ベルクソン『時間と自由』を解読する

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本書『時間と自由』(原題は『意識に直接与えられたものについての試論』)は、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859年~1941年)の主著のひとつだ。1888年に発表された。

ベルクソンは哲学者としてはめずらしく、ノーベル文学賞を獲得するほどの文才をもっている(カントやヘーゲルとは大違いだ)。なので一見読みやすいが、哲学では文才が逆にアダとなることがある。美文であることは、その議論の原理的な強度を高めることにはつながらない。むしろレトリックとイメージによるゴマカシを入れ込んでしまいかねないのだ。

ベルクソンが論じた純粋持続は、まさにそうしたゴマカシの一例だ。

ベルクソンは純粋持続を、諸単位の有機的な結合による質的一体化である、というように表現している。粒子がゲル状になって一体化する場面を想像すれば何となく純粋持続のイメージに近いかもしれない。

ただ、こういう言い方では時間に関する問題をきちんと解決しているとは言えない。いかにもイメージ先行型で、時間に関する認識原理論が欠けているのだ。

とはいえベルクソンの全てがダメなわけではない。なかには納得させられるポイントもある。たとえば、私たちの感覚は質的なものであり、単純な刺激の積み重ねから成り立っているのではないという直観は、なるほど確かにと思わせられる。以下ではこの点も含めて、ベルクソンの議論を確認していくことにしよう。

感情は分割できない

初めにベルクソンは、私たちがもつ色々な種類の感覚を取り上げ、それらをひとつひとつ分析していく。

そこでベルクソンが主張している中心のポイントは、感覚は純粋に質的なものであり、それを量的に扱うことはできない、というものだ。

ベルクソンいわく、感覚は一般にイメージされるように「刺激→反応」図式に従うものではない。「刺激→反応」図式は、刺激が一定量蓄積されることの結果として知覚が生じると想定するが、事態はそのようになっていない、という。

フェヒナーの精神物理学では、感覚の差異は「最小の差異」(minima)として表され、差異の質は捨象される。これによって差異の同一性が確保され、それにもとづいて、感覚Sが、その感覚に到達するまでに通過した最小差異ΔSの総和として規定される。

しかしここには問題がある。つまり「S=ΔSの総和」は成立しないのだ。

精神物理学はΔSを実在するものの量とみなしている。しかしそもそもそれは実在しない。なぜなら、前提として、実在するもの同士の間にはそれらを分割する間隔が存在するが、感覚Sと新たな感覚S'の間には、そうした間隔は存在しないからだ。

精神物理学は、量や刺激を測るように質や感覚を計測しようとする。ΔSを導入するにいたったのも、まさにそうした見方のゆえだ。しかしここにはひとつの錯覚、つまり、ある感覚が別の感覚の原因として働くという錯覚がある。

物理学というものは私たちの内的状態の外的原因を計算にかけることをまさにその役割とするもので、これらの内的状態そのものにできるかぎり関わるまいとする。絶えず、かつ断固として、物理学はそれらをそれらの原因と混同する。だから、物理学はこの点に関しては常識の錯覚を奨励し、誇張しさえするのだ。こうした質と量、感覚と刺激との混同に慣れ切ってしまい、いつかは科学が後者を計測する通りに前者を計測しようとするようになる時が来るのは避けがたい運命だったが、そうしたことこそ精神物理学の目標だったのである。

この点に関してはベルクソンはいいポイントを突いている。私たちの感覚が刺激の積み重ねによって成立しているわけではないことは、普段の経験を内省すれば簡単に見て取れる。特にこのことは人間的な感情(快不快)について当てはまる。フランス料理も毎日食べれば飽きるだろうし、美人も100回見れば凡人と映るだろう。逆に一目ぼれの場合もある。快不快が質的なものであり、刺激量の多さに比例するわけではないことを教えてくれる。

意識は「純粋持続」として存在する(というフィクション)

次にベルクソンは、感覚だけでなく私たちの意識も質的なものだと主張する。

ここでのベルクソンのポイントを簡単にまとめると、大体次のような感じだ。

意識は感覚と異なり、純粋持続として存在している。しかし反省的に捉えられるとき、意識は記号によって等質的に表現され、真の持続=真の意識からは程遠くなってしまっている。真の意識は、記号に定着させるような思考ではなく、「自己自身に立ち返って精神集中するような思考」において初めて捉えられるのだ。

でも本当にそうなのか?

このようにベルクソンは主張するが、でも本当にそうなのだろうか?

ヒュームは『人性論』で、意識は本質的に確信として認識される以外にないと論じていた。また、ニーチェも、私たちは自分の意識構造を、想像もしくは現象以外のものとして受け取ることはできないと論じていた(『権力への意志』)。

内的「知覚」のほんとうの経過は、諸思想、諸感情、諸欲望の間の、主観と客観との間の因果的結合は、私たちからはまったく隠されており—そしておそらくは一つの純然たる想像であろう。こうした「見せかけの内的世界」は、「外的」世界とまったく同一の形式や手続きでもって取りあつかわれている。私たちは「事実」なるものにけっして突きあたることはない。

ニーチェがベルクソンを意識していたかどうかに関わらず、この批判はベルクソンについてよく当てはまる。なぜなら「目が目それ自体を見ることができない」ように、意識が意識それ自体を見ることはできないからだ。

意識がどのようなものとして存在しているか?この問いに「真の正解」は存在しない。私たちはそれについての一定の共通見解をもつことができる。しかしそれは真理とは何の関係もない。

意識のありようについては共通了解をもつことができる。これは真理とは無関係。

ともあれ、ベルクソンのいう純粋持続は何かについて、一応確認しておこう。

持続には2種類ある。ひとつは純粋持続であり、もうひとつは空間の観念が入り込んでいる持続だ。

純粋持続を簡単に定義すると、それは自我が現在の状態と先行する状態を分離することを差し控えるときに、私たちの意識状態が取る形態のことを指している。

意識は、純粋持続としては、「区別のない継起」として存在している。つまり純粋持続としての意識は質的な諸変化の継起であって、絶対的な異質性、諸要素の相互浸透と考えることができる。

区別のない継起というものを考えることができる。しかも、その各々が全体を表し、ただ抽象することのできる思考にとってのみ全体から区別され、分離される諸要素の相互浸透、緊密な結合、内的組織化として考えることができる。

純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の傾向性もなく、数とは何の類縁性もないような質的諸変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう。

しかし、私たちは日常的な空間の概念を暗黙のうちに純粋持続のうちへと持ち込んでしまい、質的な変化のつながりを、お互いに排他的な諸部分の連鎖として把握し、持続を空間的な広がりとして捉えてしまう。こうして表象される持続が第2の持続にほかならない。

要するに、私たちが時間を空間のなかへ投影し、持続を拡がりとして表すために、継起の方も私たちにとって、その諸部分が相互浸透することなしに接し合っているような一つの連続線ないし連鎖という形態をとるのである。

私たちの観点からすれば、時間も意識と同じく純粋持続だ。しかし常識と自然科学は、時間を空間的・等質的な記号として捉えてしまい、持続としてのあり方を捨象してしまうのだ。

そのことは力学を見るとよく分かる。力学は、完結した事実を表す代数方程式を用いるため、たえず形成されつつある持続や運動を表すことができないのだ。

日常の生は純粋持続を切断しようとする

ベルクソンによれば、私たちが純粋持続を分断し記号に固着させようとするのには理由がある。それは、日常の私たちの生がそうすることを好むからだ。

「表面的な自我」の生は空間のうちで繰り広げられ、継起している感覚は分離させられる。そして、感覚が分離されるとき、そうした外在性が私たちの意識にまで響き渡ってしまう。

こうして意識は、純粋持続を捉える内的自我を次第に見失い、社会生活に合う表面的自我がそれに取って代わるようになる。意識は区別しようとする欲望に促され、記号を通じてしか現実を認識しなくなる。かくして意識は表面的自我を好むようになり、次第に根底的自我を忘却してしまう。

意識は、区別しようとする飽くなき欲望に悩まされて、現実の代わりに記号を置き換えたり、あるいは記号を通してしか現実を知覚しない。このように屈折させられ、またまさにそのことによって細分化された自我は、一般に社会生活の、特に言語の諸要求にはるかによく適合するので、意識はその方を好み、少しずつ根底的自我を見失っていくのである。

とくに表面的自我は言語によく適合する。言語は社会生活の条件である一方、個人的で捉えがたい印象を「覆い隠してしまう」性質があり、感覚があたかも不変であるかのように信じさせてしまうのだ。

私たちの心の奥底では、諸単位を相互浸透させ、相互に一体化させる有機化が続けられている。そのことは私たちが深い自我に入り込んでいけばよく見て取ることができるにちがいない。

原理的に言って、私たちは自分の意識が諸単位の合成として成立しているか否かについて絶対的な解答を与えることはできない。それは答えをもたない性質の問いだ。ベルクソンは純粋持続を諸単位の相互浸透と定義することでこの問題を巧妙に回避しているが、事態を適切に解明しているとは言いがたい。

自由な行為=相互浸透する意識状態が外へと現れたもの

次にベルクソンは、純粋持続の観点から、自由について論じている。

ベルクソンによれば、持続のうちで私たちはそもそも自由だ。自由についての問題が現れてくるのは、持続を記号化するからにすぎない。したがって記号化を止め、相互に浸透しあう意識状態に同化すればよい。そうすれば私たちは自由になる。そうベルクソンは言う。

自由な行為とは、相互に浸透している意識状態が、そのままの形で意識の外へと現れたものを指している。

相互に浸透し合い、強化し合うような諸状態の動的な一系列が形成されるとき、あとは自然に自由行為が現れるにいたる。そして、そうした系列が根底的自我と同化する傾向が増すほど、行為はそれだけ一層自由となるだろう。

こうして相互に浸透し合い、強化し合うような諸状態の動的な一系列が形成され、自然な進行によって自由行為へ至るようになるだろう。

実際、自由な決断は心全体から出てくる。だから、行為は、それが結びつく動的系列が根底的自我と同化する傾向を増せば増すほど、それだけいっそう自由なものとなるであろう。

しかしベルクソンによれば、私たちが自由な行為を行うことはとても難しい。普段私たちは日常性のうちに没入しており、そこから脱却することは難しいからだ。

私たちが自由行為を行うことができるのはきわめて稀なことだ。なぜなら私たちの日常の行動を導いているのは、たえず生成しつつある感情ではなく、感情を固着させるイメージだからだ。感覚が記憶のうちに固着させられるために、外界からの印象はほとんど反射に近い行為を引き起こすだけになってしまうのだ。

感覚、感情、観念が記憶のなかで固定化されるおかげで、外部からの諸印象が私たちの側に、意識的で知性的でさえありながら、多くの面で反射的行為に似た行動を引き起こすということも、これで分かるであろう。

このことは次のような例を考えれば分かりやすいだろう。——あるスタート地点Mから出発して、Oから分岐する2つの可能性XとYがあるとする。

常識と自然科学は、私たちがOにおいて初めてXまたはYの選択に直面すると考える。しかしそれは根本的に間違っている。なぜなら、Xを選択したことのうちには、Oに到達するまでの間に、XとYのどちらに進んで行くかについて、すでに決定してしまっていることが前提として含まれているからだ。

Xに決めたということを経験が示したのだとすれば、O点に置かれるべきものはどっちつかずの活動性ではなく、外見的にはためらっているように見えたにせよ、まさしく前もってOXの方向に向いていた活動性なのである。

ベルクソンは、後の著作である『創造的進化』にて、第一の活動性である「生命のはずみ」(エラン・ヴィタル)が、生命の進化全体のプロセスを本質的な仕方で規定しており、自由は新たな形態を創造するような進化のうちで発現するのだ、というように論じている。ヘーゲルのように自由を人間的欲望との相関性のうちで現れる“感度”として捉えるのではなく、獲得されるべき生の本来的なあり方として位置づける点に、ベルクソンのいう自由のポイントがある。

悟りと決意の哲学

本書に現れているベルクソンの議論をシンプルにまとめると、悟りと決意の哲学といえるだろう。

世俗にまみれた自我は“頽落”していて、真の自我に目覚めていない。そこから脱却するためには心の内奥を直視して、ただひたすら純粋持続を見て取ることが必要だ。そうすれば真の自由まではあと一歩、持続のうちから行為すればいい。そのとき真のあり方に目覚めた自我はすでに自由を体現してしまっているのだ。

ベルクソンのこの議論は、いかにもテツガク、と思わせる。何を言おうとしているかもイメージしやすい。しかし自由論としては原理を欠いた空論だ。

近代哲学者たち、とくにホッブズルソーヘーゲルベンサムミルは、私たちが自由を実現するために解決しなければならない根本的な問題として、ともにエゴイズムの相克をあげていた。

仮にベルクソンのいうように、自我が純粋持続をそのままの形で外に現すことができたとしよう。そしてそれを簡単に可能とする方法が発見され、万人が普遍的にそうすることができるようになったと仮定してみよう。

まさにそのとき、エゴイズムの相克の問題が立ち現れてくる。自我同士は「万人の万人に対する闘争」という自然状態に陥り、その結果、社会全体に不平等が行き渡る。万人は専制君主のもとで平等となり、自由は限られたごく一部の人間の特権となってしまう。この矛盾(ルソー)を解決する方法を示すことが自由論における根本問題であり、近代哲学者はともにこの問題に取り組んでいた。ベルクソンの議論は、こうした社会論の文脈を一切反映していない。

自然状態については、こちらでも解説しました → 「自然状態」って何ですか?

ヘーゲルの自由論と比べてみると…

ベルクソンは、自由を個人の意識における事象としてのみ捉え、私たちの関係性のうちに位置づけていない。この点でベルクソンの自由論は決定的に遅れを取っている。このことはヘーゲルの自由論と比較してみるとよく分かる。ヘーゲルは『法の哲学』で次のように論じていた。

私たちが欲求を満たして自由を実現するためには「所有」が必要であり、所有は、他者がそれを私のものとして承認してくれることを条件とする。その意味で、所有が帰属する人格を相互に承認しあうことが、自由の本質的な条件である。

ここから取り出せるポイントは、少なくとも2つある。

  1. 自由は、欲求との関係で立ち現れる
  2. 自由は、他者からの承認を必要とする

詳しく言うと以下の通りだ。

1.私たちは、無意識にもしくは強制的にする(させられる)行為について自由を感じることはなく、したい行為を行うときに自由を感じる。たとえば、オリから脱出したときに自由を感じるのは、腱や筋肉が物理的に動くようになったからではなく、そこから脱出したいという欲求があったからだ。もしそうした欲求がなければ自由は感じない。仮にオリの外にライオンがいるとして、オリから無理矢理出されたとしたら、確かに物理的には動くようになるが、それは強制だと感じるはずだ。この意味で、自由は私の欲求に相関して確信されるものだといえる。

2.行為によって欲求を満たすとき私は自由を感じる。欲求を満たすためには、その欲求が向かう対象が必要となる。私はその対象を手に入れる。しかしただ持っているだけでは誰かに奪われかねない。その対象が稀少であればなおさらだ。このことは各人に対して当てはまる。そこで、各人が自由を享受できるようになるためには、各人が互いに所有をなす人格であることを承認しあわなければならず(人格の相互承認)、一切の社会制度は、この原理に基づいて打ち立てられなければならない。

私にはヘーゲルの議論は、かなり納得のいく原理を示しているように思える。これと比較すると、ベルクソンの議論にはヘーゲルが行ったような社会制度についての議論が欠けており、何を根拠にそう言えるのかほとんど分からない。ベルクソンがそう言っているだけ、という感は正直なところ否定できない。

『法の哲学』はこちらで解説しました → ヘーゲル『法の哲学』を解読する(1)