デューイはかなりの長生きで、晩年にいたるまで数多くの著作を残したが、なかでも『経験と教育』は彼の教育思想のポイントをコンパクトに伝えている。

教育を本質から考えよ

デューイによれば、教育思想の歴史はひとつの対立によって貫かれている。それは教育は内部からの発達とする見方と、外部からの形成だとする見方の対立だ。素質の自然の発育を信じる派と、詰め込みを重視する派の対立、と言い換えてもいい。

教育理論の歴史は、教育は内部からの発達であるという考え方と、外部からの形成であるという考え方との間にみられる対立によって特徴づけられている。またその歴史は、教育は自然的な素質を基礎におくという考え方と、教育は自然の性向を克服し、その代わりに外部からの圧力によって習得された習慣に置き替えられる過程である、という考え方との間の対立によって特徴づけられている。

この対立はしばしば、進歩主義教育と伝統的教育の対立として位置づけられてきた。

伝統的教育の教育観は、学校の任務は過去から継承されている知識や技能を生徒たちに正しく伝えることで、彼らを将来の生活に備えさせることにあるとする。

この伝統的教育に対する不満を背景に、進歩主義教育(新教育)が生まれてきた。

進歩主義教育からすれば、伝統的教育は大人の基準を生徒たちに押し付けている。伝統的教育はドリルを使った教育を行うが、教科書から得られる知識は、生活の現場における経験とはかけ離れている。それは結局のところ生徒の自由な活動を抑制し、個性の成長を押しとどめてしまうにすぎない…。

私はこの対立軸のどちらにも味方しない。なぜなら私は教育を「主義」からではなく、その本質から再考しなければならないと考えるからだ。

新運動を推進している人たちは、たとえ「進歩主義」という主義に立っていたとしても、教育については、なんらかの主義という見地からではなく、「教育」それ自体の側面から再考しなければならない

ところで、教育哲学は、教育と「経験」の間に何かしら必然的な関係があるという前提に基づいている。教育哲学の全体がそれに支えられているといっても過言ではない。それゆえ経験がどのような本質をもっているかについて見ていく必要がある。

原理1:「経験の連続性」の原理

デューイによれば、経験において問題となるのは、その質だ。

どんな経験にも2つの側面がある。ひとつは快不快の側面。そしてもうひとつは、直接の快不快を越えて、それ以後の経験に影響を及ぼすという側面だ。2つ目の原理をここでは「経験の連続性」と名付けておきたい。

「経験の連続性」とは、経験は時間的な連続関係をもつため、先行する経験は後続する経験の質に影響を与えざるをえない、ということを意味している。

ところで、民主主義の諸理念(個人の自由など)が受け入れられているのは、それらが個人の経験の質を向上すると見なされているからだ。それゆえ民主主義社会における教育の評価基準は、成長一般を促進するか抑制するかにある。つまり民主主義社会において、経験の価値は、それ以後の経験に及ぼす影響力に基いてのみ測られるのだ。

経験というものはいずれもみな動きゆく動力なのである。したがって、経験の価値は、経験が向かっていき、そこにはいり込んでいくという動きに基づいてのみ判断されうるものである。

ある経験の効果がすぐに現れてくることはない。したがって教育は計画的に行われなければならない。

教育者の第一の任務は、生徒たちが将来により望ましい経験をもてるように現在の経験を整えることにある。教育者は生徒の経験が向かっていく方向を把握し、どういった態度が連続的な成長を促進するかを知らなければならない。また、これに加えて、教育者は生徒を個人として共感する理解力を持たなければならない。

原理2:「相互作用」の原理

次にデューイは「相互作用」の原理について論じる。デューイによれば、これは連続性とならぶ経験の本質だ。

経験は、客観的条件と内的条件の相互作用によって成り立っている。そして、この相互作用に基いて「状況」が成立する。個人が世界のうちで生きるとは「状況」のなかで生きることを意味しているのだ。

ここで注意しなければならないが、状況のなかで生きるという際の「なかで」は、お金がサイフのなかにあるとか、コーヒーがコップのなかにあるというのとは意味が違う。なぜなら「状況」の中で生きるとは、彼が対象もしくは他者と相互作用を行なうことを意味するからだ。

デューイによれば、私たちの一切の経験は、以上の2原理にもとづいている。

経験は「状況」のうちで絶えず再構成されている。この絶えざる再構成こそが経験の本質であり、また成長の本質でもある。そうデューイは考える。

私たちの経験は絶えざる再構成のもとにある

生徒の未来を考慮せよ

デューイによれば、「経験の連続性」と「相互作用」の原理は密接に関係している。「状況」が移行するにつれて個人の経験世界が変化するとき、以前の経験が新たな「状況」を理解するための道具となるからだ。

個人がある状況のうちで学習した知識や技能は、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理するための道具となる。経験はそこからフィードバックを得ることで、また別の新たな状況を処理できるようになる。このプロセスは私たちの経験にとって本質的だ。

個人が一つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。この過程は、生活と学習が続くかぎり進行する。そうでなければ、経験の進路は無秩序なものになる。

こうした経験の連続性ゆえに、教育のそれぞれの過程においては生徒の未来が考慮されなければならない。つまり教育は未来への準備として行われなければならない。

この点について、伝統的教育は、未来への準備と称して色々な教科を教えているが、教科の内容を単に習得することだけで未来に準備したことになるわけでは全くない。なぜなら生徒は授業で実際に教えられている内容だけを学んでいるわけではなく、継続力や忍耐力もまた習得しており、むしろこれらのほうが将来において重要になるからだ。

おそらくあらゆる教育学的な誤りのうちで最大のものは、人はその時点で学ぶ特殊な事柄だけを学習しているという考え方である。好きなことを持続させ、嫌いなことを耐え忍んでいく態度が形成される仕方にみられるような、附随的な学習のほうが、綴字(スペリング)の授業や地理や歴史の授業で学習することよりもはるかに重要なものである。そのことはまた、現にしばしば重要なものである。というのは、このような態度こそ、将来において基本的に重きをなすものだからである。

教育=ルールによって営まれる状況

デューイによれば、進歩主義教育は生徒たちを規則から解放し、素質をありのままに発展させることが彼らのためになるとする信念のもとで行われてきた。しかしそれは誤りだ。なぜなら教育は本質的に社会的なプロセスであり、社会はいくらかの統制のもとで営まれているゲームだからだ。そうデューイは主張する。

事実上否定できないのは、一般的に人びとがみずからの自由を制限するような社会的統制によく従っており、しかもそれを誰もその統制を否定しようとしていないことだ。

そうした状況には少なくとも3つの特徴がある。ひとつはルール(規則)がその状況の一部であること。その状況を「ゲーム」として捉えると、それが合理的に営まれているかぎり、ゲームのプレーヤーはただゲームを行なっていると感じているだけで、ルールを押しつけられているとは感じていない。もうひとつは、プレーヤーが状況に対して不満を抱いている場合、そこで不満の対象となっているのは規則それ自体ではなく、規則違反、つまりアンフェアな行為に対してであること。そして3つ目は、ルールは標準化されており、何がフェアで何がアンフェアかについての一般的な了解が成立していること。

教育とは、これら3つの本質をもつ状況であり、社会的なプロセスである。この観点から教師の意義を捉え直してみると、教師は生徒たちを支配する独裁者ではなく、集団の活動の指導者であり、ゲームがきちんと営まれているかを判断する公平なレフリーでなければならないことが明らかになる。

教育が経験に基礎づけられ、教育的経験が社会過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。つまり、教師は外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになるのである。

もちろん私はすべての生徒がゲームになじめると思うほど浅はかではない。ゲームに参加できない生徒がいるのは事実だ。彼らをも包括するようなルールを定めるのは難しいので、その場合は個別対応を行えばよい。

自由となるためには=欲望の延期

それゆえ生徒たちを単に規則から解放すればいいわけではない。彼らが本当に自由となるためには、知性によって自分の衝動や願望をコントロールできる能力を身につけることが必要だ。デューイはそう続ける。

自由について最もありきたりな誤りは、身体的な自由、つまり拘禁せず運動させる自由と、知性の自由を混同してしまうことだ。

最も重要な自由は「知性の自由」だ。「知性の自由」によって、何が本当に価値あるかを判断することが出来るからだ。

身体的な自由は、吟味された目的を実行するための条件だ。それは目的を立てたり判断したりする力としての自由を達成するための手段であって、最終的な目的ではない。

制限から解放される自由は、つまり自由の消極的な側面は、力である自由への手段としてのみ称賛されるべきものであるからである。その力は、目的を形成する力であり、賢明に判断する力であり、願望を実践したことからの結果によって願望を評価する力であり、選定された目的を実施する手段を選択し、秩序あるものにする力である。

ではこの「目的」は、一体どのようにして形成されるのだろうか?

目的とは衝動から得られる「結果の見通し」のことだ。結果を見通すためには知性の働きが必要となる。それゆえ目的は、状況の観察、過去の状況についての知識、そして観察結果と状況についての知識を結合する判断力の働きによって形成される。

欲望は知的な予想と結び付けられるときに、そのアイディアを推進する力となる。ただ単に衝動によってだけでは目的を達成することはできない。

したがって教師は生徒に、観察と判断を行うまでの間、初期の欲望を延期する能力を身につけさせることが重要だ。

そのうえで、生徒が自分の欲望をうまく利用できる点を見出し、それを彼に示唆する必要がある。教師による示唆は、生徒が自由を実現するための出発点として働くのだ。

教材は生徒の経験に応用可能なものに

最後にデューイは、具体的にどのような仕方で授業が行われるべきかについて論じている。

教育は次のようなプロセスを取るのが理想的だ。

  1. 経験に基づいて仮説を立てる
  2. 結果によって仮説を検証する
  3. 検証結果を反省して次の経験に備える

このように経験と学習を交互に行えば、生徒は自分の経験の範囲をよく拡大させることができる。

いずれにしても、生徒の学ぶ事実と法則が日常生活に沿った仕方で応用されるように、教材は教えられなければならない。教材は生徒の日常生活の経験の内に求められなければならず、生徒の成長に合わせて教材は発展していかなければならないのだ。

生徒は科学的教材に引き合わされるべきであり、その教材のもつ事実と法則が、日常の社会生活になじんだかたちで応用されるよう、その手ほどきがなされなければならない。このことこそ、健全な教育的原理というものである。この方法を遵守することは、科学それ自体を理解するうえでの最も直接的な方途であるばかりではなく、生徒たちが成熟するにつれて、現存する社会の経済的、産業的な諸問題を理解するうえで、最も確かな方途である。

何のための成長?

デューイの教育論はかなり本質的で、学校教育の思想的バックボーンとしていまなお効力をもっている。実験や社会見学などの「体験学習」のアイディアは、いま見てきたデューイの議論に基づいている(学校で前もって知識を学ぶ → 見学先で知識を検証する → グループ発表でアウトプット、といった一連の流れは、まさしくデューイが示したものだ)。

デューイの教育論は、学校教育を社会、とりわけ民主主義社会の内部に位置づけている点で、ただの教育方法論とは一線を画している。

ただ、生徒は一体何のために成長しなければならないのかについて、デューイは上手く答えられていない。成長と言うだけでは、具体的にどのような目的のために成長するべきなのか、また、何が十分に成長したと判断するための基準なのかは分からない。それゆえ各教育段階で最低限教えられるべき内容を規定できない。これでは教育の基礎方針としては不十分だ(この点については、日本デューイ学会紀要50号所収の苫野一徳「教育的経験=『成長』の指針の解明素描」が詳しく論じている)。

とはいえ、教育が生徒を自由にするものでなければならないという直観は私たちを強く納得させる。この点に関してはヘーゲルの考察が参考になる。ヘーゲルは『法の哲学』で、自由は他者による承認を必要とすると論じていた。私が他者を一個の人格として承認すると同時に、他者が私を人格として承認する。この「人格の相互承認」が自由を関係性のうちで実現するために必要だ、と。

市民社会の基本理念は、個々の人格性における平等にある。教育は生徒に、他者が自分が同じ人格であり、出自や財産で差別してはならないこと(そうすることは不当である)を生徒たちに了解させる必要がある。デューイの「欲望の延期」は、この目的を達成するために有効に働くはずだ。