デカルト『精神指導の規則』を解読する

『精神指導の規則』は、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596年~1650年)による論文だ。1628年に書かれた。未完。9年後の1637年には『方法序説』が発表されているので、本論は途中で放棄されたらしい。

全体の構成としては、21の「規則」を掲げ、それぞれについて解説を行っている。ここでいう規則とは、私たちが「よく」考えるために従うべきポイント、くらいの意味だ。どれだけ平凡な精神であっても、ハズレなく他のひとと同じ結論に達するために押さえておくべき考え方の原理。簡単に言えばこれが「規則」の意味であり、本論全体のモチーフでもある。

それでは早速、以下、本文に沿って内容を見ていくことにしよう。

普遍的な知こそが目的

規則第一
研究の目的は、現れ出るすべての事物について確固とした真実な判断を下すように精神を導くこと、でなければならない。

学問はこれまで、学科ごとに区別して、それぞれの領域において個別的に研究を行うべきだと考えられていた。

しかしこれは誤っている。なぜなら一切の学問は「人間的な知恵」であり、各分野はその点で共通しているからだ。

なるほど確かに多くのひとが各学科で学問的な研究を行っている。人間の文化、植物の形態、星の運動、金属の変質などに関してきわめて細かい探求が行われている。しかしほとんど誰も、良識すなわち普遍的な知恵について着目しないのは驚くべきことだ。というのもそうした探求の一般的な目的は、まさしくこうした普遍的な知恵にほかならないからだ。

普遍的な知恵を探求するのは、その分野においてスコラ的な知識を身につけるためではない。そうではなく、自分自身の生をよりよく導くためなのだ。

ただ、理性の自然的光明を増すことをのみ心掛くべきである。しかもこれは、学院のあれやこれやの難問を解くためでなく、生活の一々の状況において悟性が意志に何を選ぶべきかを示すようにするためなのである。

私たちの生をよりよく導くこと、これが一切の学問に共通する目的である。これは言いかえると、一切の事柄は私たちの生にとって意味があるゆえに探求の対象となる、ということだ。もちろん学科によって程度の差はあっても、全く無関係ということはない。天文学は惑星の動きを知ることで地球の将来を予測し、歴史学は人間性の展開プロセスから知恵を得ようとするように。

自分の理性で確実に見て取れるものだけを探求すること

規則第二
それの確実不可疑の認識をわれわれの精神が獲得しうると思われるような対象にのみ、携わるべきである。

私たちは、自分自身の理性で完全に認識できるものだけを探求するべきだ。というのも、真か偽か区別できず疑わしさがずっと残るような対象に取り組んでいれば、知を増すよりも減らす危険のほうが大きいからだ。

確かに学者たちは、そんなものはほとんどないと言うことだろう。しかしそれは彼らが、これまでさんざん詭弁を弄してきたゆえにそう思わずにはいられないからなのだ。

いわゆる哲学者(デカルトの時代ならスコラ哲学者)は、様々な仮説を並べ立て、それらをどれだけ壮大に、かつエレガントに示すことができるかについて競ってきた。そのため、本当に確実と言えるものなど示すことはできない、と考えるようになってしまった。このデカルトの感度は、ポストモダン思想の嵐が通過した現代に生きる私たちにとっても、確かにと思えるところがあるはずだ。

そうした不確実な意見しか得ることができない事柄について、完全な知識を得ることはできないだろう。

とすれば、私が見るところ、私たちが確実な認識に到達することができる学問は、算術と幾何学しか残らないことになる。

もっとも、だからといって私はスコラ哲学がムダだったと言いたいわけではない。それは論争によって若者を教育するという意義があるからだ。しかし彼らが成長して大人になったときには、難解な空論にかかずらって時間を浪費しないよう、まずもって注意しなければならないのだ。

算術と幾何学が完全な認識に到達できる理由として、デカルトは、それが純粋に理性的(合理的)な対象だけを扱うからだ、とする。「1+1=2」や「三角形の内角の和は180度である」はいつでも真であり、偶然的な要因(人種や文化や性別など)に左右されることがない。そういう意味での必然性が、ここでいう「完全な認識」の条件だ。

とはいえ、デカルトは算術や幾何学だけを探求するべきだと言うわけではない。

これらすべてから結論すべきは、実際ただ数論と幾何学とのみを学ぶべしということでなく、単に、真理への正道を求める者が、数論や幾何学の論証に等しい確実性を獲得できないいかなる対象にも携わってはならぬということである。

もちろん、歴史学や社会学といった事実を扱う経験科学においては、数論(算術のこと)や幾何学の論証のような確実性を得られるとは限らない。

ただ、ここでのデカルトの力点は、探求によって普遍的な知見が得ることができるような分野と、どれだけ探求を続けても仮説しか示せない分野をきちんと区別するべきだ、という点にあった。

なぜわざわざデカルトがそう説いたのかというと、得てして著述家は憶測によって自説を難解なものに飾り立て、確実で明白な真理を簡単に示そうとしない、と考えていたからだ。

実に著述家たちは、不用意な軽信によって、論争中のどれかの意見をとることに決めてしまった場合、いつもわれわれを、きわめて巧妙な議論によってその意見へ導こうと努める傾向あるのが常である。また反対に、何か確実明白なものを首尾よく見出した場合は、種々な錯雑した迂路を通じてしか、それをわれらに明さない。これは明らかに、論の単純さが発見の価値を減ずるかと恐れてのこと、或いは明白な真理をわれらに対し意地悪く拒むからのことである。

デカルトには、真理は誰にとっても了解可能なシンプルなものであるという直観があった。ヤスパースガダマーのような「もったいぶり」は哲学にとっては悪しき態度であり、学問的とは言いがたい。そうデカルトは言うわけだ。

「真理主義者では?」

デカルトのいう「真理」とは、数学や幾何学と同じ程度に明証的(明晰かつ明白)な事柄のことだ。そこに神秘的、形而上学的な意味合いはほとんどない。それはむしろ「形而下」なものだ。というのも、デカルトは真理についての判断は、明晰明白な直観と演繹に基づく場合にのみ、誤謬なく行われると考えていたからだ。

規則第三
示された対象について、他人の考えたところ或いはわれわれみずから臆測するところを、求むべきではなく、われわれが明晰かつ明白に直観しまたは確実に演繹しうることを、求むべきである。何となれば他の途によっては、知識は獲得されないからである。

私たちは直観と演繹によって、間違うことなく事物を認識することができる。直観は想像力を介さず、純粋かつ注意しつつ把握することであり、不可疑的な把握であるからだ。一方、演繹は、原理から出発すれば、事物を確実に認識することができる。

誰でも実際に例示できることが真理にとって必要な条件だ。これはつまり、「私だけが真理を知っている」的な図式は、最初から成立しないということだ。誰もが共有できてこそ真理と言える。そうデカルトは言うわけだ。

真理の探求には「方法」が必要

規則第四
事物の真理を探求するには方法(Methodus)が必要である。

闇雲に真理を探そうとしても、それは非効率だ。

デカルトは、真理を探究するには方法が必要であるという強い直観があった(方法がないなら最初から学問に携わるべきではないとさえ考えていた)。

ここで、方法とは、真の認識に達するために守らなければならない規則のことを指している。ただこれではよく分からない。そこで規則5~7を見てみると、次のようにある。

規則第五
方法全体は、何らかの真理を発見するために、精神の力を向けるべき事物の、順序と配置とに存する。しかして、複雑な不明瞭な命題を、段階を追うて一層単純なものに還元し、しかる後、すべての中最も単純なものの直観から始めて、同じ段階を経つつ、他のすべてのものの認識へ、登り行こうと試みるならば、われわれは正確に方法に従うことになるであろう。
規則第六
最も単純な事物を複雑な事物から区別しかつ順序正しく探求するためには、若干の真理を他の真理から直接的に演繹して成り立ったところの、事物の系列の一つ一つについて、何が最も単純であるか、どんなふうに他のすべてのものがこの単純者から、或いはより多く、或いはより少なく、或いは等しく、隔たっているかを、観察すべきである。
規則第七
知識を完成するためには、われわれの目的に関係ある事柄をすべて一つ一つ、連続的な、どこにも中断されていない、思惟の運動によって、通覧し、かつそれらを充分な順序正しい枚挙(enumerastio)によって総括すべきである。

事物を相互に比較して、それをできるだけシンプルなレベルに落とし込み、本質を注意深く観察すること。原理から事実の系列を演繹し、系列全体を見渡し、全体を枚挙(=帰納)によって把握すること。こうした手続きによって初めて事物の真理を見て取ることができる。

直観、演繹、帰納—この3つの手続きが「方法」のポイントだ。その過程で少しでも見落とすようなことがあれば、結論の確実性は消えて無くなる。一個の計算ミスが命取りになる。

普遍数学

デカルトにとって、当時の数学は上記の方法によって支えられておらず、心の底から納得できるものではなかった。数学の対象は順序と計量的な関係であり、その知見をもとにして、たとえば星や音に関する学問が成立する。それをデカルトは「普遍数学」と呼ぶ。

何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣用されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis)と呼ばるべきであること—というのはその他の学問が数学の部分と呼ばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである—。

本論が放棄されたひとつの理由は、デカルトの力点が普遍数学から、一切の学の基礎としての「第一哲学」の構想へと移ったことにあるとされている。

認識の可能性について一生に一度は考えるべき

規則8について、デカルトは次のように論じている。

これまでの規則を守って考察していれば、対象が直観できないのは、誤謬ではなく理性の本性によるものであることが分かるはずだ。

認識の可能性について迷っていることのないように、私たちの理性はどこまで認識できるか、一生に一度は考えてみるべきだ。認識の可能性を明らかにする前に世界についての仮説を様々に論じるのは不合理だ。

しかし、意識の限界を明らかにするのは決して難しいことではない。なぜなら私たちは、対象がどれほど分散していようと、方法に従えば、全体をきちんと見て取ることができるからだ。

われわれはこの論文全体において、真理の認識への、人間に許されたすべての途を、できる限り正確に探究し、できる限り分り易く説明するに努め、以って、この方法全体を完全に習得したすべての人をして、かれがいかに凡庸な精神であっても、他人が達しえてかれ自身の達しえぬものは一つもないこと、及びかれが或ることを知らぬとしてもそれは精神または方法の欠陥によるのではないこと、を悟らせようと思う。

方法に正しく従えば誰でも真理に達することができる。この普遍性に対する強い確信こそ、中世スコラ哲学とデカルトを分かつ決定的な分岐点だ。

中世スコラ哲学では、神が真理を照らしてくれるからこそ、被造物たる人間は真理を見て取ることができた。デカルトの「方法」は、そうした見方に全く反するものだ。私たちの意識が直観し、疑いなく正しいと見て取れたものが真理であるとする見方は、当時ではあまりに無神論的なものだったと言える。

ヨーロッパ近代に生き、いまなお古典として読み継がれている哲学者は、その多くが政府もしくは知識人階層から無神論者として批判されていた(デカルト、ホッブズ、ルソー、スピノザ、ヒュームなど)。当時の社会秩序はキリスト教に基づいていたため、人間を出発点として社会や認識について論じることは反社会的な行為として、為政者から厳しく弾圧されていた。

シンプルな原理から出発すること

ともあれ、次にデカルトは、規則9にて、どうすればきちんと方法に従うことができるようになるか、という点について論じる。

規則第九
精神のすべての力をきわめて些細な容易な事物に向けるべきである。そして、われらが真理を判明に明瞭に直観するに慣れるまで、長くそこにとどまるべきである。

単純なものからじっくり考察すれば、直観できるようになる。いきなり複雑な対象を見ても理解することはできない。木を見る前に森を見ても、判明な認識を得ることは難しい。

どんな学問においても、まずは明瞭な事柄から考察するべきだ。単純な対象をきちんと直観して捉える習慣を身につけてから複雑な対象に取り組むほうがいい。

しかしひとは一般に難解で深遠な議論を崇める傾向にある。たとえそれが曖昧な基礎から出発していようとも。これに対して私たちは、単純な基礎から導いた場合でも真理であることに変わりはないということを、強く意識しておくべきだ。

確かに、なかには他のひとよりも生まれつき優れた直観能力を身につけていることもあるだろう。しかし方法と練習のほうが、それに対してはるかに大きな影響を与えるのだ。

すべての人は、一度にごく少しの単純なものを思惟によって捉える習慣をつけ、以って、最も判明に認識するところと相等しき判明さを以って直観するものでなければ、何ものをも知ったと思わぬように成らねばならない。そして、事実或る人が他の人より生来これに長じているということはあるけれども、しかし方法と練習との方が遙かに多く、精神をして、それに長ぜしめるのである。

あのデカルトに練習が重要だと言われると、何だか心強い気持ちにならないだろうか?

デカルトも最初から天才だったわけではない。数学の問題に取り組むときも、決してスラスラと流れるように解いたのではなく、困難にぶつかりながら、じっくり取り組んでいたのだろう(もっともデカルトは自分が天才であることを意識していなかっただけかもしれないが)

デカルトは歴史上の人物であると同時に、私たちと同じように理性や思考力をもつひとりの人間でもあった。もちろんデカルトと私たちにとっての問題は異なるが、問題に対する取り組み方という点では、確かに共通するところがあったと言えるはずだ。

順序よく、かつ繰り返し見て取ること

規則第十
精神が推理力をえるためには、すでに他人の見出した事柄を探究することに習熟せねばならない。そして人間の技術を、いかに些細なものでも、方法に従って、通覧せねばならない。就中、順序を展示しまたは前接している技術を通覧せねばならぬ。
規則第十一
われわれがいくつかの単純な命題を直観した後、それらから何か他のものを推論する場合には、連続的な、どこにも中断されていない思推の運動によって、それらを通覧し、それら相互の関係を反省し、そしてできるかぎり多くを同時に、判明に把握すること、が有益である。なぜなら、そうすることにより、われわれの認識が以前よりも遙かに確実となるとともに、精神の把握力も大いに増大するからである。

シンプルなものから、つねに方法に従い順序を追って通覧すれば、確実な認識に達することができる。カンや、何となくで推測するのは時間のムダであり、避けるべきである。

たとえば数学の問題に取り組むとき、どうやって解けばいいか分からなくなると、私たちは「多分この数字じゃね?」と力技で解こうとすることがある。テストの時は仕方ないが、普段からカンで解いていれば、解法を即座に見抜く力を身につけることはできない。これは確かにそのとおりだ。

また、デカルトいわく、思考を連続的に、かつ繰り返し行うことによって、推論はより確実なものとなる。一目見ただけではハッキリと分からなくても、何度も繰り返して見ることにより、記憶は強化され、より判明に把握できるようになる。

本質とは知覚経験から見て取られる共通項のこと

本質と聞くと、真理と同じように普段は隠されており、特別な知識を身につけた「選ばれし者」しか理解できない、といったイメージがあるかもしれない。しかしデカルトいわく、それは誤った捉え方だ。

これら単純本質は、それ自身で充分よく知られるものであるゆえ、それらを知るために何の骨折りもいらない。ただ、それらを相互に分離し、一つ一つ別々に、精神のカを集中しつつ直観することに努めればよいのである。

本質はあくまで私たちの経験を通覧して共通項を見て取ることで認識されるものだ。これについてデカルトは、磁石を例に取って説明している。

例えば、磁石の本質は何かと探ねるとき、人々はそれが骨の折れる困難なものであろうとの予感にもとづいて、直ちに、すべての明白な事物から心を転じ、何でも最も困難なものに向ける。そして多数の空論の間をあちこちさまよう中に何か新たなものが見つかるかも知れぬ、と漠然と期待するのである。けれども、磁石においてわれわれの知りうるのは或る単純なそれ自身で知られる本質から成り立つものに限ると考える人は、採るべき策をはっきり心得ていて、まずこの石について経験されうるあらゆる事柄を細心に集め、次に、それからして、磁石について認めたすべての結果を生むに必要な単純本質の混合はいかなるものであるか、を演繹しようと努める。これが一旦見出されれば、その人は、与えられた経験から人間の見出しうる限りの、磁石の真の本質を、覚知したと、憚りなく主張できるのである。

磁石が何であるかについて、私たちは実験を繰り返し、鉄を寄せ付ける力が磁石の本質であることを見て取る。本質とはそのようなものであり、決して現象の背後に隠れているようなものではない。しかしひとはそのことを理解せず、自分で考察することを止めて、偉い「哲学者」の意見に従ってしまう。「アノ先生がおっしゃっているんだから」と…。

控え目な人々は、しばしば多くのことの吟味から遠ざかってしまう。それらは容易で何よりも生活に必要なことであるにも拘わらず、ただ自分の力に及ばぬものと信ずるがゆえに。しかもかれらは、自身より秀でた精神の持主がそれを悟りうると思うものだから、かれらがその権威を信ずること篤い人々の意見を、心に抱いてしまうのである。

たとえばアリストテレスは、運動の本質を、「運動とは潜勢的状態の現勢化である」という言い方で説明している。しかし運動とは決してそのような定義によって説明するようなものではない。運動が何であるかは、知覚経験から共通項を見て取ることによってしか把握されないからだ。そうデカルトは言う。

算術と幾何学を学んで方法をマスターしてほしい

デカルトはここで、算術と幾何学を学ぶことの意義を説く。算術と幾何学を学ぶことで、直観、演繹、枚挙(=帰納)の手続きに基いて方法的に考えるための能力を効率的に身につけることができるのだ、と。

この方法の効用たるや、より高き智慧の獲得にとっては甚だ大なるものがあって、私は、われわれの方法のこの部分が数学の問題を解くために発見されたのでなく、むしろ数学の問題はほとんどただこの方法に習熟するためにのみ学ばるべきである、というを悼らぬくらいである。

以上が規則14までの内容だ。

算術・幾何学の問題の解き方

規則15から規則21までは、基本的に算術・幾何学に関する議論となっている。ざっとポイントだけ確認しておくと、

  • 図示はたいてい有益
  • 数式化によって系列内の関係を、シンプルかつ十分に示すことができる
  • 演繹に使うのは加減乗除のみ。それ以外は不要
  • 問題は方程式に落とし込んで解く
  • 方程式は最も低次のものに帰着させること
    • (3次方程式は2次方程式に、2次方程式は1次方程式に、ということか)

となる。

普遍性に対する強い確信

最初に確認したように、本論は未完だ。なので重要度としては『方法序説』や『省察』には劣るが、それでもなお、デカルトの合理性に対する強い確信が率直に現れていたり、「方法」の中身について具体的に論じていたりする点で、着目に値する考察だ。

本論から取り出せるポイントとして、さしあたっては以下のものを挙げておきたい。

  • 数学や幾何学のような、純粋な概念を扱う学問において、適切な仕方で考えたときに自分だけが共通の見解に到達できないことはありえない
  • 事実を扱う経験科学においては、数学や幾何学と同じ程度の必然性を確保することはできない

きちんと方法に従い、適切な仕方で考えたにも関わらず、自分だけ皆と同じ地点に行き着かないことはありえない。誰でも解法が理解できれば、それに基づいて解を導くことができる。そうした可能性が誰にとっても開かれていること、これがデカルトのいう真理の条件だ。

2つ目のポイントについては、経験科学においては、事象の全体の系列をあらかじめ見渡せるわけではないので、枚挙(=帰納)は一時点における事象までを考慮に入れた上で行うしかない。したがって、数学や幾何学のような絶対的な法則化は不可能であり、事象の変化に応じて法則を編み変える必要がある。その意味で経験科学における法則は偶然的なものだ。

「哲学と数学は別物では?」

「哲学と数学は全く別物。哲学が対象とする真善美は数学的な論理で測れるものではない!」

確かに哲学と数学の論じるテーマは異なるし、問題に対するアプローチも違う。ただ、だからといって哲学で論理の飛躍が認められるわけではない。誰もが納得でき、自分の経験のうちから演繹的に導けるような仕方で論じなければならないという点では、哲学も数学も変わらない。

デカルトの動機

デカルトは近代哲学の祖として知られるように、末期的なスコラ哲学を目の当たりにして、それを乗り越える仕方で哲学を立て直したと言える。その際の手段が「方法的懐疑」であり、原理が「われ思う、ゆえにわれあり」である。これは確かにその通りだ。

ただ、ここで見ておきたいのは、デカルトがなぜそうした手段で哲学をやり直そうと思ったのか、という点だ。

『方法序説』や『省察』でも同様だが、デカルトには基本的に、中世スコラ哲学に対して決して肯定的ではない。スコラ哲学は「ために」する学問となっており、決して誰も確かめることのできないような仮説同士を対立させているにすぎない。そのため思想の意義が次第に見失われ、懐疑主義が力を持つようになってしまった。デカルトはそう考えていた。

デカルトが「方法的懐疑」を示した背景には、哲学は知識自慢のための学であってはならず、誰でも納得できる仕方で、誰でも望めば共通の見解に到達できるような学でなければならない、という強固な確信がある。本書に限らず、至るところで普遍的な知の可能性について論じているのはまさしくそのためだ。