アーレント『革命について』を解読する

今すぐポイントを確認したいひとは、こちらも読んでみてください → アーレント『革命について』を超コンパクトに要約する

ハンナ・アーレント(1906年~1975年)はドイツ出身の政治哲学者だ。主著としては本書『革命について』(1963年)のほか、『人間の条件』や『全体主義の起源』などがよく知られている。

本書でアーレントは、歴史上最も有名な2つの革命、すなわちフランス革命とアメリカ独立革命についての考察を通じて、自由論を展開する。

自由とは何か?本書の解答をひとことで言うと、自由とは公的領域への参加を意味する。自由と似た概念に解放liberationがある。解放は自由にとって必要な条件だが、それだけでは十分ではない。自由は解放を踏まえ、共和的な政治体を基礎として創設されなければ存在しないものであり、ただそれを可能とする革命のみが真の革命に値する。これが本書の全体的な主張だ。

アーレントの文章はかなり読みにくい。変にもったいぶった言い回しが多いため、ポイントがどこにあるのかを見て取るのが結構難しい。ただ、表現の難しさとは裏腹に、ポイントはかなりシンプルで、ブレがない。なのでムダに細かい表現はとりあえずパスして、全体の構造を捉えることを心がけて読めば、さほど問題なく理解できるはずだ。

本書の前にアリストテレスの『政治学』を見ておくといいかも

別にアーレントがズバリそう言っているわけではないが、本書は明らかにアリストテレスの『政治学』を意識している。構図的にそっくりなので、まずはこっちを読んでおくとアーレントの感じがつかみやすくなるかもしれない。

『政治学』はこちらで解説しました → アリストテレス『政治学』を解読する

少しだけネタバレすると、家族は日常的な「必要」(要求)に規定されているのに対して、ポリスはそれを克服することの上に成り立っている。家族は必要の空間であり、ポリスは「最高善」を目指す公的空間である、というのがアリストテレスの直観だ。アーレントは『人間の条件』でもこの直観を参考にしている。

では早速見ていくことにしよう。

解放と自由は等しくない

アーレントいわく、中世まで貧富の格差は人間に生来的なものであり、人為的なものではないと考えられていた。しかし近代に至ってそのことに疑いの目が向けられるようになった。革命ではこのことが重要な意味をもった。革命の“出演者”たちには理解できなかったが、そのドラマの筋書きはまさに自由の出現だった。

革命の目的は自由であり、自由を目がける限りにおいて、それは単なる反乱ではなく革命ということができる。そうアーレントは言う。

その時になって人びとは、貧困が人間の条件に固有のものであるということを疑いはじめ、境遇によってか力によってかまたは欺隔によってか、ともかく貧困の足伽から自由になることのできた少数者と貧困にうちのめされた労働大衆との差が避けられないものであり、永遠のものであるということに、疑問をもちはじめたのである。

あとで革命だとわかった事件に参加するまで、俳優たちは新しいドラマの筋書きがどう展開するのか少しの予感ももちあわせていなかった。しかし、いったん革命がそのコースを走りはじめると、それにまきこまれた人びとが自分たちの企ての勝敗を知るずっと前に、物語の新しさとその筋書きの奥深い意味が俳優にも観客にも明らかになりはじめた。筋書きについていえば、それは疑いもなく自由の出現であった。

アーレントはここで次の区別を置く。それは解放と自由が本質的に異なるものである、というものだ。両者は動機も異なれば目的も異なる。解放はあくまで自由の前提にすぎず、自然と自由をもたらすわけではない。そうアーレントは言う。

解放liberationと自由freedomが同じでないことはわかりきったことであろう。解放は自由の条件ではあるが、けっして自動的に自由をもたらすものではないからである。そして解放のなかに含まれている自由という観念は、どう考えてもネガティヴの域をでない。したがって解放への意図ですら自由への欲求とは同じものではない。

自由は創設されるもの

抑圧からの解放であれば君主政を打倒することで達成することができた。しかし自由の創設は共和的な政治体を必要とする。なぜなら、この点については後で論じるが、自由の内実は「公的領域」への参加もしくは加入のことを指しているからだ。

革命はただのクーデターや内乱とは異なる。暴力によって新たな政治体を打ち立て、自由を創設する方向へと抑圧からの解放が向かう場合においてのみ、私たちはこれを革命と呼ぶことができるのだ。

クーデタや宮廷革命が暴力によっておこなわれるという意味では、このような現象はすべて革命と共通している。それらがよく革命と混同されるのもそのためである。しかし、革命という現象が変化だけでは説明できないのと同様に、暴力だけでも説明不十分である。すなわち、ある新しいはじまりという意味で変化が起り、暴力がまったく異なった統治形態を打ち立て、新しい政治体を形成するために用いられ、抑圧からの解放が少なくとも自由の構成をめざしているばあいにのみ、われわれは革命について語ることができる。

アーレントは暴力から権力が生まれると考える。ポストモダン思想であれば「近代社会の自由は暴力・権力に基づいているので本質的に欺瞞を含んでいる」と言うだろう。しかしアーレントからすると暴力(権力)イコール悪ではない。なぜならいずれにせよ暴力は政治体を打ち立てるために必須の条件だからだ。問題はそれを濫用することにある。

フランス革命とアメリカ革命の違い(アーレント的に)

フランス革命とアメリカ革命の違いに関するアーレントの直観は、大体次のようにまとめることができる。

  • フランス革命が失敗した理由=解放にとどまり自由の創設に結びつかなかったため
  • アメリカ革命が成功した理由=解放を超えて、権力の構成に基づく自由の創設へと向かったため

とはいえアーレントはアメリカ万歳!!と言いたいわけではない。なぜなら、アメリカも次第に最初の革命精神を忘れて、個人の幸福や「世論」が政治にモノを言うようになり、イギリスの功利主義者ミル『自由論』で論じたような「多数者の専制」という形での専制政治に向かっている、というのが本書のオチだからだ。

ただ、まずは何故フランス革命が失敗したのかについてアーレントの言い分を聞いてみることにしよう。

フランス革命が失敗した理由=人びとの豊かさを求めたから

アーレントいわく、フランス革命が失敗した根本的な理由は、独裁者ロベスピエールが革命の目的を多数の人民の幸福に置いたことにある。

「幸福を目指すことの何が悪い?」と思うかもしれない。しかしアーレントによれば、欠乏している人民を必要性necessity(貧窮)から救い出し、彼らの福祉を向上させようとすることは、実のところ自由の創設には行き着かない。むしろそれは正反対の結果に行き着く。

革命はその方向を変え、もはや自由が革命の目的ではなくなっていた。すなわち、革命はその目的を人民の幸福に置くようになっていたのである。

革命の役割はもはや、自由の創設はおろか、人びとを同じ仲間の人間の抑圧から解放することですらなく、むしろ社会の生命過程を稀少性の足枷から解放し、それを豊かさの流れに変えることだった。こうして今や、自由ではなく豊かさが革命の目的となった。

同情は革命では役立たない

アーレントによれば、フランス革命によって解放され自由を実感することができたのは、実のところかなりの少数であり、貧窮にあえぐ大多数の人びとは自由どころか解放を実感することさえできなかった。

そうした下層市民に対する同情がフランス革命に関係した人たち、とくにルソーとロベスピエールにおいて決定的な意味をもっていた、とアーレントは言う。

ロベスピエールは、上層階級から下層市民に向けられる同情のもとで、様々な社会階級を国民に統一しなければならないと考えた。またルソーは、自然状態において人間は憐憫の情を抱いていると考えた。ルソーにとっては、自然状態において人間が「善」であることは明らかだった。

同情を政治理論に取り入れたのがルソーだとすれば、それを“雄弁の激情”として革命に持ち込んだのはほかならぬロベスピエールだ。

ルソーが同情を政治理論に取り入れたとすれば、それを偉大な革命的雄弁の激情をもって市場に持ちこんだのはロベスピエールであった。

しかし同情は結局のところ情熱でしかなく、確固とした制度を作ることはできない。同情は苦悩する人びとへと向けられ、彼らの意志をすくい取ろうとするが、そこで聞き取られた苦悩は、暴力を通じた活動を求めるはずだ。

同情は初めは徳を目指していた。しかしそれは正反対に、残酷さよりもはるかに残酷となりうることを自ら証明する。同情によって触発された苦悩は怒りに満ちあふれ、直接的な行動を求めるようになる。

フランス革命が失敗した理由、それは革命の目的が自由の創設から、貧窮を解決することへと向け変えられたことによって、私たちが本当の意味で自由となれる領域である政治的領域に貧窮が入ってきたことだ。

フランス革命は、自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、そのかわり、いわば不運と悲惨の破壊力を解放したのであった。

政治的手段によって人類を貧困から解放しようとすることの結末は、人びとが本当に自由でありうる唯一の領域、すなわち政治的領域に必然性(貧窮)が侵入したことであった。

フランス革命の指導者たちが同情に突き動かされた結果、「必要」(必然)が公的領域に入ってきてしまった。公的領域で自由を創設することは不可能となり、革命は暴発するテロルへと姿を変えてしまった。これがフランス革命に対するアーレントの直観だ。

確かに、ルソーは『人間不平等起原論』で、自然状態のもとで人間には同情(憐憫の情)が備わっていると言っていたが、それを政治原理としたわけではない。『社会契約論』では政府の正当性の条件として「一般意志」を置いていた。その文脈に当てはめると、同情は一般意志ではなく特殊意志の側に分類される。アーレントはルソーが同情を政治理論に取り入れたと言っているが、それはかなり一面的だ。

詳しくはこちらで書きました → 自然状態って何ですか?

次にアメリカ革命に対するアーレントの評価について見ていくことにしよう。

アメリカ革命が成功した理由=権力を打ちたて「公的領域」を作ることができたから

アーレントいわく、アメリカ革命とフランス革命の本質的な違いは権力システムの構成にある。このことを象徴しているのがアメリカ革命の頂点をなす合衆国憲法だ。アーレントは次のように言う。

アメリカ憲法の内実は市民的自由を保護することではなく、全く新しい権力システムを設立することだった。植民地がイギリス本土から遠ざかるにつれ、権力は弱体化していた。この状況を打開し、革命の権力を打ち固めることがアメリカ憲法の狙いだった。

フランス革命では、政治体の外に市民としての権利があり、それを獲得するために政治体を破壊することが必要だと考えられた。それに対してアメリカ革命では、社会の内部から自由に対する脅威が生まれてくるかもしれないと考えられたため、政府に権力を与えすぎてはならない、というようにはならなかった。

言い換えると、アメリカ革命では権力を構成することが積極的に目指された。その結果、革命の目的である「自由の創設」が達成されたのだ。

アメリカ憲法の真の目的は、権力を制限することではなく、もっと大きな権力をつくりだすことであった。そして現実的には、植民地がイングランド国王の手を離れ、権力が弱体化していたため、まったく新しい権力の中心を樹立し、正式に構成することであった。

アメリカ憲法は、結局、革命の権力を打ち固めたのであった。そして、革命の目的が自由であった以上、それは実際、プラクトンが自由の構成(constitutio libertatis)と呼んだもの—自由の創設—になったのである。

アーレントが言うには、アメリカ革命で樹立された権力の基礎は互恵主義reciprocityと相互性mutualityにあった。難しく聞こえるかもしれないが、要するにアメリカ革命では相互の約束に基づき、同盟を結ぶことで権力が設立されたのだ、とアーレントは言う。

「互いに契約し、結びあう」人びとは、互恵的関係のためにその孤立を失うのにたいして、今一つのばあいには、守られ、保護されているのは、まさに彼らの孤立なのである。

創設が一人の建築家の力ではなく、複数の人びとの結合した権力によってなされたあの決定的な時期を通じて明らかになった原理は、相互約束と共同の審議という、内的に連関した原理であった。

相互に約束を結ぶことによって、互いに等しく個的な自由を享受することができるようになる。アーレントのいう互恵主義は、まさにルソーが『社会契約論』で打ち出した「社会契約」が目指すところでもあった。アーレントは上でルソーを批判していたが、自由が相互的な約束に基づくと考えていた点で、むしろ2人の直観は共通している。

忘れられていく革命精神

ここまでアメリカ革命は何の問題もなく、順調に進展してきたように見える。しかしアーレントいわく、それは最初の地点で致命的なミスを犯していた。そのミスとは、自由の創設が自覚的になされた行為であることを人びとに意識させるためのシステム作りに失敗してしまったことだ。

人びとが自由を行使できる公的空間を確立させることができなかったため、革命者の子孫たちは次第に“革命精神”を忘れてしまったのだ。そのようにアーレントは直観していた。

アメリカはもはや、共和政が「自由の創設」を通じて自覚的に打ち立てられたものであることを覚えていない。政治思想に対する関心は革命が成功するとすぐに消え去ってしまい、その結果、革命精神も失われてしまった。これは重大な失敗だと言わなければならない。

その結果残されたのが、市民的自由、個人の福祉、そして世論である。

共和政にとっての本質である「自由な統治」は、利害の多様性や意見の相違によって特徴づけられる。確かにフランス革命においても意見は存在していたが、ただアメリカ革命だけが、意見を公的見解へと高めるための確固とした制度を作ることができたのだ。

世論は、こうした意見の相違を無化してしまう。世論の支配と意見の自由は根本的に相容れない。世論は圧倒的な力で全員一致を求め、本当の意見を圧殺する。ハミルトンやジェファーソンといった建国者たちにとって、世論が主導する政治は新たな専制支配の一形態にすぎなかったのだ。

思考(思想)と記憶の失敗によって失われたものは、明らかに革命精神だった。

革命精神が忘れ去られたのち、そのなかでアメリカに残されたものは、市民的自由、最大多数の個人的福祉、そして平等主義的、民主主義的社会を支配する最大の力としての世論であった。この変化は、公的領域に社会が侵入したこととまったく正確に対応している。

世論は、その全員一致的性格のおかげで、反対意見をも全員一致的なものにしてしまい、こうして、本当の意見をいたるところで圧殺するのである。建国の父たちが世論にもとづく支配を、暴政と同一視する傾向をもっていたのはこのためである。彼らにとって、この意味での民主政は、ただ専制の新しい形式にすぎなかった。

ジェファーソンたちも、世論の支配を前にただ手をこまねいていたわけではなかった。

アーレントいわく、ジェファーソンが最も期待していたのが、市民が公的な事柄に参加できるような制度としての「郡区」townshipとタウン・ホール・ミーティングだ。それは人びとに、自分自身が一市民としての統治参加者であることを日常的に意識させるための制度であり、アメリカ革命が自由の構成という目標を達成するためには、まさにそうした制度を作ることが必要だった。

しかし、現実にはそうならなかった。自由の構成のために作られたアメリカ憲法自身が、公的空間をただ人びとの代表者たちだけに与えていたので、人びとが公的な事柄に無関心になるのは構造上必然的だったのだ。そうアーレントは言う。

ジェファーソンが恐れていた危険から合衆国を最終的に救ったのはこの統治〔政府〕のメカニズムなのであった。しかしこのメカニズムは、人民が昏睡状態に陥り、公的事柄にたいし無関心になるのを防ぐことはできなかった。というのも、憲法そのものが、人民自身にではなく、人民の代表たちにのみ公的空間を与えていたからである。

もし革命の最終目的が自由であり、自由が姿をあらわすことのできる公的空間の構成、すなわち自由の構成(constitutio libertatis)であるとするなら、すべての人が自由となることのできる唯一の実体的な空間である区という基本的共和国こそ、実際には、このような自由の空間を人びとに与え、それを守ることを国内問題の主たる目標としたはずの大共和国の目的でなければならなかった。

この国におけるあらゆる政治活動のもともとの源泉であった郡区とタウン・ホール・ミーティングを憲法に織り込むことができず、それらにいわば死刑の宣告を与えたのは、まさに憲法の重みと、新しい政治体を創設する経験の巨大な重みのためであった。逆説的に響くかもしれないが、この国で革命精神が死滅しはじめたのは、実際、アメリカ革命の影響によるものだった。

以上がアメリカ革命に対するアーレントの評価だ。

ルソーも同様のことを主張している

ルソーをひいきしているわけではないが、あまりにアーレントがルソーを邪険に扱っている感じがするので触れておくと、『社会契約論』でルソーは、人びとが市民としての側面を失うことなく、たえず「建国の精神」を維持しておくことが、国民主権の魂であると考えていた。公共の仕事に自ら携わるのではなく、お金(税金)で面倒を逃れようとするような市民が増えると、その国家は滅亡の一歩手前である、とさえ言っていた。

ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや、国家はすでに滅亡の一歩前にある。

他の法が老衰し、または亡びてゆくときに、これにふたたび生命をふきこみ、またはこれにとって代るもの、人民にその建国の精神を失わしめず、知らず知らすのうちに権威の力に習慣の力をおきかえるものである。わたしのいわんとするのは、習俗、慣習、ことに世論である。

ここでルソーのいう「建国の精神」は、アーレントのいう「革命精神」と本質的に同じものだ。

自由は構成を必要とするという直観

アーレントの自由論は、解放と自由の本質的な違いに関する直観に基づいている。この直観は私たちを深くうなづかせるものだ。

確かにアーレントは自由を政治的な場面に制限している向きはある。自由は政治的な「活動」において発揮されるものであり、それに失敗した近代人は意識の自由へと引きこもってしまう、というのは『人間の条件』から引き継がれている見方だ。この見方はちょっと言い過ぎだ。

この「政治的自由にたいする趣味」の消滅は、個人が唯一の「人間的自由の適切な領域」である「意識の内部領域」へ退却したことを意味するものと考えてよいだろう。次いで、この領域—崩れつつある要塞ではあるが—から市民を打ち負かした個人は、今度は「個性を打ちまかす」社会に対して自分自身を守ろうとするだろう。革命以上に、このような過程が、十九世紀の地勢図ばかりか、部分的には二十世紀の地勢図をも決定しているのである。

ただ、それを差し引いても、権力の構成が、自由を可能とする公的空間の条件であるという見方は、言われてみれば確かにそのとおりだ。

単純に考えても、安定した統治のないところで、人びとが自由を享受することなど出来るはずがない。そのことはソマリアのように何十年にもわたって内戦が続いているような地域を見れば簡単に分かるはずだ。「権力は自由の敵である」というような見方は、あまりにも空疎だ。

圧政からの解放が自由に直結しないという直観は、現代の国際政治にも当てはまる。哲学の議論を現実に当てはめる際には十分な注意が必要だが、この点に関しては、まったくもってアーレントの主張するとおりだ。たとえばイラク。サダム・フセイン大統領を追放することで圧政からの解放は確かに成し遂げられた。しかしいまだに中央集権化は進まず、最低限の治安さえままならない。

もちろんフセインが大統領であり続けたほうがよかったとは言うことはできない。民主的な選挙制度を認めず、秘密警察を動員して反対派を粛正していた歴史を正当化することは不可能だ。しかし、だからといって現状のほうがマシだと言うことも難しい。アラブの春も成功したとは言いがたい。それまでの権力構造に代わる強力な自由主義権力は総じて打ち立てられず、新たな対立構造や内戦を引き起こしたにすぎないのが実情ではないだろうか?

解放は確かに一時の自由の感覚を与えてくれる。しかし自由を持続させ、実質的なものとするためには、やはりジェファーソンらの目指したような「永続的な制度」を打ち立てることが必要だ。さもなければホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」が終結することはない。アーレントの議論はそのことを見事に直観している。