バタイユ『エロティシズム』を解読する

本書『エロティシズム』L’Érotismeは、フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)の代表作だ。1957年に出版された。

本書のテーマは、その名の通りエロティシズムだ。エロティシズムの本質、意味は何か。人間の性と動物の性のあり方はどう違うのか。美の本質はどこにあるか。本書でバタイユはこうした問題について論じている。

バタイユは本書でいたってマジメに、かつ真正面からエロティシズムを扱っている。バタイユがここでエロトークを行おうとしているわけではないことは頭の片隅に置いておいてほしい。

エロティシズムは人間に固有

さて、冒頭でバタイユは次のように言う。

人間と動物は、ともに性活動を行う。しかし人間だけが性活動をエロティックな活動にした。エロティシズムは人間に固有であり、動物には見られない。それは動物的・本能的な生殖活動とは本質的に異なるものだ。

正確な定義を求めるのならば、たしかに生殖のための性活動から出発せねばならないだろう。というのもエロティシズムは、その特殊な一形態なのだから。生殖のための性活動は有性動物と人間に共通の事柄なのだが、しかし見たところ人間だけが性活動をエロティックな活動にしたのである。エロティシズムと単純な性活動を分かつ点は、エロティシズムが、生殖、および子孫への配慮のなかに見られる自然の目的〔程の保存・繁栄)とは無関係の心理的な探究であるというところなのだ。

確かに、動物にとっての交尾と、人間にとっての「それ」(ここでは「エロス的行為」と呼んでおきたい)はきわめて異質だ。エロス的行為が交尾の延長線上にあるとしても、生殖ではなく快楽を目的とする場合も確かにあるし、むしろそれが主な目的になっていると言えなくもない。

動物は生殖活動としての交尾しか行わない。エロス的行為を行うのは人間だけだ。エロス的行為と交尾は、生物学的に共通点があるとしても、その意味や価値という点では本質的に異なるものだ。そうバタイユは考える。

連続性へのノスタルジー

バタイユいわく、生殖は私たちの存在(あり方)を不安定なものとする。生殖は存在を孤独へと投げ入れ、不連続なものとする。

エロティシズムは、いわば存在と存在の間の“深淵”を超えて、失われた連続性を回復しようとするノスタルジーから生じる。それは初め肉体的エロティシズムとして、次に心情的(精神的)エロティシズムとして現れる。つまり、肉体のエロティシズムが安定化することから、精神のエロティシズムが生じてくる。

この連続性へのノスタルジーがエロティシズムを形作っている、とバタイユは言う。

孤独を超えてつながろうとする欲望、これがエロティシズムの根本にある。私たちにとって恋が苦悩をもたらす理由はここにある。つまりそれは結局のところ不可能なものを追求しているからだ。

恋の感情は「彼女の心を手に入れられたなら、孤独なお前の心は彼女の心と一体になれるだろう」と何度となくささやきかけてくる。それは叶えられない約束ではある。しかし、恋人たちの間では、それは狂気としての激しさをもって結実することがある。

愛する者のなかに透けて見えるもの … それは、恋人からすれば解放と映る存在の連続性のことである。その外観には、不条理な面もあれば、ひどい混合もある。しかし不条理、混合、苦悩を通して、奇跡のような真実が現れるのだ。結局、恋愛の真実においては何も空しくはない。恋人にとって(たしかに恋人にとってだけだが、そんなことは重要ではない)、愛する相手は存在の真実に匹敵する。

人間は“禁止”をみずからに課している

バタイユいわく、エロティシズムの本質は禁止の侵犯にある。

では、ここでいう禁止の内実は何だろうか?それは暴力の禁止だ。

人間社会は基本的に労働の社会だ。労働は現在の欲望を抑える代わりに後日の利益を約束してくれる。労働は人間社会が存立するための条件であり、労働のためには暴力の禁止が必要となる。そうバタイユは考える。

一言で言うと、人間は労働によって動物と異なるようになったのだ。と同時に、人間は禁止という名で知られている制約を自らに課した。

たいがいの場合、労働は集団の要件である。そしてその集団は、労働にあてられた時間には、伝染性の過剰の運動に対抗しなければならない。じっさいこの過剰の運動の最中には、過剰への、したがって暴力への、直接的な埋没以外何も存在しないのだ。それだから、ある部分労働に専念する人間集団は、禁止という面で定義される。人間集団とは本質的に労働の世界なのであるが、もしも禁止がなかったならば人間集団はこの労働の世界にはならなかったであろう。

不安のなかで、禁止されているからこそ燃える

禁止されているからこそ、その対象は私たちにとって欲望の的となる。バタイユいわく、この禁止を侵犯することにこそ、エロティシズムの核がある。

ただし、単なる侵犯では足りない。侵犯に不安がともなうことで初めてエロティシズムが成立する。そうバタイユは言う。

侵犯は禁止そのものを無くすわけではなく、それをいわば一時的に解除するものだ。

私たちは禁止を侵犯するとき、不安を感じる。不安のなかでこそ私たちは禁止の存在を意識する。禁止の侵犯を達成すると、今度はその禁止を楽しむために、あえて禁止を維持する。 「禁止は侵犯されるために存在している」のだ。

エロス的行為は、それが労働の世界とは異なる空間で行われるからこそ、エロス的な意味を帯びる。禁止があるからこそ欲望は燃え上がる。もし一切の禁止がなく、何の不安も感じなければ、おそらくエロス的行為は動物の性活動と何ら変わらなくなってしまうはずだ。バタイユが言うのはそういうことだ。

禁止を不安のなかで侵犯する欲望がエロティシズムの魂。

人間の欲望は、禁止に無関心な動物が欲したような対象には向かわないのだ。人間の欲望が向かう対象は、《禁止》されているのである。この対象は聖なるものなのだ。この対象に重くのしかかっている禁止が、この対象を人間の欲望に差し向けるのである。

不安が人間というものを形作っているように思える。いや不安だけではない。乗り越えられた不安、不安を乗り越えることが人間を形作っているように思える。

人間において禁止は、快楽を明示せずして現れることは絶対にないし、禁止の感情なくして快楽が現れることも絶対にない。

「不倫」のエロス的な響きの理由

ここでのバタイユの議論を踏まえると、私たちが「不倫」にエロス的な感覚を覚える理由を以下のように見て取ることができる。

  1. 婚姻関係の一時的な侵犯(関係の破棄ではない)
  2. 誰かに知られることに対する不安

不倫は婚姻関係を前提として初めて成り立つ。婚姻関係を維持しつつ、パートナーに内緒で別の異性と親密な(特に肉体的・性的な)関係をもつとき、私たちはこれを不倫と呼んでいる。同棲中でまだ結婚していない場合は、浮気とはいっても不倫とはいわない。

また、不倫は誰かに知られると社会的に大きなダメージがある。職場ではウワサになるかもしれないし、パートナーからはバカ高い慰謝料を請求されるかもしれない。そうした危険性を犯して行うゲームだからこそ、不倫にはエロス的な響きがつきまとうのだ。

「押すな」ボタン

不倫が分かりにくければ、いわゆる「押すな」ボタンを思い浮かべるといいかもしれない。

押すなボタンは、それを押したら何か破滅的な事態になることを知っているのに、どうしても押したくなってしまう。別に押さなくてもいいのに、押してくれと言わんばかりに、ボタンの側から迫られる感覚を覚えてしまう。

実際にはこんなボタンは存在しないはずだが、禁止を超えることに対する不安と危うさがエロティシズムを成り立たせていることを象徴的に示してくれている。

ちなみに右上のボタン、気になる人もいるかもしれないが、押すとメチャクチャ大変なことになるので、絶対に押さないよう気をつけてほしい。

俗なる世界と聖なる世界

次にバタイユは、人間社会を俗なる世界聖なる世界に区別する。前者は労働の世界であり、後者は祝祭の世界だ。

バタイユいわく、エロティシズムは聖なる世界に属している。祝祭は労働によって蓄えた富を“蕩尽”する(メチャクチャ派手に散財する)。労働の世界にある制限を否定し、そこにいる人びとの衝動をあふれ出させる。

バタイユによれば、無際限の浪費であるという点で、エロティシズムは祝祭と「死」に共通している。

エロティシズムと祝祭が結びついていることは何となく理解できる。しかしエロティシズムと「死」は一体どう関係しているのだろうか?

ここでバタイユが着目するのが、供犠(くぎ)だ。

供犠

供犠は神に生けにえを捧げる宗教儀式のことだ。歴史的には、古代アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸など世界各地で行われていた。人間を生けにえに捧げることは人身御供(ひとみごくう)と言われ、捧げられた人間は人柱(ひとばしら)と言われる。

有名なものとしては、アステカで行われていた人身御供がある。これに関してはバタイユも別の著作『呪われた部分』で言及していた。

アステカでは、太陽神ウィツィロポチトリに雨乞いや豊穣を祈願するための人身御供が行われていた。神官が生け贄の胸を石のナイフで切り裂き、心臓を取り出して神に捧げる。生け贄に選ばれた人間は捕虜や奴隷だけでなく、少年少女の場合もあった。いまから考えるときわめて残酷でグロテスクだが、当時は神聖な儀式として重要な意味をもっていたらしい。

では、供犠の意味は何だろうか?

バタイユいわく、供犠は生と死の連続性を垣間見せることで、私たちに存在の連続性を想起させる。供犠における流血はそのことを象徴的に示している。つまり、供犠は禁止の宗教的な侵犯であり、「死」という聖なる世界への禁止を一時的に解除してくれるものなのだ。そうバタイユは言う。

死は、動物の本質である侵犯の特性を完全なものにする。死は、動物という存在の深部に含まれている。流血の祭儀においては、この深部が開示されるのだ。

こう言われると「なるほどそうなのか」と思うひともいるかもしれないが、バタイユの主張をうのみにするべきではない。

確かにバタイユの言うように、供犠は生と死の連続性を垣間見せるものだったかもしれないが、すべての供犠がエロティシズム的なものだったとは限らない。もしかしたら施政者が自分の権力を示すために人身御供を利用したことがあったかもしれない(まったく無いほうが不自然だ)。

バタイユは自信たっぷりに論じているが、史実に関する分析については、とりあえずペンディングにしておくのが賢明だ。

宗教とエロティシズムの関係

バタイユによれば、エロティシズムは当初宗教の領域において現れた。いま見た供犠がその代表例だ。

バタイユいわく、かつて祝祭と宗教とエロティシズムはそれぞれ密接な関係をもっていた。祝祭では俗なる世界の禁止が取り外され、生の豊かさが蕩尽される。普段は封印されている暴力が解放され、性が解放される。こうした状態をバタイユはディオニュソス(バッカス)的な暴力と呼んでいる。

祝祭という裏側の世界においては、狂操が真理の瞬間になっている。すなわち狂操のさなかに、裏側の真理がその逆転させる力を明示するのだ。この裏側の真理は、無制約の融合という意味を持っている。それは、バッカス神的な暴力なのである。誕生期のエロティシズムのスケールは、まさにバッカス神的な暴力であった。エロティシズムの領域は、発端においては宗教の領域だったのである。

キリスト教が宗教とエロティシズムの関係を否定した

バタイユいわく、イエス・キリストのはりつけの意味は、実は侵犯にあった。しかしキリスト教はそのことを否定(無視)したため、供犠とエロティシズムとの関係は意味を失ってしまった。

こうして、キリスト教において、供犠の宗教心とエロティシズムの両立が不可能となってしまったのだ。そうバタイユは主張する。

このように侵犯を無視してしまったために、古代人がおこなっていた供犠とエロティシズムの関連づけは意味を失ってしまった。

キリスト教世界において価値観が転倒され、キリスト教の宗教性が侵犯の精神と対立するようになった。

キリスト教は、当初教会が見なしていた「聖なるもの」を「俗なるもの」から切り離したが、その際、エロティックなものを「俗なる世界」の側へと追いやった。その結果、キリスト教会は聖なる存在を呼び起こす宗教的な力を次第に失ってしまった。

エロティシズムは罪となることを止め、侵犯にこそエロティシズムの精神があることが忘れられてしまった。俗なる世界において、もはや動物的な「機械仕掛け」しか存在しなくなった。

聖なる領域の全体は、不浄と清浄で構成されていた。キリスト教は不浄を捨て去ったのだ。キリスト教は罪悪を捨て去ったのだ。罪悪がなければ、聖なるものは考えられなくなる。というのも、禁止の侵犯だけが聖なるものへの到達を可能にしているからだ。

欲望の対象としての女性

次にバタイユは、エロティシズムの観点から、男性にとっての女性の意味・価値について論じていく。

確かに原則的には、女性が男性の欲望の対象となるように、男性も女性の欲望の対象となる。しかし多くの場合、性的に追求するのは男性の側からだ。

女性は、魅力の程度に応じて男性の欲望の的になる。女性そのものが欲望をかき立てるというよりも、女性が男性の欲望に自分から身をさらすのだ。

女性は、化粧によって自らの美を配慮し、自らを男性の欲望の対象と見立て、彼の視線のもとへと差し出す。これと同じように、女性が服を脱いで裸になるときは、自らをまったく個人的な享受の対象として露わにする。裸は第一に「美しさ」と「魅力」という価値を示すものなのだ。

女は、化粧への配慮によって、また化粧が際立たせる美への気遣いによって、自分自身を一個の対象に、客体に見たて、それを絶えず男の注視へ提示する。同様に、服を脱いで裸になるときには、女は、男の欲望の対象を、つまり男の嘆賞に個人的に提示された一個の判明な客体を露にするのである。

この裸体のうち、まずはじめに現れるのは、そのありうべき美しさであり、個人的な魅力である。それは、一言で言えば、対象の、客体の、相違のことなのだ。他と比較しうる一個の対象、客体の価値のことなのだ。

これは男性にとってよく分かるはずだ。

男性にとって女性は、一方で人格として等しい存在として映り、他方ではエロス的な魅力として現れる。そのとき女性の身体はただのタンパク質と脂肪の塊ではなく、美しさや魅力という“エロス的価値”と映る。

そうした女性はパートナーの場合もあるし、娼婦・売春婦の場合もある。不倫の場合もあるだろう。ただ、いずれにせよ本質的なのは、女性の身体は日常の世界では禁止されており、不安のうちで男性による侵犯の対象となり、欲望の的となることだ。

宗教的な売春、低俗な売春、痛ましい売春

バタイユいわく、化粧を発展させてきたのはただ売春だけだった。化粧は売春の意味をもち(もちろん現在ではそんなことはないが)、売春婦は逃げるそぶりを見せて男性の欲望をかき立てた。その意味で売春は“遊び”だったのだ、とバタイユは言う。

かつての神殿における高級娼婦は、絶対に羞恥心をもっていたとは言えないかもしれないが、少なくともそう振る舞っていたからこそ、現在の売春婦のような低俗さを免れていたように思う。

羞恥心があったからこそ、禁止は忘れられなかった。逃避のそぶりがあったからこそ、侵犯の意識がつねにつきまとっていた。現在の売春婦は羞恥心をもっているかもしれないが、逃避のそぶりは見せない。低俗な娼婦は禁止と無縁であるからこそ、動物の地位に落ちてしまうのだ。

近代の娼婦は不安とは無縁だ。不安がなければ、羞恥心など感じられないのである。

羞恥心のおかげでこそ禁止は忘れられないでいるのであり、羞恥心があるからこそ禁止の乗り越えが、禁止への意識のなかで生起しているのである。羞恥心が完全に消えているのは、唯一、低俗な売春においてだけなのだ。

低俗な娼婦は、禁止と無縁になるがゆえに動物の地位に転落してしまう。禁止がなければ、私たちは人間的な存在ではなくなるのだ。低俗な娼婦は、雌豚に対して多くの文明が露にする嫌悪感と同じような嫌悪感を一般に惹き起こしている。

同様に、売春が経済的な貧しさからなされた場合、痛ましいものとなってしまう。なぜならそこに不安はあっても、逃避が伴っていないからだ。

売春の態度が逃避の態度をうながし、逆に逃避の態度が売春の態度をうながしたりするのだ。しかし、こうした遊びは経済的貧窮によって歪められてしまう。逃避の運動を停止させるのはもっぱら貧しさなのだが、そうなると売春は痛ましい行為になってしまう。

無理に頑張っている感がにじみ出ている売春婦ほど痛々しいものはない。それは彼女が、男性に対して、侵犯をめぐる駆け引きのゲームの対等なプレイヤーとしてではなく、生活のためにみずからを犠牲にするよう強制されている労働者としてしか映らないからだ。

バタイユの言うように、エロティシズムは労働の秩序とは異なる秩序にて成立するエロスゲームだ。侵犯の楽しみへと誘う女性にエロティックな感情が燃え上がる一方、貧困から強制される売春、あるいは事務的な対応(いわゆる「マグロ」)がエロティシズムを冷ましてしまうのは、まさしくその点に根拠がある。労働の雰囲気を感じさせた瞬間、エロティシズムのゲームは“堕落”せざるをえないのだ。

美を求める理由

最後にバタイユは、私たちが美を求める理由について論じている。

なぜ私たちは美を求めるのだろう?この問いに対してバタイユは、その美を汚す(けがす)ことで喜びを感じることができるからだ、と答える。

美しい顔がなぜ魅力を発揮するのか。それは、美しい顔が衣服が隠しているものを予想させるからだ。問題なのはその美を汚すことにある。女性の醜さが男性を意気阻喪(いきそそう)させる理由、それは醜さが、もはやそれ以上汚しようのないものだからだ。

人間性の本質は禁止にある。エロティシズムにおいて禁止は侵犯され、人間性は冒涜され、汚される。美が大きければ大きいほど、侵犯の意味もより深まるのだ。

男にとって女の醜さほど意気阻喪させるものはない。女の醜さがあれば、性器や性行為の醜さが際立たなくなるのである。醜さはそれ以上汚しようがないという意味で、そしてエロティシズムの本質は汚すことだという意味で、美は第一に重要なのである。禁止を意味している人間性は、エロティシズムにおいて侵犯されるのだ。人間性は、侵犯され、冒涜され、汚されるのだ。美が大きければ大きいほど、汚す行為も深いものになってゆく。

エロティシズムの本質

本書におけるバタイユの中心のポイントは、エロティシズムの本質は禁止の侵犯である、という点にある。

なぜ私たち、特に男性は異性に対してエロティックな欲望をもつのだろうか。それは相手が禁止された存在であるからだ。なぜ私たちは美を欲するのか。それは美をけがすことに喜びを感じるからだ。禁止がなければエロティシズムは成り立たない。そうバタイユは論じていた。

男女で差がありそう

この言い方は、男性にとってはかなり納得できるものだ。男性にとって女性は、一方では人格として等しい存在として、他方では侵犯の対象として立ち現れてくる。一線を超えることの「危うさ」がエロティシズムの核をなしているという言い方に納得できる男性は多いはずだ。

ただ、バタイユの言い方は、女性にとってはピンと来ないかもしれない。男性と比べるとかなり個人差があると思う。それなりに分かるひともいれば、ほとんど分からないひともいるだろう。

バタイユはひとりの男性だ。女性にとってのエロティシズムをうまく言えているとは限らない(というか、むしろアヤシイ)ので、ぜひ自分で検討してみてほしい。ジェンダー論と比較すると、女性のエロティシズム論はあまりに少ない。この点については、哲学よりもむしろ文学のほうが進んでいるような気がする。

歴史的にどうのではなく

バタイユは本書で歴史的な事例をいくつも取り上げて議論を行っている。しかし大事なのは史実に関する描写ではなく、私たちにとってもバタイユの議論が納得できるか、つまり本質的かどうかだ。

自分のエロティシズム的な経験を内省して、確かにこれは他のひとにも当てはまるはずだ、というポイントを取り出すこと。そのためにバタイユの議論が使えればいいのであって、本書の議論を覚えたところで別に意味があるわけではない(これはバタイユに限ったことではないが)。